8-6.UNFORGETTABLE



 リビングでの出来事から数時間が過ぎ、時計の針は午後三時を回ろうとしていた。
あれから、マーガレットの指示の下、身体を締め付けないネグリジェに着替えさせられ、 アンヌは、来客用の寝室のベッドで、休むことになった。
今のアンヌには、そのマーガレットの指示に逆らう気力も、体力もなく、エマの手によって、為されるがまま、着替えさせられて、ベッドで休んでいた。
ノックの音が聞こえて、ドアが開き、
「入っても大丈夫?」
ランドルフが、姿を見せた。
横になったアンヌは、仰向けで、じっと天井を見つめていた。
ベッドの傍らの椅子に座って、そのアンヌを見守り続けていたエマは、ランドルフが入って来ると、立ち上がり、一礼をした。
「少し、落ち着いた?」
「発作は、落ち着いていますが、ここ数日は、悪阻のせいで、ほとんど何も召し上がれなくて・・・、お身体が弱ってしまうのではないかと、心配です」
「そう・・・」
ランドルフは、アンヌの顔を見つめた。
その表情は硬く、ランドルフとエマの会話など耳には入っていないかのように、じっと天井を見上げていた。
「少し、アンヌとふたりにしてくれないかな、エマ」
エマは、わかりました、と応じ、静かに、その場を離れた。
「アンヌ・・・」
と、ランドルフは、それまでエマが座っていたベッド脇の椅子には座らず、ベッドの端に座ると、指先で、アンヌの頬に触れた。
アンヌは、その指を避けるように、ふいっ、と顔を背け、ランドルフに背を向けた。
「騙すような真似をして、悪かった。僕たちが、将来について話し合う機会を作るためには、君を、君の農園から連れ出して、ここへ連れて来る必要があると思った。でも、君のことだから、こうでもしないと、絶対に僕とは会ってくれないだろうと思ったんだ。アンヌ・・・、僕たちの将来について、落ち着いて話そう。さっき、リビングで、僕が言ったことは、嘘じゃない。母が、君をこの屋敷に迎え入れることを拒むなら、僕はこの屋敷を出る。僕は、そう決めている。君のいない人生は、もう考えられないんだ。たとえ・・・、農園を捨てることになっても」
アンヌは、ランドルフに背を向けたまま、何も答えなかった。
「君のお腹に、僕たちの子どもがいるなんて、思いもしなかったよ。これから、どこで、どんな風に暮らすことになっても、僕と、君と、生まれてくる子どもは、必ず一緒だ。僕は、生涯をかけて、君たちを幸せにすることを、誓うよ」
「・・・わたくしのお腹の中の子は、ランドルフ様の子ではありません」
ランドルフに背中を向けたまま、アンヌは、ぽつりとそう告げた。
「アンヌ・・・」
「わたくしのお腹の中にいる子は、ランドルフ様の子ではありません。・・・わたくしには、ずっと以前から、夜を共に過ごす者がいます。エマも知らない相手がいます。お腹の中の子は、その者の子です。この子は、ランドルフ様にも、モーガン家にも、何の縁もありません。モーガン家とは・・・、無関係です」
「どうして、そんな見え透いた嘘をつくんだ?君が、罪深い過去故に、結婚を諦めようとしていることは知っている。そして、僕のために、モーガン家のために、身を引こうとしていることもね。だけど、それは、ふたりにとっても、子どもにとっても、全く望ましい結論ではない。だったら、少しずつでも、心を開いて、共に過ごす将来を考えるべきじゃないのか?」
「わたくしの想いが、あなたにわかるはずはありませんし、話すつもりもありません」
「僕には、聞く権利がある」
ランドルフは、譲らなかった。
そして、ランドルフに背を向け、頑ななアンヌの肩をそっと擦った。
「僕には、君の想いを聞く権利がある。君が、何と言おうが、君のお腹の中の子は、間違いなく、僕の子供だ。僕には、聞く権利があるよ、アンヌ」
アンヌは、押し黙ったまま、ランドルフに背を向けていた。
けれどもやがて、
「わたくしは、これまでにたくさんの人を殺めてきました・・・」
囁くように、アンヌは話し始めた。
「わたくしの手は、闇色に染まり、もう取り返しのつかないことは、十分に承知しています。その数多くの罪の中でも・・・、わたくしが、とりわけ自分を許すことができない出来事があります」
ランドルフに背を向けるアンヌの表情を、伺うことは出来なかったが、その声には、アンヌの苦しみが、滲んでいた。
「遠い昔・・・、わたくしに、随分と尽くしてくれた女中がいました。艶やかなダークブロンドと、美しいヘーゼルの瞳の持ち主で、よく気の付く、本当に優しい娘でした。わたくしは、どんなことをしても、あの娘を・・・、レティシアを守ってやらなければいけなかったのに、レティシアを愛する男から引き離して、獣のような男に・・・、わたくしの父親に、差し出したのです」
アンヌは、眼を閉じた。
その時の苦い感情を思い出して、胸がつかえた。
「わたくしは、決して、レティシアを、お父様の元へ行かせてはならなかった。もっと早くに、愛する人の元へ返してやらなければならなかった・・・。そうしなかったのは、お父様の怒りを恐れたからではありません。レティシアをお父様の元へ行かせたのは、わたくしの嫉妬です。わたくしが、一言も、想いを告げることが許されない男に、愛されて、赤ちゃんまで宿したレティシアへの・・・、愚かで、醜い、妬みです」
ランドルフの手は、変わることなく、ずっと、アンヌの肩と腕を、優しく擦り続けていた。
「わたくしは、忘れません・・・。お父様の居所へと向かう馬車に乗り込むレティシアと、一瞬、瞳が重なった時のことを、忘れることができません。恐怖と、侮蔑と、憎悪と・・・。 それまで、わたくしへの、尊敬と感謝の眼差しに満ちていたレティシアの美しい瞳には、敵意しかありませんでした。絶対に、あなたを許しはしない、レティシアの瞳は、そう告げていました・・・」
アンヌは、レティシアのその強い憎しみと恨みの籠った眼差しを、思い浮かべていた。
「わたくしは、許されなくてよいのです・・・」
「アンヌ・・・」
「生涯・・・、わたくしを憎んでよいのです。レティシアのお腹の中の小さな命を奪ったのは、わたくし。愛する人との、かけがえのない宝物を奪ったのは、このわたくし・・・。そのわたくしが、子を産むことなど、できるはずはないのです」
「そんな風に、自分を責め続けてはいけない。若い君を、そんな風に追い込んだ方にこそ、重い責任がある」
ランドルフは、その告白によって、アンヌがこれまでどれほど、自分を責め続けて生きて来たのかが、痛いほど良く分かった。
眼の前のアンヌの背が、いつもより、ずっと小さく見えた。
「・・・わたくしのお腹の中にいる子は、ランドルフ様の子ではありません。・・・わたくしには、ずっと以前から、夜を共に過ごす者がいます。お腹の中の子は、その者の子です。この子は、ランドルフ様にも、モーガン家にも、何の縁もありません。モーガン家にも、ランドルフ様にも・・・、何の責任もありません」
そう言って、ランドルフに自分の罪を背負わせまいと必死に抗うアンヌが、ランドルフには、哀れなほど痛々しく映った。
ランドルフは、アンヌの背後からその髪にそっと口づけると、
「アンヌ、これだけは、分かっていてほしい。少なくとも、君は、この夏、妻を失い、希望を失って生きていた孤独な男を救った。君は、僕に、希望を与え、幸福を与えた。そのことだけは、覚えておいてほしい」
そう囁いた。
「今日は、随分疲れさせてしまったね。今日はもう、ゆっくり休んだ方がいい。明日は、一度医者を呼ぼう。大事にしないといけないからね。・・・明日の朝、また来るよ」
そう言って、ランドルフは立ち去った。
ランドルフが立ち去った後、しばらくして、アンヌは寝返りを打ち、ランドルフが立ち去った扉を、じっと見つめた。


