8-7.UNFORGETTABLE



 結局、アンヌはそのまま、ランドルフの屋敷に泊まることになった。
人の噂のたたないうちに、自分の屋敷に帰りますと、告げたものの、賛成する者は、ひとりもなかった。
言い張る体力も気力も、今のアンヌにはなく、そのまま、ベッドで過ごすことになった。
相変わらず食欲はなかったが、夕方から、エマが時間をおいて、ごく少量ずつ、食べ物を運んでくるようになった。
「マーガレット様の指示です。悪阻の時は、ほんの少しずつ、何度にもわけて食べると、吐き気が起きにくいそうです。今のアンヌ様の様に、本当に食欲のない時は、食べたいと思うものだけを召し上がっていても、問題ないそうで、体力をつけなくてはと思って、無理をするのは、逆効果だそうです。やはり、子どもを産んだことのある方のご意見は、貴重です」
そう言って、エマが時間をおいて運んでくる、少量のフルーツサラダや、ビスケットなどは、食べなければならないという焦りから解放され、美味しいと思うことはなくとも、何とか、喉を通った。
エマは、そのアンヌの様子を見て、ほっとしたようだった。
この屋敷にいれば、アンヌは心配ないと判断したエマは、このような事態になるとは思わず、屋敷の中を放り出して来て、アンソニーやオーウェンも心配しているでしょうから、私は一旦屋敷へ戻ります、明日の朝、また一番で、来ますと告げ、モーガン家が用意した馬車で、モーガン邸を後にした。



 その夜、アンヌは深い眠りに落ちることは、出来なかった。
今後、自分の身をどう処するべきか、アンヌは一晩考え続けた。
考え続けて・・・、ひとつの結論を得た。
それは、農園を処分し、アウラを離れ、お腹の子供を堕ろした後、修道院に入るということだった。
未婚で子を宿したことが明るみなって、アウラの地で暮らしていくことは出来なかった。
そういったことは、卑しまれ、農園経営に支障が出ることは、間違いなかった。
さりとて、モーガン家に嫁ぐということも、考えられなかった。
自分の背負う罪を、ランドルフにも背負わせるなど、考えたこともなかった。
そして、それ以前に、マーガレットが、ランドルフと自分の結婚を認めるはずはないと信じていたので、結婚は、最初から、アンヌの選択肢の中にはなかった。
アウラにやって来て、農園を経営しつつも、独り身の自分は、時期が来たら、修道院へ入り、そこで人生を終えることになるかもしれないと、予想していたアンヌだった。
だから、そうなった場合のことを考えて、とある修道院に、ずっと、それなりの額の寄付を続けていた。
予定よりは、随分早くなったが、修道院に入るのが、一番適切なのだろうと、アンヌは結論を出した。
けれども、やはり、もう少し綿花農園を続けてみたかった、という想いはあった。
ベアトリスだけを頼りに、右も左も分からない状態で農園を始めて数年が過ぎ、ようやく、少し余裕ができてきて、綿花を育てていく楽しみを実感していた昨今だったので、このような不本意な、中途半端な形で、農園を終わらせることには、大きな落胆を覚えた。
身から出た錆。
割り切れない想いに、その言葉で、アンヌは終止符を打った。
たった数年でも、人の暮らしに役立つものを作ったのだと、誇りを持って、修道院へ入ればいい、アンヌは、そう決意を固めつつあった。
ただ、アンヌが、そう決意したところで、昨日のランドルフの様子を見れば、納得しないことは明らかで、それは、一番の問題だった。
そうなると、ここから逃げ出すしかなかった。
自分の屋敷に戻れば、すぐに見つかってしまう・・・。
ペンナへ辿り着きさえすれば、何とか・・・。
ともかく、ペンナの銀行へ行き、差し当たりのお金を手にして、どこか遠くの街へ移り、身を隠すところまでできれば・・・、農園の処分や手続きは、人を雇って、じっくりすればいい。
