9-1.マーガレット<前編>



 ――三十九年前、盛夏。

  マーガレットは、駆けた。
裸足で、一心不乱に駆け続けた。
もう・・・、無理。
こんな苦しみには、もう耐えられないの。
息が上がり、瞳からは涙が溢れて、視界が歪んだ。
木の根に足を取られて、派手に転ぶ。
脛に鋭い痛みを感じて、スカートの裾を持ち上げると、足首まで血が伝っていた。
マーガレットは立ち上がると、その痛みに顔をしかめながらも、足の怪我には構わずに、そのまま駆け続けた。
林を抜けると、やがて川に出た。
昨夜一晩、降り続いた雨のせいで、いつもより、川の水嵩は高く、流れは速かった。
午後の鈍い日差しを受け止めて、川面は黄金色に染まっている。
マーガレットは、川に入る前に、一瞬、足を止めた。
そうして、大きく息をつくと、水へ足をつけ、そのまま深みに向かって、進んでいった。



――その十カ月前。

 秋も深まりつつあった十月のある夜、婚約を来週に控えた姉の寝室を訪れ、マーガレットが、神妙な面持ちでその話を打ち明けた時、エレノアは、まともには取り合わず、笑いだした。
「就寝前にやってきて、一体何の話かと思ったら・・・、私を驚かそうとしても駄目よ、マギー。私は、そんな話、信用しないわ」
既にネグリジェに着替え、後は、ベッドに入るばかりのエレノアは、鏡を見つめつつ、褐色のくせ毛を、丁寧に溶かし、頬のそばかすにクリームを塗り込みながら、マーガレットの方へ視線を向けることすらなかった。
「私は、お姉さまのためを思って、話しているのよ。冗談でも、作り話でもないわ」
「私、今日はとても疲れているの。ウエディングドレスのデザインを決めるのと採寸に、思った以上に手間がかかって、せっかくペンナの街へ出ていたというのに、ニックに会いに行く時間がなかったくらいよ。だから、あなたのそのくだらない話に、耳を傾けるくらいなら、ベッドに入って休みたいの」
つまりそれは、マーガレットに、出て行けと言っているのと、同義語だった。
「今日、ニックが、お姉さまと会わなかったのは、お姉さまがドレスの採寸で忙しくて、会う時間がなかったせいじゃないわ。だって、そうでしょう?お姉さまが、ウエディングドレスの準備で、街へ来ていることを知っているのなら、ニックの方から会いに行くはずよ。お仕事が忙しかったのだとしても、少しくらい抜け出して、婚約間近の恋人の顔を、見に行きたくなるものでしょう。でも、ニックはそうしなかった。そうできない理由が、あったからよ。その理由は・・・、今、私が話した通りよ、お姉さま」
「いい加減にしてちょうだい、マギー。もうたくさんよ」
エレノアは、ドレッサーの前からさっと立ち上がると、妹を睨みつけた。
「私は、お姉さまに助言してさしあげているのよ。ニコラス・グリーンのような、不誠実な男性と結婚したら、苦労するのは、お姉さまですもの」
「マーガレット・ジョーンズ、そのお喋りな口を閉じなさい。これ以上、ニックを侮辱するのなら、私は、たとえ妹のあなたでも、許さないわ」
「お姉さまは、まだ私が、嘘をついていると思っているの?」
「あなたの魂胆は、わかっているのよ、マギー。あなたは、この数カ月、私の事が・・・、私とニックのことが、気に入らないのよ。何をしても華やかで、機知に長けているあなたは、いつもこの家の中心的な存在だった。いいえ、家の中だけでなく、どこの舞踏会へ出向いても、あなたは、直ぐに、周囲の男性たちを虜にして、社交界の薔薇と呼ばれるにふさわしい存在だわ。あなたは、その美しさで、話術で、魅惑的な振る舞いで、いつも私を凌いできた。平凡な私に、どうしようもない劣等感を与え続けてね。だから、私が、ニックと交際を始めて、お父様やお母様の関心事が、生まれて初めて、あなたから私の縁談に移って、自分の存在が、家の中心から追いやられて、私に嫉妬しているのよ。あなたは、自分より劣っていると思っていた私が、婚約を目前にして、幸せそうにしているのが、気に入らないんだわ。だから・・・、こんなひどい嘘をつくのよ。ただ、私を傷つけたいために」
「今日の午後、私がニコラス・グリーンと、ターホープ・レイクの湖畔で過ごしたことは、まぎれもない事実よ、お姉さま」
エレノアの怒りには動じることもなく、マーガレットは、再び無遠慮にそう言い放った。
「まだ、そんなひどい嘘を言うの、マギー。今すぐに、取り消しなさい。今すぐに取り消すなら、私の・・・、最大限の理性を用いて、あなたの、その失礼極まりない発言を、許してあげる」
エレノアは、噴き上げそうになる怒りを、かろうじて飲み込みながら、マーガレットに、そう告げた。
マーガレットは、ひと時、その怒りの籠った、エレノアの灰色の瞳を見つめ返した後、
「いいえ、取り消さないわ」
そう答えた。
エレノアは、ベッドの上に置いてあったクッションを、鷲掴みにすると、マーガレットに向かって、勢いよく投げつけた。
「あなたなんて・・・、どこかに消えてしまえばいい!嘘つき・・・、嘘つき!」
「嘘だと言うのなら、証拠を見せてあげるわ、お姉さま」
「証拠?」
「明後日の十時、アンダーソン邸の舞踏会を抜け出して、樫の大木の下で、ふたりきりで会う約束をしたの」
「嘘よ。ニックは、あなたの、卑劣な誘いになんて乗らないもの」
「そう思うのなら、確かめればいいのよ。私の後から、そっとつけて来ればいいんだわ。誤解しないでね、お姉さま。何度も言うけれど、これは全部、お姉さまのためなのよ。結婚した後で、夫が不誠実な男性だったと知って後悔するよりも、先に夫の正体を知っておくほうが、いいでしょう?今ならまだ、婚約もしていないことだし」
「私は、ニックを信用しているわ。彼は、卑劣なあなたの誘いに乗ったりはしない。今の話は、全部、嫉妬に取りつかれた、あなたの作り話よ」
「信じるか信じないかは、お姉さまの自由よ。事実を知っても、お気落ちなさらないで。お姉さまは十分魅力的だし、きっとまたいい方が・・・」
「それ以上、聞く必要はないわ、今すぐ出て行って」
エレノアの唇は、怒りで震えていた。
「お姉さまが、ニックを信じたくなる気持ちも・・・」
「私の話が聞こえなかった?今すぐ出て行きなさい、マーガレット!」
エレノアは、全ての怒りをぶちまけるように、そう叫んだ。
エレノアの部屋の扉を閉めた後、マーガレットは、そっとほくそ笑んだ。
明後日の舞踏会が、楽しみだこと。



