9-2.マーガレット<前編>



 マーガレットの策略は、予想以上に容易く進んだ。
マーガレットが姉の寝室を訪れ、ニコラスの不実を訴えた日の一カ月程前、マーガレットは、ペンナの街へ買い物に出かけた。
買い物というのは口実で、マーガレットの目的は、当然、ニコラスだった。
いくつか買い物を済ませてから、マーガレットは、グリーン一族の経営する、金融会社へと立ち寄った。
淑女の外出には、召使を伴うのが通常で、マーガレットももちろん、召使を伴ってはいたが、ニコラスを籠絡しようとするのに、召使に張り付いていられては、思うように事が運べないため、あなたはしばらくここで待っていなさいと、年若い召使を、馬車の中で待たせることにした。



 「危うく、行き違いになるところでしたよ。今日は朝から、大口の取引先へ出向いていましてね。先ほど、戻って来たところです」
受付の者に、マーガレットの来訪を伝えられたニコラスは、出先から戻って寛いでいたのか、フロックコートの下に着たベストの最後のボタンを留めながら、建物の階段を降りて来た。
「お会いできて、良かったわ」
「こんなむさ苦しいところへわざわざ来ていただくとは・・・、何か急用でも?エリーに何かあったのですか?」
ニコラスは、恋人エレノアを愛称で呼んだ。
マーガレットの来訪を、エレノアの使いだと、ニコラスは、すっかり勘違いしている様子だった。
「いえ、そうではありませんわ。・・・私が、今日こちらへ伺ったのは、どうしても、あなたにお話したいことがありましたの」
そう言いつつ、マーガレットは意味ありげに、幾度も瞬きするものの、マーガレットの思惑は、まだニコラスには通じていなかった。
「話したいこと?」
「ええ、でも、込み入った話ですから、ここでは、少し・・・」
と、マーガレットは周囲を見回した。
今、ふたりが立ち話をする、グリーン金融会社の一階は、受付兼事務所となっていて、日中のせいで、出払っている者が多く、空いている席が多かったが、机に向かう社員も十名近く残っていて、落ち着いて話せる雰囲気ではなかった。
「では、自宅へ行きましょう」
ここから馬車で十五分ほど行けば、グリーン家の真新しい邸宅があった。
「いえ、ご自宅へ伺うのは少し・・・。ここの上階には、今、どなたかいらっしゃいまして?」
「ここの上階は、応接間と、私と父の執務室があって、あとは物置かな。殺風景なところで、とてもあなたをお招きするような場所ではありません」
「込み入ったお話ですから、誰もいらっしゃらないのでしたら・・・、私、この上のお部屋でかまいませんわ」
「父は、一昨日から、持病の腰痛で自宅療養中ですから、会社に来ることはありませんし、社員たちも、私が呼ばなければ、上に上がって来ることはありませんが・・・、本当に構いませんか?」
「ええ、結構ですわ」
それでもニコラスは、レディを招き入れるのにふさわしいとは言えない雑多な場所へ、マーガレットを案内することに躊躇している様子だったが、結局、どうぞこちらへ、と、マーガレットを二階の応接間へ招き入れた。



 マーガレットが案内された応接間は、簡素ではあるものの、掃除が行き届いた、居心地の良い部屋だった。
受付に座っていた年配の女性が、お茶の支度をして出て行くと、
「それで、お話というのは?」
ニコラスは、マーガレットの言う、込み入った話というのが、気にかかった。
マーガレットの話が、エレノアのことに違いないと考えていたニコラスは、近く婚約を予定している最愛の恋人に、何か不都合でもあったのかと、心配と不安がよぎっていたのだった。
「私・・・、本当は、ずっと迷っていましたの。このことを、あなたに、お話すべきかどうか」
ソファに浅く腰を掛けていたマーガレットは、苦しい胸の内を耐えるかのように、ハンカチで口元を押さえながら、伏し目がちに、そう話し出した。
「エリーに・・・、エリーに、何か?」
マーガレットの様子から、ただならない事態を察したニコラスの表情にも、動揺の色が走る。
「お姉さまと、あなたのことを思えば・・・、話してはならないのだと、話すべきではないのだと、ずっと・・・、耐えてきましたの」
そう言うと、マーガレットは、潤んだ瞳をそっと拭うではないか。
その仕草は、いつものマーガレットより、一際、艶めいて見えた。
「ああ、どうか、話してください。エリーに、一体、何があったのですか?」
ニコラスは、もういてもたってもいられなかった。
最愛の恋人エレノアに、一体何があったというのだろうか。
マーガレットの向かいに座っていたニコラスは、立ち上がると、不躾は承知で、マーガレットの座るソファに並んで、腰を下ろし、探るような眼で、マーガレットの瞳を覗き込んだ。
マーガレットは、この絶好の機会を、逃しはしなかった。
自分の瞳を、じっと覗き込むニコラスに、
「私、ずっと以前から・・・、あなたのことが好きなんです」
艶っぽく潤んだ瞳で、そう告げた。
一瞬、ニコラスは、ぽかんと、間の抜けた顔をした。
実際、ニコラスは、何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「ああ・・・、でもやっぱり、お話するべきではなかったのですわ。このことは、私の胸の内に、いつまでも、収めておくべきでした。お姉さまとあなたのことを考えて・・・、黙って身を引くべきでしたのに」
「マーガレット・・・」
「マギーとは、呼んでくださらないの?」
「・・・マギー」
「嬉しい」
マーガレットはそっと、ニコラスの胸に頭をもたげた。
深紫のドレスを身に着けた、美しいマーガレットの白い肌からは、爽やかな香りが漂い、それはニコラスの理性を麻痺させた。
ぱっちりとした二重の、魅惑的なダークブラウンの瞳と同じ色をした豊かな髪が、ニコラスの胸の中にあり、指を伸ばせば、その感触を確かめることもできた。
いつも大勢の若者に囲まれ、高嶺の花だと思っていた娘が、自分に思いを寄せていたと知った衝撃は、計り知れなかった。
そのニコラスの胸に去来する想いを、知ってか知らずか、マーガレットは、はっ、と我に返ったかのように、顔を上げると、
「いけない・・・、いけないわ、私ったら。あなたは、お姉さまの、夫となる方なのに・・・」
ニコラスの眼を見つめながら、淋し気に、切なげに、涙を拭った。
「ああ、マギー、それは・・・」
「私・・・、失礼しますわ」
マーガレットは、哀しみを振り払うように、さっ、と立ち上がった。
「マギー・・・、待ってくれ」
「どうか、今日の事は、忘れてください。・・・お姉さまと、お幸せに」
マーガレットは、そう言い残して、ニコラスの元を、立ち去った。