子どもは、始末して、修道院へ入る準備を、始めればいい。
子どもは、始末して・・・。
アンヌは、手をぎゅっと握りしめた。
・・・産むことが出来ないのは、最初から、わかっていた。
それでも、産みたいと思う気持ちを・・・、産んでやりたいと思う気持ちを、抑えるのは、苦しかった。
自分の中に、すでに母性が育っていることは、アンヌ自身、不思議だった。
下腹部にそっと手を当てて、アンヌは、小さな声で、詫びた。
そうして、再び、アンヌは、ランドルフに知られずに、この屋敷を抜け出すことを考え始めた。
どうやって・・・。
窓の外は、冬の遅い夜明けを迎えようとしていたが、十二月の冷たい雨が、窓を叩いていたせいで、部屋の中は、暗かった。
ペンナまで行けば・・・、とにかく、ペンナまで・・・。
ベッドに起き上がり、しばらくその方法を、考えていたアンヌだったので、ノックの後、召使を伴わず、灯りを持ったマーガレットが入って来た時、これは、チャンスだと、即座に閃いた。
ランドルフの前からアンヌが姿を消すことは、マーガレットにとっても、好ましい事態に違いなかったので、アンヌの計略に、手を貸してくれると確信した。



  「あら、起きていたのね。おはよう。気分は?」
「マーガレット様、今すぐ、わたくしに馬車を与えてください」
朝の挨拶を返すこともなく、アンヌは、椅子の上にあった化粧着を手に取って、もう羽織り始めていた。
「馬車を?」
思いがけない依頼に、マーガレットは面食らった。
「時間がないのです。ランドルフ様に見つかる前に、ここを発たなくては」
「ここを発つ?そんな身体で、そんな格好のまま?」
マーガレットは、驚きで目を丸くした。
「出来れば、外套をお貸しください。それで・・・、何とか、なるでしょう」
「ここを出て、どこへいくつもりなの?」
「それは・・・、話さない方がいいでしょう。もし知ったなら、ランドルフ様に問い詰められた時、マーガレット様が、困るでしょうから」
「お腹の子は・・・、どうするの?」
マーガレットのその問いに、アンヌは、ああそうかと、思い至った。
マーガレットは、アンヌの産んだ子が、成長し、自分の父親がモーガン家の当主だと知った時、不当な要求をするのでは、と、心配しているのだと、察した。
「ご心配には、及びません。わたくしのお腹の中の子は、ランドルフ様の子ではありません。母親の私が言うのですから、間違いありません。ランドルフ様は、お考え違いをしているのです。それに・・・、わたくしは、子を産むことはありませんから、このことで、こちらに今後一切、ご迷惑をおかけすることはありません。それだけは、固くお約束します」
「・・・子どもを、堕ろすのね」
アンヌは、答えなかった。
ただ、黙って、マーガレットから、視線を逸らせた。
「それで、あなたは、本当にいいの?そうすることが、本当に正しいことだと?」
「これ以外に、選択の余地はないのです。ですから、どうか早く、馬車の用意を。本当に、急がなくては。ああ・・・、最後にひとつだけ、お願いがあります」
「何?」
「春になったら、エマと、アンソニーの結婚式を。ペンナの教会で、どうか、エマを花嫁に・・・。アンソニー・ヒューズの妻に・・・」
アンヌは、青白い頬に、小さな微笑みを浮かべた。
そのアンヌの微笑みに、マーガレットは胸が締め付けられた。
そうして、次に、腹立たしさが、込み上げて来た。
愛する人のために、築き上げた全てを捨て、責任を、一身に背負って、黙って立ち去ろうとするアンヌが、どうしようもなく、腹立たしかった。
助けてほしいと、一言声を上げれば、手を差し伸べるのに。
ランドルフを、心から愛して、身体を許し、子どもを宿した、と言いさえすれば、ランドルフ・モーガンの妻として迎え入れるのに。
それなのに・・・、この娘と来たら!
なんて、強情!
なんて、分からず屋!
なんて、意地っ張り!
