8-1.UNFORGETTABLE    



 十一月中旬、ペンナの街の教会で、アンソニーとエマは、正式に婚約をした。
婚約のために、五カ月ほど前から準備を整えて来たふたりだったので、何の問題も、不備もなく、婚約式は、ふたりの希望通り、厳かに、慎ましやかに執り行われた。
牧師による説教があり、互いに婚約の意思を証し、アンソニーからエマへ婚約指輪が贈られ、最後は賛美歌で式を終えた。
そして、婚約式の後には、アンソニーとエマ、牧師と数名の教会関係者、そして、参列者のアンヌで、ささやかなお茶会が催された。
晴れて婚約者となったアンソニーとエマは、幸せと喜びで一杯だった。
春に予定されている結婚式には、アンソニーの親戚が、数名は参列する予定だったが、両親はすでに他界し、故郷は遠方、という事情があったせいで、アンソニー側から婚約式に参加する者はなく、エマにも家族はなかったため、婚約式に参列したのは、アンヌひとりだった。
もちろん、アンソニーは、前の主人であるランドルフに、婚約の報告をし、祝福を受けたものの、多忙を理由に、婚約式への出席は断られてしまった。
その多忙という理由が、本当かどうかはわからなかったが、アンヌは、ランドルフが婚約式には来ないと聞いて、ほっと胸をなでおろした。
エマの婚約式に、主人とも唯一の身内とも言うべき存在の、アンヌが出席しないわけにはいかなかった。
だから、もしランドルフがアンソニーとエマの婚約式に来るとすれば、当然顔を合わせることになった。
顔を合わせることになったならば・・・、もし顔を合わせることになったとしても、アンヌは、エマの、主人として振る舞うつもりでいた。
ランドルフと自分とは、もう何の関係もないと、あの一夜で、全ては終わったのだと、自らに言いきかせていた。
とはいうものの、実際に顔を合わせて、ランドルフに親密な態度を示されるようなことがあれば、心が波立つのは明らかだったので、婚約式にランドルフは出席しないと聞いて、アンヌは、安堵した。



 契りを交わしたあの夜から、二週間が過ぎようとしていたが、あれ以来、ランドルフが、アンヌの屋敷を訪れることはなかった。
ランドルフとの別離は、自らが望んだこととはいえ、辛くないと言えば、嘘になった。
優しく抱きしめられた時の肌のぬくもり、身体中のあらゆる場所を愛でられた時の込み上げる熱い想い、重なり合う吐息、そして何より、分かち合った時間・・・。
ランドルフと愛を交わしてからしばらくの間、ランドルフが自らの体内に留まった感覚は、アンヌの身体に残った。
淫らだと思いつつ、下腹部に残るその余韻は、消しようがなかった。
ランドルフと、契りを結んだことを後悔しているわけではなかった。
一度でいいから、愛されたいと思った、そして、それが叶ったのだから、アンヌに後悔はなかった。
けれども、いまだ愛し続けている人が去った喪失感は、何かで埋め合わせが出来るものではなく、心には、大きな穴があいたままだった。
アンヌにとって、せめてもの救いは、あの夜以降、ランドルフがアンヌを訪れて来なかったことだった。
アンヌの意向を、尊重してくれたことが、唯一の救いだった。
もしも、ランドルフが、アンヌの望みを無視して、訪れてくるようなことがあれば、アンヌは、拒まなければならなかった。
ずるずると、ランドルフとの関係を続けることは、お互い、絶対に出来ないことだった。
ランドルフは、立場に相応しい娘を娶る義務があり、アンヌにとっては、ふたりの関係が、世間に知られたならば、ふしだらな娘として、社交界から締め出されてしまうことになった。
ベアトリス・アンダーソンの支援さえ失いかねず、そうなると、ただでさえ社交界から疎まれているアンヌが、アウラで暮らしていくことはできなかった。
だから、ランドルフとの関係が終わったことに、癒えない心の痛みを覚える一方で、誰にも知られないまま、終わったことに、どこかほっとしている部分もあった。
後は、この心の痛みを、乗り越えるだけ。
アンヌは、かつての経験から、この心の痛みは、時間が癒してくれると知っていた。
毎日、やるべきことをしっかりやって、余計なことを考える暇もないほど忙しくしていれば、いつかきっと、忘れられる。
アンヌは、自分にそう言い聞かせ、日々、忙しく働き、気を紛らわせた。



 十月に、農園は、無事収穫を終えた後、綿の木は、順次、抜き取られ、焼却され、十一月の今は、殺風景な風景が、あるばかりだった。
綿花の収穫が終わったからと言って、アンヌの仕事が終わる訳ではなく、収支決済を始めとして、農工具の修理補充、来季の計画、奴隷たちの処遇まで、仕事は限りなくあった。
けれども、今、アンヌにとっては、仕事は多い方が、気が紛れて、有り難かった。
忘れられる。
きっと、忘れられる。
アンヌは自分にそう言い聞かせて、日々を過ごしていた。
そんな中、執り行われたアンソニーとエマの婚約は、アンヌの心に、久しぶりに温かな風を送り込んでくれた。
幸せそうなふたりを見ていると、凍てつきがちなアンヌの心も、自然と和らいだ。
エマには、幸せになってほしい。
アンヌは、婚約式を終え、幸せそうなふたりを見つめつつ、心からそう願った。



 婚約式を終えると、春の結婚式に向けて、エマは花嫁としての支度があった。
そのひとつが、ウエディングドレスで、その件について、アンヌがエマに尋ねると、ウエディングブーケは、すっかり親しくなった、エマがよく買い物に行く食料品店の娘が、結婚祝いとして、手作りしてくれるということだった。
そして、料理以上に裁縫が得意なエマは、ウエディングドレスの生地を買い求めて、自分で縫い上げるつもりだと、話した。
それならと、アンヌは街でドレスのための生地と、美しいレースを自ら選び、エマに買い与えた。
買い与えられた生地を見て、エマは、驚いた。
そして、このようなもったいない品は受け取れないと、固辞した。
アンヌがエマに買い与えたのは、上流階級の娘の婚礼衣装に使われるような、上等のシルクで、エマの身分からすれば、恐れ多いと思えるような品物だった。
そのエマに、では、買い求めたこの生地は、一体どうするのですか、と、アンヌは笑って取り合わなかった。
そのアンヌの心中を思いやるエマは、複雑だった。
アンヌ様こそ、この上等な生地を使ったドレスを仕立て、ランドルフ様に嫁がれるべきなのに・・・。
自分ばかり幸せになることが、主人想いのエマには辛かった。
アンヌとランドルフの間に、どういった経緯があるのか、詳しく知っているわけではなかったが、ふたりが一夜を過ごしたこと、そして、ランドルフの訪れが途絶えたものの、アンヌが今も、ずっとランドルフを忘れられずにいるのだと言うことが、長く仕えるエマには、よくわかった。
婚約式を終え、正式にアンソニーのフィアンセになり、結婚式に向けて、心弾む時に違いなかった。
花嫁になる喜びに溢れているはずの、エマだった。
けれども、アンヌに買い与えられた、優雅な光沢と、しなやかな肌触りのシルクに触れると、アンヌの想いに触れるようで、エマの目頭には、込み上げて来るものがあった。
きっと、きっと・・・、幸せになるのですよ、エマ。
アンヌの声が、聞こえるような気がした。