 その日以降、ジョーンズ家で、舞踏会で、晩餐会で、マーガレットと顔を合わせる時の、ニコラスの瞳が、これまでとは、すっかり変わった。
それは、明らかにマーガレットを意識していた。
エレノアという婚約を控えた交際相手がいる以上、公の場で、正面からマーガレットに近づいて来るようなことはしなかったが、同じ空間に集っている時、ニコラスは、隙を見計らっては、マーガレットの方へとちらちら、視線を投げかけた。
マーガレットは、そのニコラスの視線に、敢えて気づかない振りをした。
そうして、ニコラスが出席する舞踏会や、お茶会では、いつも以上に、美しく化粧を施し、衣装に気を払い、最大限に自分の若さと美貌が引き立つよう気を配って、自分を取り巻く若者たちに笑顔で話しかけ、これ見よがしに、楽しそうに笑い、会話を楽しんだ。
ニコラスの方を見なくとも、マーガレットには、焦らされるニコラスの想いが、手に取る様に分かった。
恋の主導権は、最初からマーガレットにあった。
自分の美しさを自覚した時から、若者に取り囲まれて、恋の駆け引きを楽しんできたマーガレットにとって、恋に不慣れなニコラス・グリーンを虜にすることなど、赤子の手をひねる様なものだった。
けれども、マーガレットの知る恋とは、所詮、娘の戯れに過ぎず、愛というものの根深さに、気がついてはいなかった。
幼稚な執着心から自分が仕掛けたゲームが、どれほど危険なものであるかを、全く理解してはいなかった。
「あなたにとって、僕は取るに足らない人間かもしれない。だけど、人の心を弄ぶものではありませんよ」
ジョーンズ邸を訪れていたニコラスが、周りに人がいなくなった瞬間を見計らって、マーガレットに、そう告げてきた時、マーガレットは、ニコラスの諦めきれない自分への執着を、敏感に感じ取った。
「あなたには・・・、おわかりにならないんだわ。恋を失った痛みを、紛らわすのに、私が、どれほど、苦しい思いをしているのか。私の、辛い気持ちなんて、あなたには、わからないのだわ・・・!」
魅惑的な瞳を潤ませつつ、そう訴えるだけで、ニコラスは、マーガレットの手に落ちた。



 その次、マーガレットがニコラスに会った時、誰の眼にも触れぬよう、そっと紙片を手渡された。
三日後の午後一時、ターホープレイクの湖畔で。
紙片には、そう記されていた。



 そして、今日、マーガレットは、ターホープレイクで、エレノアの交際相手、ニコラス・グリーンと、密かに落ち合った。
マーガレットに付き添う若い召使は、ターホープレイクで、マーガレットが逢引きをしていると知って、しかもその相手というのが、エレノアの交際相手だと知って、腰が抜けそうなほどに驚いた。
万一、旦那さまや奥様、そしてエレノア様に知られるようなことにでもなればと、その恐ろしい事態に、動揺するばかりの若い召使に、湖畔の宿で待つように指示をし、マーガレットは、きつく他言無用を言い渡した。
ターホープレイクの湖畔で、ニコラスとマーガレットは手を取り合って、想いを打ち明け合い、秘密の恋は瞬時に燃え上がった。
ニコラスは、エレノアが聞いていたら卒倒したに違いない、甘い囁きを繰り返した。
決して手が届くわけはないと、最初から視界に入れることさえできなかったマーガレットが、今、目の前で、自分のためだけに微笑み、自分への思慕を語ってくれるという、現実とは思えない出来事に、ニコラスの中のエレノアの存在は、かき消された。
帰らなくてはならない時間を迎え、名残惜しさと愛しさで胸がいっぱいのニコラスは、次の逢瀬の約束を取り付けずにはいられなかった。
ふたりは、明後日の十時、アンダーソン邸での舞踏会を抜け出して、樫の大木の下で落ち合うことを約束した。
それが、ふたりの次の逢瀬の約束となった。
アンダーソン邸での夜会には、エレノアも来るはずだった。
少し考えれば、それが、どれほど危険な行為か、わかってもいいはずだった。
けれども、ニコラスは、既に冷静さを欠いていた。
ニコラスは、恋に弄ばれ、恋の魔力に掛かり、恋に狂って、既に自らを失っていた。