「本当に、もう時間が・・・。ランドルフ様が来られたら、計画は、全て水の泡です。どうか、一緒に厩舎へ・・・」
「ベッドに戻りなさい!ミス・クレマン!」
マーガレットは、大声を張り上げた。
雷を思わせるような、激しい、その声だった。
アンヌは、唖然、といった表情で、マーガレットを見つめ返した。
「聞こえなかったのですか?私は、ベッドに戻りなさいと、言ったのです」
「急がなくては・・・」
「私は、あなたに馬車を用意しません。あなたは、これから、私と話をするのです。この屋敷にいる限り、私の指示に従ってもらいます。もう一度、言います。ベッドに戻りなさい」
しばらく、マーガレットとアンヌは、睨み合うようにして立っていた。
けれども、やがて、アンヌは、ベッドに引き返し、その端に座った。
「ミス、クレマン、あなたのやろうとしていることは、本当に正しいと思いますか?全ての責任をひとりで引き受けて、黙って、ランディの前からいなくなることが、本当に、正しいのでしょうか?あの子は、五年以上前に亡くなった妻を、未だにずっと思い続ける情の深い子よ。そんなあの子が、今度は、自分の子供を宿した娘が、突然姿を消してしまって、酷い苦しみを味わい続けるとは思わないの?」
「マーガレット様は・・・、一体、何が望みなのですか?わたくしが、ランドルフ様の前から姿を消す方が、モーガン家の将来のためではないのですか?少なくとも、これまで、わたくしは、そう思っていました」
「確かに、私は、あなたとランディの結婚を望んではいませんでした。あなたのような、傲慢で、自分勝手な娘に嫁いで来られては、家の中が混乱してしまいますから。でも、何故、ランドルフがあなたに惹かれたのかがわかった時・・・、誰も気にかけることのなかった、ベアトリスの眼の見えない孫娘を、あなだだけは、ずいぶんと気にかけていたのだと知った時、私は、考え直してもいいと思いました。あなたは、私の思っていたような娘ではなかったのかもしれないと、考えを改めました。あなたは、至らないところがあるけれど、それは、今後私が時間をかけて、教え導けばいいのかもしれないと、思うようになりました。ランドルフがこれほどまでに、あなたを望むのなら・・・、それがふたりの望みなら、結婚を認めてもいいと考え始めました」
アンヌは、しばらく、押し黙ったままだった。
けれども、やがて、いいえ、と首を振った。
「いいえ・・・、結婚は、望みません。結婚は、できないのです。その理由は、わたくしの口からはお話しできません。わたくしが、この屋敷を去った後で・・・、ランドルフ様から理由を聞いてください」
アンヌは、目を伏せがちに、そう言った。
「そう言うだろうと、思っていました。これから、あなたに、話があります。少し、長くなると思うので、ベッドに上がって、楽な姿勢でお聞きなさい、ミス・クレマン。・・・いいえ、ミス・ラングランでしたね」
アンヌは、息を呑んだ。
あまりの驚きに、声が出て来なかった。
「落ち着きなさい。そんな風に、驚きすぎては、お腹の赤ちゃんによくありませんよ」
「ですが・・・」
アンヌは、それ以上、言葉が続かなかった。
「ユースティティアでのあなたの半生は、ベアトリスから聞きました。ベアトリスには、並外れた情報網があるのよ。世界中から、彼女の元へ情報が集まって来るの」
「ベアトリス様も、ご存知・・・」
「何だか胸騒ぎがして、こうして朝から、あなたのところへやってきたのだけれど、私の胸騒ぎは、間違っていなかったと言うことね。さあ、ベッドに上がりなさい。脚を上げて・・・、そう、クッションを背中に入れておきましょう。これでいいわ」
マーガレットは、ヘッドボードとアンヌの背中の間に、クッションを入れ、楽な格好で座らせた。
「これから、私があなたに話すことは、私の若い頃の話。今のあなたよりも、ずっと若かった頃・・・、私は、世間知らずで、浅はかで、自分勝手でした。世界は、自分のためにあるのだと信じて、疑わなかった。それが、大きな事件を引き起こすことになったの。私は・・・、一生、許されることのない、取り返しのつかない罪を犯しました。決して、許されることのない罪を・・・。それから、今日まで、私は十字架を背負い続けて、生きて来ました」
「マーガレット様が、罪を?」
それは、マーガレットにあまりにも似つかわしくない言葉だった。
「ええ、そう、重い、重い罪をね・・・」
マーガレットは、静かに、語り始めた。