あなた・・・。
愛しい、あなた。
わたくしは、モーガン家には・・・、マーガレット様には、受け入れてもらえないでしょう。
わたくしが受け入れられなければ、あなたは、わたくしのために、何もかも捨てると言いました。
罪深いこのわたくしと、一緒に生きると、言ってくれました。
けれども、優しいあなたは・・・、犯してしまった罪に苦しむわたくしを見て、一緒に苦しむことでしょう。
家も家族も財産も、何もかも捨ててわたくしを選んだことを、いつか後悔する日が来るかもしれない。
そんなあなたを、わたくしは見たくないのです。
家族も地位も財産も、全てわたくしのために捨ててしまった後で、後悔だけが残った時、わたくしは、一体、どうしたらいいのでしょう?
モーガン家から当主を奪い、あなたのモーガン家の当主としての将来を潰してしまったことを・・・、わたくしはどうやって償えばいいのでしょう?


アンヌは、ランドルフの立ち去った方へと、指を伸ばした。
そこにランドルフの姿はなく、アンヌの指はただ、空を切るばかりだった。
「愛しい、あなた・・・。ああ、わたくしの・・・、ランディ」
思わず、吐息と共に唇から、零れ落ち、アンヌは眼を閉じた。



 アンヌの休む寝室には、小さな控えの間があった。
その控えの間と、アンヌの休む寝室を繋ぐ扉が、ずっと小さく開いたままであることに、ランドルフもアンヌも、気づくことはなかった。
マーガレットは、そっと控えの間を離れ、物音を立てないように、廊下へと出た。
愛しい、あなた・・・。
ああ、わたくしの・・・、ランディ。
今、耳にしたばかりの、アンヌの声が、マーガレットの胸に迫った。