9-3.マーガレット<前編>



 アウラの大農園主、アンダーソン邸での舞踏会は、盛況だった。
いくつものシャンデリアが煌めく大広間に、着飾った紳士淑女たちが一堂に会し、楽団の演奏で、ダンスを楽しみ、笑いさざめき合う声が、その場を包んだ。
その中には、小さなクリストファーを除くジョーンズ家の人々と、ニコラスの姿もあった。
ニコラスは、婚約を翌週に控えたエレノアと、カドリーユ、ギャロップを踊った。
けれども、エレノアは、ニコラスが、どこかよそよそしく思えてならなかった。
思えば、この一カ月、それまでとは違うニコラスの気配を、敏感に察知していたエレノアだった。
以前なら、時間の許す限り、結婚式の事、将来の事を、親密に話し合うというのに、この一カ月というもの、何を話していても、どこか、ニコラスは上の空だった。
そして、今夜は、踊り終われば、直ぐにエレノアの手を放して、壁際へ下がり、いつも以上にその態度が、冷淡なように思えた。
「今夜は・・・、お疲れですの?何だか、ご気分が優れないように思えますわ」
「ああ・・・、少し、疲れているのかな。近頃は、任せきれないことが多くて、会社に出向かなければならないことも、増えていてね」
と、答えるその声も、仕草も、素っ気なかった。
大広間には、ワルツの優雅な音楽が響き、着飾った人々で賑わっているというのに、エレノアの胸には、まるで恋人に見捨てられでもしたかのような、寂しさが込み上げて来る。
それでも、エレノアが気を取り直して、顔を上げ、ニコラスの気持ちを和ませる会話の糸口を見つけようと、口を開きかけた時だった。
エレノアは、ニコラスの視線が、遠くにあることに気づいた。
エレノアは、何気なく、その視線を辿った。
ニコラスの視線の先には、美しく着飾った妹、マーガレットがいた。
ワインレッドの、色鮮やかなドレスは、マーガレットの持つ華やかな美しさを際立たせていた。
眩いシャンデリアの下、魅惑的な微笑みを浮かべて、若者たちと談笑するマーガレットは、堂々とした自信に溢れていて、同性のエレノアですら、目を惹きつけられた。
エレノアの心には、抑えようのない妬ましさが、沸き上がった。
エレノアの脳裏に、一昨日のマーガレットの言葉が、甦って来る。
「今日の午後、私がニコラス・グリーンと、ターホープ・レイクの湖畔で過ごしたことは、まぎれもない事実よ、お姉さま」
信じられなかった。
信じられるはずがなかった。
けれども、ニコラスの冷めた態度と、マーガレットの魅力を目の当たりにして、もしかしたら、という思いを、打ち消すことができなくなった。
「飲み物を取って来るよ」
エレノアの傍らに立つニコラスは、そう告げて、エレノアの傍を離れていった。
エレノアが、近くの紳士に、時刻を尋ねると、懐中時計を取り出し、十時少し前ですよ、お嬢さん、と、教えてくれた。
十時・・・。
「明後日の十時、アンダーソン邸の舞踏会を抜け出して、樫の大木の下で、ふたりきりで会う約束をしたの」
一昨日の、マーガレットの声が、こだまする。
エレノアが、再び、マーガレットへ視線を向けると、マーガレットもエレノアをじっと見つめ返した後、歩き始めた。
さあ、はじまるわよ。
もちろん、真実を確かめに来るんでしょう?
それは、エレノアを食い尽くそうとでもいうような、挑発的なマーガレットの瞳だった。
そのマーガレットの瞳に、取りつかれでもしたかのように、エレノアは、マーガレットの後を追った。



