1-1.王都アルカンスィエルの陥落



 フィリップの息は、弾んでいた。
石畳に、蹄の音が高く響く。
早く屋敷に辿り着かねばと、気持ちばかりが焦っていた。
アンジェラは、もう屋敷を出発しただろうか。
もうすぐ、グラディウスの軍勢が、この王都に押し寄せてくる。
信じたくはないが、まぎれもない事実だ。




 
ユースティティアの王都アルカンスィエルは、雲が垂れこめ、小雨がふり続いている。
空気が湿気を帯び、整備の行き届かない街路は、人々が捨てる場所のない廃棄物を無造作に投げ捨てるため、ひどい悪臭を放っていた。
しかも、それらは河川にも流れ込み、飲み水として使用されているため、生活環境は、劣悪としかいいようがない。
街は、いくつもの狭く汚い路地が複雑に入り組み、そこは昼間でも薄暗く、薄気味悪いものだった。
当然、犯罪の温床にもなった。
浮浪者、浮浪児、やせこけた猫が、暗がりの中から、鋭い眼で、行き過ぎる人を見つめているのだった。
しかし、今、街は、静寂に包まれている。
大多数の市民は、すでに王都を捨てて逃げた。
残っているのは、逃げる術を知らない浮浪者か、病人、老人だけだ。
恥ずべきことにジャン王は、数日前、グラディウスの軍勢が、アルカンスィエルに迫ると知るや否や、市民を捨て、親族と、とりまきの貴族を引き連れて、いち早く逃げ出したのだ。
そうと知った市民たちの、いいようのない、嘆き、怒り、悲しみ・・・。
しかし、悲嘆にくれている時間はなかった。
逃げなければ、自分たちの身が危ない。
侵略してきたグラディウスの兵士が、武器を持たない無力な市民にどういう行動を取るか、考えるだけでも恐ろしかった。
しかも、市民を守るべき王は、真っ先に逃げ出した。



 
国王陛下は、この現状をどうお考えだったのか。
国の大多数を占める平民の生活が、立ち行かなくなるほどの高い税金を課し、自らは、ブロンピュール宮殿に集う貴族たちと、贅沢三昧の日々。
頻繁に開かれる盛大な舞踏会に音楽会、大勢の貴族たちを連れての狩猟、そういった娯楽が、どれほど莫大な財産を浪費したことか。
それらはみな、国民の税金だ。
税金を費やさねばならないところは、他にいくらでもあったはずだ。
教育、医療、国防・・・。
隣国のグラディウスが、虎視眈眈と、領土拡大を狙っていることなど、わかっていたはずではないか。
栄えある、伝統ある国だから?
そんなことは、グラディウスの王が手を緩める理由になるはずもない。
怒りよりも、情けない思いがこみ上げてくる。
「国王陛下・・・」
フィリップには、一度も会ったことのない、異母兄の心中を察することはできなかった。



 軍病院を兼ねる廃兵院には、最前線から、無残な姿の負傷兵が運ばれてくる。
けれども、薬も医者も物資も、何もかもが足りない。
うめき声を上げながら、死にたくない、助けてくれと嘆き叫ぶ兵士たちを見るのは、本当につらかった。
血の匂い、すえた汗の匂い、そういったものが入り混じって、時折、吐き気を覚えるほどだった。
フィリップら士官学校の生徒は、後方支援にあたっていた。
戦地への物資の輸送、負傷兵の移送、そういった任務を通して、敗戦の悲惨さをまざまざとかみしめていた。
戦況が刻一刻と悪化し、わずかに残っていた希望も、ジャン王の逃亡と共に、無残に砕け散った。
シャコー帽をかぶり、ドルマンと呼ばれる肋骨状の糸飾りのついた軍服に袖を通し、サーベルと、ピストルを武器にして、国家への誇りを胸に敵陣に繰り出すという、フィリップがあこがれ続けた騎兵への夢も、潰えた。
疲れ切った身体で、わずかな眠りを貪るとき、いつも頭から離れないのは、アルカンスィエル郊外の、古く手狭な屋敷に暮らす病弱な妹、アンジェラのことだった。
民衆が、馬車に詰めるだけの荷物を詰め込んで、怒号を上げながら、アルカンスィエルから、我先にと立ち去る光景を目の当たりにした時、妹は・・・、妹も逃げてくれただろうか、そればかりを思った。
今朝、グラディウスのアルカンスィエルへの進軍が確定的になった時、フィリップは、もういてもたってもいれなくなった。
グラディウスの軍隊が、アルカンスィエルに押し寄せたなら、アンジェラは・・・、アンジェラは、一体どうなるのか。
気がつけば、フィリップは、屋敷に向けて、手綱を取っていた。
アンジェラが、既に屋敷を立ち去ったことを確認さえしたら、すぐに戻ってくる。
そう、ほんの少しだけだ。
金のボタンが鮮やかな、濃紺の士官学校の制服に身を包んだ、十六歳の青年は、はやる気持ちをおさえることができなかった。