8-3.UNFORGETTABLE



 ベアトリス主催のお茶会も、中盤に差し掛かっていたが、集まった婦人たちのお喋りは、尽きるところがなかった。
他所の家庭の裏事情、他家の婚活話、嫁姑問題まで、話題には事欠かず、先日のモーガン邸で行われた盛大な秋の夜会も、婦人たちの話題のひとつとなり、その豪華さと煌びやかさに、一同の称賛を受けたマーガレットだった。
あれだけ大人数の夜会では、舞踏会の最中にランドルフが姿を消したことになど、まず気づくものはなく、気づいたとしても、マーガレットがうまく取り繕ったので、何の騒ぎにもならなかった。
夜会が大成功に終わったことに、マーガレットは確かに満足していたが、ランドルフの一件を思うと、心中は複雑だった。
マーガレットは、ランドルフとシャーロットの件を、硬く口留めをして、ベアトリスと、義理の弟と妹にあたるトーマスとレイチェルにだけ話していたのだったが、シャーロット側から、誰かに話が漏れているかもしれず、今、この場で夜会を称賛する婦人たちの中にも、ランドルフとシャーロットの縁談が頓挫したと、耳にしている者があるかもしれないと思えば、その称賛を素直に受け止めることは、出来なかった。
話題が、モーガン邸での夜会から、別の話題へと移り、マーガレットは何気なく、アンヌの方へと視線を向けた。
が、アンヌの姿は、そこになかった。
主のいない椅子が、ぽつんとひとつ、残されていた。
周囲の若い婦人たちは、話に夢中で、それを気に留めることもない様子だった。
当初は、さして気にしなかったマーガレットだったが、三十分を過ぎても、アンヌが戻ってくることはなかった。
「あの高慢な娘、居場所がなくなって、とうとう逃げ出しちゃったみたいね」
隣の席に座ったシーラ・ドハティが、意地悪な笑みを浮かべつつ、マーガレットの耳に囁いた。
シーラは、四月にモーガン邸で起こったアンヌとの諍いの件を、未だ根に持っていた。
けれども、シーラが、お菓子に眼がないことをよく知るベアトリスが、その眼の前にシーラ専用のケーキスタンドを置いておいたせいで、それを頬張ることに夢中のシーラは、 すぐにアンヌのことなど忘れて、再び目の前のお菓子に取り掛かっていった。
そのうち、マーガレットの耳が、わずかな音色を捕らえた。
傍らのシーラに、
「ねえ、何か聞こえない?・・・ピアノかしら?」
そう尋ねてみたものの、
「そう?そう言えば、そんな気もするけれど・・・、子供が練習しているのじゃない?」
と、シーラは、さして、気に留める気配もなかった。
集まった婦人たちはみな話に夢中で、マーガレット以外、かすかに聞こえるピアノの音色を、気に留める者はいなかった。
確かに、屋敷には、ベアトリスの孫たちが六人も一緒に暮らしていて、そのうち四人は女の子だったので、誰かが弾いていると考えるのが適当だったが、何故か、マーガレットは、かすかに響き続けるそのピアノの音色が、気にかかった。
だから、そっと席を立つと、ベアトリスの席に行き、みなの話の邪魔にならないよう、その耳元で、尋ねてみた。
「このピアノは・・・、誰が弾いているの?」
ベアトリスは、答えなかった。
しばらく黙ったままのベアトリスだったが、すっと立ち上がると、みなさま、マーガレットに話したいことがありますから、少しの間、失礼させていただきます、と、マーガレットを伴い、部屋を離れた。



 ベアトリスとマーガレットは、広大な邸宅のオープン階段を、一階から二階へと上がり、家人のプライベートな部屋が並ぶ場所へと向かった。
このあたりは、私的な場所なので、ベアトリスと旧知の中であっても、マーガレットが足を踏み入れたことはなかった。
美しく響くピアノの音色は、次第に大きくなってきた。
ベアトリスは、ある部屋の前で足を止め、静かに、ドアを押し開き、隙間を開けた。
その隙間からは、部屋の中の様子がうかがえた。
そこは、アンダーソン邸のリビングで、ピアノの前に座って、鍵盤に指を走らせる、アンヌの横顔が目に入った。