  暗がりの中、アンダーソン邸からは少々距離のある、樫の大木の下へ、先についたのは、ニコラスだった。
マーガレットを待つ一秒が、一時間にも思えた。
マーガレットに、こうまで焦がれることが、自分でも不思議だった。
自分にはエレノアという、将来を約束した相手がいるのだと、何度自分自身に言って聞かせたところで、恋の魔力に取りつかれた男には、何の効果も発揮しなかった。
美しいマーガレットに、じっと見つめられ、うっとりと愛の言葉を囁かれれば、自分はもう何を失ってもいいと、マーガレットのためならば、命さえ惜しくはないと、そんな風にすら思えた。
程なくして、ニコラスの耳に、衣擦れの音が入って、小さな灯りが、眼に入った。
「お待たせして、ごめんなさい」
「会いたかった・・・」
息を切らせるマーガレットを、ニコラスはすぐに引き寄せ、抱きしめた。
お姉さまは、ご覧になっているのかしら。
ニコラスに抱き寄せられながら、マーガレットは心の内で、ちらりとそんなことを思った。
「一昨日、ターホープレイクで一緒に時間を過ごしてから、どれほど君が、恋しかったことか・・・」
「私も・・・、あなたと同じ気持ちですわ」
マーガレットがそう答えた後、ふたりはしばらくじっと、抱きしめあったままで、時間を過ごした。
「僕は、決めたよ、マギー」
次に口を開いた時、ニコラスは、決意を込めた口調で、そう話し出した。
「何をですの?」
「僕は、エレノアとの交際を止めるよ。来週の婚約は、取り止めだ」
「まあ・・・」
その言葉を、ニコラスから引き出した瞬間、マーガレットは勝利を確信した。
その言葉が、おそらく闇に紛れて近くに忍んでいるであろう、エレノアの耳に入った時点で、マーガレットは、満足し、この恋の駆け引きには、幕が引かれるはずだった。
美しくも思慮浅い娘、マーガレットには、この後に引き起こされるであろう修羅場を想像する力が、著しく欠如していた。
そして、どれほど、マーガレットが恋多き娘だとしても、それは年若い娘の言葉の上での遊びに過ぎず、女を求める男の情熱の怖ろしさを、分かってはいなかった。
早熟なマーガレットに、軽い口づけの経験は、幾度かあった。
けれども、今、マーガレットに承諾を得ることもなく、突然始まった、ニコラスの激しい口づけは、マーガレットにとって、恐怖以外の何物でもなかった。
ターホープレイクでの逢瀬は、まだ日中で、湖畔を散歩する人もあったため、手を握り合う以上の関係に進むことはなかった。
けれども今は、人影のない暗闇での逢瀬で、ニコラスの理性には、ひびが入った。
止めて、と、マーガレットはもがき、声を上げようとした。
けれども、唇はふさがれたままで、ニコラスの手は、マーガレットの胸のふくらみにまで伸びて来た。
味わったことのない恐怖で、マーガレットの心は、引きちぎれそうになった。
もし、その時、落ち葉を踏みしめる音が、ニコラスの耳に届かなかったなら、その欲望に、歯止めがきくことはなかっただろう。
けれども、その音を耳にして、はっ、とニコラスは顔を上げた。
マーガレットから唇を離し、誰だ、と声を上げ、マーガレットが手にして来た灯りを、人影に向かってかざす。
「エレノア・・・」
そこには、哀しみも、怒りをも通り越した、嘆きと絶望に震えるエレノアが、立ちすくんでいた。
そして、その汚らわしい場所から、ひと時でも早く逃れたいとでもいうように、エレノアは踵を返すと、瞳を拭いながら、二人を残して、無言で駆けて行った。



  舞踏会を終えて、深夜、アンダーソン邸からジョーンズ邸へと戻る馬車の中で、エレノアとマーガレットは、一度も目を合わせなかった。
一度、母イザベラが、取りなそうとしたものの、エレノアの瞳は、赤く潤み、空を睨みつけたままで、言葉をかけることさえ、躊躇われた。
一方のマーガレットも、つんと、横を向いたままで、イザベラに、取りなす隙を与えなかった。
両親は、そんな姉妹の様子に、随分、大きくなったというのに、また姉妹喧嘩かと、ため息をつき、呆れるばかりだった。



 翌朝、エレノアの姿は、寝室になかった。
悪魔に、神の裁きを。
寝室には、そう記した、エレノアの文字とは思えないような、ひどい殴り書きが、残されていた。
ジョーンズ家の屋敷の者は、マーガレットを除く全員で、手を尽くして、その行方を探した。
数時間後、使用人のひとりによって、屋敷近くの池から、エレノアは遺体となって、発見された。


 そして、その一か月後、エレノアの遺体が発見された同じ場所で、エレノアの死の真相を知って身を投げた、喪服姿のイザベラの遺体が、発見された。