8-4.UNFORGETTABLE



 十一月の感謝祭が終わると、街の様子も人の心も、次第にクリスマスへと向き始め、十二月に入れば、クリスマスツリーや、クリスマスカード、クリスマスプレゼントと、どの家庭でもクリスマスのお祝いのための準備が、本格的に始まった。



 十二月も半分を過ぎ、世間では一気にクリスマスムードが高まる頃、アンヌの屋敷でも、エマが、家事の合間を縫って、クリスマスを迎えるための準備を整えていた。
アウラに来た当初は、初めての土地で、初めてのクリスマスを迎えるとあって、その段取りに手間取ったものだったが、今では、すっかり手慣れたもので、その手際の良さもあって、滞りなく、準備は進んでいた。
本来ならば、クリスマスは家族で祝うものだったが、アンヌも、エマも、農園監督者のオーウェンにも家族はなかったので、例年、クリスマスは、三人で慎ましく祝った。
ただ、今年は、エマの婚約者で、農園の経理を担当するアンソニーも一緒に、クリスマスを祝うことになり、賑わいが加わることとなった。
エマとしても、婚約者と一緒に、クリスマスを祝う喜びは、例えようもなく、今の自分の幸福は、全てアンヌ様のお蔭なのだと、噛みしめる日々だった。



  クリスマスが近くなったその日の午前中、洗濯が終わって、濡れた手を拭ったエマは、アンヌに、クリスマスメニューの確認をしなければならないことを、思い出した。
メニューの確認と言っても、毎年作る物と言えば、ハム・七面鳥・マッシュドポテト・グレービーソース・キャッセロール、そしてデザートのクッキーと決まっていて、形だけアンヌの了承をもらうばかりだったのだったが。
そして、もうひとつ、実のところ、クリスマスメニューの確認よりもこちらの方がずっと、エマの気にかかっていたのだったが、数日前から体調を壊していたアンヌは、すっかり食欲が落ちてしまって、今朝も、エマの用意したチキンと野菜のスープに一口手を付けただけで、書斎へと上がってしまった。
もともと、余分な肉のない体つきのアンヌだったので、食べられなくなってから、この数日で、随分と頬が痩せてしまい、青い顔をしていた。
水分ですら、胃に負担かかるようで、今朝などは、温かいお茶ですら喉を通るのが、辛そうだった。
良くなる気配は一向になく、夏に一度、体調を崩し、ランドルフの指示で、ベッドについた一件以外、日中、アンヌが横になる姿など見たことがなかったのに、この数日は、起きてはいられないほど、辛いようで、ぐったりとベッドにつくアンヌを何度か見かけた。
エマは、何か悪い病気ではないのかと、心配するばかりだったが、クリスマスに入れば、街は一斉に休日になるため、医者を呼ぶことすら難しくなった。
だから、エマは今のうちに一度、ペンナから医者を呼んではどうかと、アンヌに提案するつもりだった。
提案というよりは、どうあっても、エマは医者を呼ぶつもりでいた。
これ以上、辛そうなアンヌの姿を見ることが、エマには何よりも辛かった。



 エマが、二階に上がって、書斎のドアをノックした時、アンヌはもう一時間以上、考え事をするように、じっと書斎の椅子に座ったままだった。
その表情は厳しく、険しかった。
自分の体調に異変を感じてからのこの数日、アンヌは、こうしてじっと考え込む時間が、幾度もあった。
「お加減はいかがですか」
エマは、書斎に入ると、アンヌの様子を伺う様に、心配そうに尋ねた。
「あなたに、話があります。心を落ち着けて・・・、お聞きなさい」
エマが書斎に入ってから、そうアンヌが切り出すまでには、数分の時間がかかった。
「何でしょうか・・・」
「わたくしは・・・、わたくしのお腹の中には、子がいます」
はっ、と思わずエマは息をのんだ。
「ああ・・・、だから、それで・・・」
エマは、未婚ではあったが、悪阻の知識はあった。
この数日間のアンヌの体調不良は、悪阻だったのだと、ようやく気付いた。
「でも・・・、たった一度きりで、そういったことが起こるのでしょうか・・・」