ちょうど、一曲弾き終えたアンヌが、鍵盤から指を下すと、傍らの椅子に座って聞き入っていた、十一、二歳くらいに見える娘は、にこやかな笑顔になって、拍手をした。
明るい色の髪を、背中に垂らした、まだ顔立ちに幼さを残した娘は、笑うと一層、あどけない可愛らしさが目立った。
「こんなに上手にピアノが弾けることを、どうして今まで、隠していらっしゃったの、アンヌ様。本当に、美しい音色で、うっとりしてしまうわ」
「隠していたわけではないのです。長い間、弾くのを止めていたのです。ですが、この夏に機会があって、また弾き始めたのです」
「演奏会は、なさらないの?」
「そのような腕前ではありません」
と、アンヌは笑いながら首を振った。
マーガレットの知る、いつもの取り澄ましたアンヌとは違って、穏やかな表情だった。
「先ほど頂いたこのプレゼントも、とっても素敵だけれど・・・」
と、娘は傍らに立つ召使の手から、木の箱を受け取ると、手探りで蓋を開けた。
蓋を開けた途端に、可愛らしいメロディが流れ出す。
「でも・・・、アンヌ様の演奏の方が、何倍も素晴らしかったわ。本当よ」
「気に入っていただけて、光栄です」
アンヌは、微笑みを返した。
オルゴールを手探りで開く、娘のその仕草を見て、ふたりの様子を、隙間からそっと伺うマーガレットは、ようやく思い出した。
その娘が、ベアトリスの孫の一人で、目が見えないと言うことを。



 ベアトリスには、二人の息子がいて、二人とも既に結婚し、六人の孫がいた。
けれども、最年長が十四歳の娘で、まだ誰も社交界にはデビューしておらず、マーガレットがベアトリスの孫たちに会う機会は、めったになかった。
が、ベアトリスの孫のひとりが、目が不自由だと言うことは、聞いたことがあった。
ただ、そう聞いていたとしても、これまでそのことが話題に上がることはなく、正直、気にかけたことはなかった。
「孫のヘレナよ」
ベアトリスが、マーガレットの耳元でそっと囁いた。
アンヌもヘレナも、扉からそっと中を伺うベアトリスと、マーガレットには気づいていない様子で、話を続ける。
「じゃあ、次は・・・、どの曲をおねだりしようかしら?曲名を読み上げてくださる?」
「せっかくなのですが、そろそろ、お暇する時間のようです」
時計で、時刻を確認したアンヌは、屈託のないヘレナに、そう告げた。
途端に、ヘレナの表情が曇る。
「もうお帰りなの?」
「また、お手紙を書きますから、ベアトリス様に、読んでいただいてください」
「お手紙も、嬉しいけれど、今度はいつ来てくださるの?」
「はっきりとお約束は・・・」
「・・・そうよね、農園のお仕事が、お忙しいですものね。ごめんなさい、我儘を言って」
しょんぼりと肩を落とすヘレナを見ていると、アンヌの方も、不憫な気持ちが込み上げて来る。
「本当に、とっても、素敵な演奏だったわ。私、ピアノって大好きなの。お母さまも、お姉さまも、少しは弾かれるけど、今日の、アンヌ様の演奏は、特別だったわ。また、ぜひ聞かせてくださる?」
「それほどまでに、ピアノが好きなら、お父様にお願いして、習ってみてはどうでしょう?」
「それは・・・、無理よ。だって、目が見えないんですもの。それに、お父様もお母様も、きっと賛成してくださらないわ」
「何故でしょう?」
「目が見えなくて、うまく弾けないから、私ががっかりすると思って・・・、習わせてはくださらないわ。だって、これまで、ずっとそうだったんですもの。本当は、私も、お姉さまみたいにダンスも習ってみたいし、刺繍だってやってみたいの。でも・・・、この目のせいで、みんなみたいに上手くできないから、私がひどく傷つくんじゃないかって、いつも心配するのよ。でも、お父様とお母様の言う通りね。きっと、私に、できるわけないもの・・・」
「最初から諦めるのは、間違いです」
アンヌは、間髪を入れずに、きっぱりと反論した。
「アンヌ様・・・」
「やってもみないで、何故、できないと決めつけるのですか?できないと、誰が決めたのでしょう?」
「それはそうだけれど、でも・・・」