 エレノアが、マーガレットに言ったことは、事実だった。
数カ月前、ペンナの街で、金融業を営むグリーン家の一人息子、ニコラス・グリーンと、エレノアの縁談話が持ち上がって以降、それは、ジョーンズ家最大の関心事となり、次第に話がまとまり始めると、屋敷内での話題は、常にエレノアの結婚となった。
ジョーンズ家は、アウラ近郊で、中規模の綿花農園を営み、五十歳を迎える父ティモシーと、四十二歳の母イザベラ、二十歳になるエレノアと、ふたつ年下のマーガレット、そして年の離れた八歳になるクリストファーの五人家族だった。
エレノアの結婚は、好奇心に長けたクリストファーにとっても、一大関心事で、マーガレットの心中など察するべくもない、小さな弟は、マーガレットに、結婚の意味や、儀式について、無邪気に訪ねて来るのだった。
エレノアの縁談に、一家の関心が注がれる中、マーガレットだけは、冷ややかだった。
何故なら、エレノアの縁談が持ち上がって以降、その整った容貌と、機知に富んだ話術で、いつも家族の中心にいるマーガレットの存在が、隅へ追いやられてしまったからだった。
軽やかにステップを踏み、優雅に舞う、マーガレットの独壇場となる舞踏会でさえ、エレノアの縁談話にみなの話題が向いて、マーガレットへの注目が、そがれる事態になっていた。
人一倍プライドの高い、そして自信家のマーガレットにとって、それは、我慢がならない事態だった。
その美貌のせいもあって、周囲から甘やかされて育ってきたマーガレットは、常に自分が一番でないと、気が済まなかった。
ましてや、これまで、平凡で何の面白みもない姉と、見下してきたエレノアが、婚約が決まって以降、かつてないほど表情が生き生きと輝いて、美しくなっていくのも、癪に障った。
様々な集いの場で、交際相手のニコラス・グリーンと、身体を寄せ合うようにして、親密に話す姿も、マーガレットの気に入らなかった。
十八歳のマーガレットは、数多くの若者たちを取り巻きにし、若い女性ならば誰もが羨むような、数々の賞賛と崇拝を受け、その状況に満足しつつも、これまで結婚ということを、一度も考えたことがなかった。
夫というひとりの男に縛られて、慎ましく過ごすことが美徳とされる、妻という立場に、マーガレットは、何の魅力も感じなかった。
けれども、姉、エレノアが幸せそうに、ニコラスに嫁ぐ日を待ち焦がれている姿を見ると、マーガレットは、急速に妬ましさを覚え始めた。
ひとりの男性から、深い愛情を一身に受けるエレノアが、数多くの取り巻きを持つ自分よりも、ずっと大人で、幸福であるように思えた。
それは、マーガレットがこれまでに一度も味わったことのない、濁った感情を沸き上がらせた。
あの、得意げな姉の鼻を、明かすことが出来たら・・・。
次第に、マーガレットはそう思うようになっていた。
そうして、思いついた。
姉の交際相手、ニコラス・グリーンを、籠絡することを。



 エレノアの未来の夫、ニコラス・グリーンは、決して、美男子ではなかった。
美男子というよりも、どちらかと言えば、醜男で、馬の様に長い輪郭の中に、小さな眼と、厚ぼったい唇があって、どうにも釣り合いが悪かった。
グリーン家は、ペンナの街で手広く金融業を営んでいたため、資産家には違いなかったが、 ニコラスに女性を惹きつけるような、特別な魅力があるわけでなく、その野暮ったい存在は、エレノアの交際相手でなければ、マーガレットが関心を示すことは、ありえなかった。
けれども、恋に浮かれるエレノアの鼻を明かすには、ニコラスを自分の虜にすることが、一番の策に違いないと、マーガレットは確信した。