「わたくしも、詳しい知識があるわけではありません。ですが、身体の変調は確かです。おそらく、子がいるのでしょう」
かつて、ユースティティアでミラージュの一員として活動していた頃は、精神的に張り詰めた生活をしていたせいか、不順になることも多かった。
けれども、アウラの地にやってきて六年近く、農園の仕事は忙しかったが、精神的には落ち着いていて、来るべきものが滞ったことは、一度もなかった。
それが、ランドルフと契りを結んでから、一カ月半が過ぎようとするのに、月の障りはなく、突如、胃の不快感に襲われた。
「ランドルフ様には、もう、ご連絡を?」
「いいえ、ランドルフ様には、今後一切連絡をとりません。あなたも、そのことはよくわきまえておきなさい」
「でも、それでは、赤ちゃんは・・・」
思いがけない事態に、エマは動揺するばかりだった。
アンヌは、しばらく押し黙っていたが、
「子は、産みません」
静かに、そう告げた。
「アンヌ様・・・」
思わず、エマは、スカートをぎゅっと握りしめた。
「わたくしのお腹の中の子が、生きてこの世に生まれることはありません」
「では・・・、赤ちゃんは、一体どうするおつもりなのですか?」
アンヌは、濃緑の瞳で、じっとエマの顔を見上げ、
「あなたに、頼みがあります」
そう切り出した。
「あなたに・・・、頼みがあります。これから街へ行って、薬を・・・、子が流れる薬を、求めてくるのです」
覚悟を決めた、落ち着いたアンヌの声だった。
エマは、青ざめ、息をのんだ。
取り乱したのは、エマの方だった。
そして、首を振った。
何度も、何度も、強く首を振った。
「いえ・・・、いいえ、そのようなこと、私にはできません。アンヌ様の、赤ちゃんを堕ろすお手伝いなど・・・、私にはできません。それに、そのようなお薬は、きちんとした薬局では取り扱っていないので、中身の不明なものが多く、母親の・・・、アンヌさまのお身体にも影響があると、聞いたことがあります」
「それでも・・・、そうするより他ないのです」
「とにかく、一度、ランドルフ様にご相談ください」
「それは、できません。それは、絶対に出来ないのです。ランドルフ様は、いずれ、マーガレット様の勧める方と、結婚することになります。わたくしのお腹の子のせいで、縁談に差しさわりがあるようなことは、絶対に、あってはならないのです」
「でも・・・、ランドルフ様は、アンヌ様の事を、妻だと、おっしゃいました!」
思わず、エマの瞳には涙が浮かび上がり、感情的に声を上げた。
「エマ・・・」
「しばらく、ここへは来られないけれど、その間、僕の妻をよろしく頼むと・・・、ランドルフ様は私に言われました」
「もう二度と、ランドルフ様の訪れはありません。仮にあったとしても、わたくしはもう二度と、この屋敷に、ランドルフ様を招き入れるようなことはしません」
「どうして、そのようなことを?ランドルフ様が、アンヌ様のことを妻だと言われるのなら、ご結婚されることが、おふたりにとって、一番お幸せなことではないのですか?」
「わたくしは、これまでに、数多くの罪を犯してきました。そのことを・・・、あなたは誰よりもよく知っているでしょう。わたくしのこの手は、闇色に染まり、心も身体も、罪に染まりきっています。その罪は、贖おうとしても、贖えるものではないのです。そのわたくしが、当たり前の様に、結婚して、子を産むなどできると思いますか?わたくしの背負う十字架を、ランドルフ様にも背負わせることなど、できるはずはありません」
「それならば、私も同罪です。私も、ミラージュで、数々の罪に手を染めてまいりました。アンヌ様が、そうおっしゃるのならば、私も・・・、これまでの罪を洗いざらい、アンソニーに告白します。そして・・・、そして、婚約を破棄します!」
「それは、絶対にいけません」
「不公平です・・・。だって・・・、こんなこと、あまりにも不公平です。私も、同じように罪に手を染めたのに、私だけが、幸せになって、なぜ、アンヌ様だけ・・・」
エマは、顔を覆って号泣した。
溢れる涙は止まらずに、嗚咽を繰り返した。