「敵は、自分の心の中にいます。敵は、臆病な自分です。目が不自由だからと言って、自分の可能性を、自分で閉ざしてしまってはいけません。やってみたいと思うことがあるのならば、自分を信じて、やってみるのです。たとえ、お姉さまたちよりも、上手くできないからといって、そのようなことを気にする必要はないのです。人と比べる必要は、ないのです。街にも、堂々と外出するべきです。若い人の集いにも、積極的に行くべきです。傷つくことを恐れてはいけません。あなたはあなたらしく、あなたのやりたいと思うことを、精一杯なさい。たとえ、失敗しても、傷ついても、うまくいかなくても、それらは全て、自分の財産になります。それが、自分の人生を生きるということです」
アンヌの言葉は、純粋な娘の心に響いた。
「ピアノ・・・、私も、弾けるようになるかしら?」
「もちろんです」
「私・・・、お父様とお母様に、お願いしてみる。一生懸命、お願いしてみるわ」
「後で、わたくしの方からも、あなたがピアノを習うことが出来るように、ベアトリス様にお願いしておきましょう」
ヘレナは、歓声を上げた。
「だったら、とても心強いわ。おばあさまが味方をしてくれるなら、きっと、大丈夫。じゃあ・・・、ひとつ、アンヌ様にもお願いしていい?」
「何でしょう?」
「私が、ピアノを弾けるようになったら、お誘いのお手紙を送ってもいい?できるだけ早く来ていただけるように、私、一生懸命、練習するわ」
「では、次、ペンナの街に赴いた折に、あなたに合った楽譜を求めておきましょう。そうして、その中から、わたくしが課題曲を選んで、こちらへ届けさせます」
ヘレナは再び、歓声を上げた。
「本当に、嬉しいわ。ああ、どうしましょう。今からもう待ちきれないわ。アンヌ様、きっと、楽譜を届けてくださいね。私、アンヌ様からの課題を、楽しみにしています」
ヘレナは、新しい挑戦に、興奮を隠せなかった。
アンヌは、そのヘレナを温かな眼差しで、見守っていた。
ベアトリスは、ふたりに気づかれないよう、そっと、扉を閉めた。



  「五年程前、自分の農園を持つ前に、アンヌは、しばらくここに住んでいたことがあるの。私たちから農園経営について、学ぶためにね」
マーガレットと、婦人たちの集うゲストルームへと戻りながら、ベアトリスは、そう話し出した。
「その時に、孫たちとも顔を合わせて・・・、アンヌは、目が不自由なせいで、とりわけ引っ込み思案なヘレナのことを、気にかけてくれたの。でも・・・、ヘレナを内向的にしたのは、あの子自身じゃない。周りの大人たちだったようね」
先ほどの、アンヌとヘレナの会話を耳にして、ベアトリス自身にも、思うところがあるようだった。
「ねえ、マギー、この家に、目の不自由な娘がいることは、誰だって知っているはずよ。でも誰一人として、気にかけてくれる人なんていなかった」
その言葉は、マーガレットにも突き刺さった。
「でも、アンヌだけは違った。自分の農園が忙しくて来られない時は、私への手紙と一緒に、ヘレナ宛の手紙をくれるのよ。時には、先ほどのオルゴールの様な、あの子が喜びそうな贈り物を添えてね。今日は、お茶会を少し抜けて、ヘレナにピアノを演奏してあげてもいいかと尋ねてきたから、もちろんぜひ、そうしてちょうだい、あの子もきっと喜ぶでしょうって、答えたのよ。アンヌの気遣いが、目が不自由なせいで、家族以外に友達もいない、あの子にとって、どれほどの喜びだったか、わかるかしら?」
ベアトリスは、そっと目頭を拭った。
マーガレットは、何も答えられなかった。
マーガレットの受けた衝撃は、大きかった。
私は、これまで・・・、あの娘の何を見て来たのだろう。
あの娘の・・・、何を知っていたのだろう・・・。
マーガレットは今ようやく、何故、ランドルフがアンヌに惹かれたのかを、はっきりと理解した。
「さあ、今週の私の仕事がひとつ増えたわね。ヘレナに相応しいピアノ教師を、探さなくては」
ベアトリスは、気を取り直すように、そう言い、何事もなかったように、婦人たちの集うゲストルームへと戻った。