「よく、お聞きなさい、エマ。あなたには、何の罪もありません。あなたに、そのように恐ろしい罪を犯すよう仕向けたのは、ミラージュであり、お父様であり、そして、わたくしなのです」
「いいえ、アンヌ様は、いつも私を守ってくれました。アンヌ様が守ってくださらなければ、私は・・・、」
ラングラン公爵の命令によって、闇の組織、ミラージュの協力者への報酬として、この身体を差し出されていたことでしょう、ずたずたに弄ばれ、私の身体など、とうに汚れ切っていたことでしょう、とエマは心の内で叫んだ。
「あなたには、何も罪はないのです。衝動的になってはいけません。アンソニーには、何も、告げてはいけません。告げる必要はないのです。あなたに罪はないのですから」
アンヌは、椅子から立ち上がり、エマの前に立つと、励ますように、言い聞かせるように、その肩を揺すった。
ラングラン公爵亡き後、その罪を一人で背負って生きようとするアンヌが、どうしようもなく哀しく、切なかった。
「では、アンヌ様のお子は・・・、私が、育てます」
「エマ・・・」
「アンヌ様が密かに産んだお子は、私とアンソニーの子ということにして、引き取ります。アンソニーは、私が、何とか説得してみせますから」
「それでは、あなたは、結婚式が挙げられなくなります。教会は、結婚前の契りを認めていません」
「そんなことは、もうどうでもいいことです。そんなことより・・・、アンヌ様と、お腹の赤ちゃんが無事でいらっしゃることの方が、ずっとずっと大切です」
エマの涙は、途切れることがなかった。
エマは、噴き出す感情を、抑えることが出来なかった。
アンヌは、エマの瞳を、ポケットから出したハンカチでそっと拭い、その涙が落ち着くまで、しばらく待ってから、
「あなたのその気持ちは、とても有難く思います。けれども、そういうわけにはいかないのです」
落ち着いた声で、そう言った。
「何故、そうしてはいけないのですか?」
「子が生まれ、あなたとアンソニーの子として育てたとして、万一、真実がランドルフ様や、モーガン家に知られるようなことにでもなったら、どうなると思いますか?」
「アンヌ様とアンソニーと私さえ、黙っていれば、真実など、誰にも知られることはありません」
「いいえ、そのようなことは、どこからか、真実が伝わるものです。もしも・・・、もしも、生まれた子が、ランドルフ様に似ているようなことがあれば、それだけで勘づく人がきっと出てきます。その時に、ランドルフ様が奥様を迎え、奥様との間に子がいたなら、どれほど、モーガン家に迷惑がかかることになるか、わかることでしょう」
「でも・・・、私には、出来ません。アンヌ様から赤ちゃんを奪って、アンヌ様のお身体に万一のことがあるようなお薬を差し上げることなど・・・、私に、できるはずはありません」
「結婚前のあなたに、このようなことを頼まなければならないことを、本当に心苦しく思います。けれども、そうするよりほか、どうしようもないのです。未婚のわたくしに、子が出来たなどと言うことが表沙汰になれば、わたくしは、もうこの地にはいられなくなります。社交界や組合、企業からも強い非難を受けて・・・、わたくしの農園で実った綿花を、もう誰も買ってくれなくなるかもしれません」
アンヌの言うことは、決して間違ってはいなかった。
アウラという保守的な土地で、上流階級に属する娘が、未婚のまま、子供を産むなどと言うことは、決して許されるものではなかった。
「このようなことになったのは、わたくしが愚かだったのだと思います。短慮だったのだと思います。ですが、もう後戻りすることはできないのです。・・・エマ、あなたしかいないのです。わたくしが、このようなことを頼めるのは、あなたしかいないのです。どうか・・・、この通りです」
アンヌは、じっと頭を下げた。
それは、エマがこれまで一度も目にしたことのない、アンヌの姿だった。
何よりも、誰よりも誇り高いアンヌのそんな姿を、エマはこれ以上眼にしたくなかった。
「どうか・・・、どうか、おやめください、アンヌ様。私になど、そのようなことをなさらないでください」
エマは、何度も、何度も、首を振った。
アンヌの申しつけを受け入れる決心がつかず、エマは、どのくらいの時間そうしていたのだろうか・・・。
やがて、わかりました、とエマは小さな声で呟いた。
「・・・わかりました。アンヌ様のお申しつけどおりにします。アンヌ様の言われる通り・・・、お薬を買ってまいります」
エマは、泣きはらした眼で、アンヌを見つめた。
長くアンヌに仕えるエマには、アンヌの考えていることが、手に取るように分かった。
もしここで、エマがどうしてもできないと言い張れば、アンヌは、冬の冷たい池にでも、漬かるのだろう。
お腹の赤ちゃんが、いなくなるまで。
「お薬を買いに、これから・・・、ペンナへ行ってまいります」
「エマ・・・」
アンヌは、安堵するように、ほうっと、大きな息をついた。
「これからすぐにペンナへ行って、夜までには戻ってきます。どうか・・・、それまでゆっくりお休みください。少しでも、お身体を楽にしていてください。・・・寝室に、火を入れてきます」
エマが溢れる涙を拭い、ストーブに火を入れるため、アンヌの寝室へ向かおうとしたその時だった。
玄関のドアベルが、カラン、カランと、軽やかな音をたてた。
来訪を告げるその音に、はっ、とアンヌもエマも動きを止めた。
もう一度、ドアベルが鳴る。
アンヌもエマも、深刻な話に気を取られすぎて、来訪者の馬の蹄の音には、気が付いていなかった。
「どなたでしょう・・・」
来訪者の予定がなかったため、エマがそう首を傾げた時、
「アンヌ、僕だ。ランドルフ・モーガンだ!」
大声で、アンヌの名を呼ぶ声が聞こえた。
思わず、アンヌとエマは、顔を見合わせた。
けれども、アンヌはすぐに、気を取り直すと、
「エマ、下へ行って、すぐお帰りになる様に、伝えなさい。決して、屋敷の中へ入れてはいけません。そして、今の話は、絶対に話してはなりません。わたくしは、このまま二階にいます。いいですね、絶対に、屋敷に入れてはいけません」
固くエマに言いつけた。
エマが、階下へと降りてゆき、アンヌは、椅子に座った。
何故、今頃になって・・・。
今頃、一体、何をしに・・・。
アンヌは、時が過ぎ、ランドルフが立ち去る時を、そのままじっと待った。
胃からは言いようのないほどの不快感が込み上げ、身体が、ひどく重かった。
十分ほどして、エマが、書斎へと戻って来た。
「ランドルフ様は、帰りましたか?」
「いえ・・・、アンヌ様にお話があると」
「話すことは、何もありません。このまま、すぐ立ち去る様に、言いなさい。どうしても、帰らないと言うのなら、アンソニーとオーウェンを連れて来るのです。どんなことをしても、力づくでも、お帰りいただくのです」
「それが、アンヌ様のことで、随分、困っていることがあると・・・、そのせいで、縁談が破談になるかもしれないと、仰って・・・」
エマは、当惑の色を隠せなかった。
「わたくしのことで?」
まさか・・・、先日、ランドルフ様と過ごした一夜が、相手方の耳にでも入ったのだと言うのだろうか。
「一体、何があったというのですか?それで、わたくしにどうしろと?」
「それは、直接会ってお話になるそうです。何度も、アンヌ様は、お会いになりませんとお話したのですが、それでは困るのだと・・・、ようやくまとまりかけた縁談が破談になるかもしれないと、お母様のマーガレット様も随分と気落ちなさって、塞ぎ込んでいるそうです」
わたくしのせいで、縁談が、破談に・・・?
マーガレット様が塞ぎ込んでいる・・・。
ランドルフの来訪の目的は、まだ不明だったが、少なくとも、アンヌとの復縁を望んでいるわけではないようだと言うことは、察しがついた。
「・・・いいでしょう。けれども、屋敷に入れてはなりません。用件は、表で聞くと伝えなさい」
アンヌは、そう言って、エマを先に下へ行かせた。
そうして、しばらく胸に手を当てて、心を落ち着かせるように深呼吸をした後、エマに続いて、階下へと向かった。