6-2.悪女



 残暑の中、アンヌは果てしなくまっすぐに続く、綿花畑の小道を、吹き始めた綿花をひとつひとつ確かめるように、歩いていた。
もうあと数日で、季節は九月へと進み、半月もすれば、綿が開き切って、収穫の時期を迎え、農園は一年で最も忙しい時期を迎えた。
例年ならば、収穫の時期を目前に控えて、さあ、いよいよと、気合が入ると同時に、心弾む季節であるはずなのに、アンヌの心は、浮かなかった。
それが、ランドルフ・モーガンのせいであることは、疑いようがなかった。
昨夜は、眠れぬ一夜を過ごし、ランドルフとの決別を決心したアンヌだった。
アンヌは、昨夜、別れ際に、朝一番で、やってくると言ったランドルフに、別離を告げる時を、胃がきりきりと痛むような緊張のせいで、朝食すら取れずに、待っていた。
そのアンヌの元へ届いたのは、どうしても抜けられない、突然の仕事が入って、今朝は行くことが出来なくなったという、ランドルフからの知らせだった。
そして、明日は何があってもそちらへ行く、と記してあり、最後は、アンヌへの愛情を示す言葉で結ばれてあった。
ランドルフからの手紙に眼を通して、アンヌは、別れの時が一日伸びて、ほっとしたような、もどかしいような、矛盾した気分になった。
アンヌは、ふたりの関係を終わらせることを、決めてはいたものの、だからといって、気分が晴れやかになることはなかった。
本当ならば、アンソニーに眼を通しておいてほしいと言われていた書類があったのだが、ほんの少しでも、張り詰めた心を解きたくて、屋敷に近い綿花畑の中を、こうして歩いてはみるものの、あまり効果はなさそうだった。
そのアンヌの視野に、農園に向かって走って来る馬車が、入った。
その車室付きの立派な馬車に見覚えはなかったが、もしかしたら、ベアトリス・アンダーソンかもしれないと、アンヌは思った。
アンヌを気遣って、ベアトリスは、頻繁に手紙を送って来てくれた。
アンヌも返信はしていたものの、農園の業務が多忙で、一度、屋敷に顔を見せに来なさいという、ベアトリスの誘いには、応じることが出来ていなかった。
最後にベアトリスに会ったのは、四月初旬、ベアトリスの誕生会に招かれて、アンダーソン邸を訪れた時で、あれから、もう五カ月が過ぎようとしていた。
それで、アンヌを心配したベアトリスが、わざわざやって来てくれたのかもしれないと、馬車がアンヌの屋敷の前へと滑り込むのを見て、アンヌは、小走りで屋敷へと戻った。
けれども、アンヌを訪れたのは、ベアトリスではなかった。
アンヌが、小走りで自分の屋敷に戻った時、御者の手を借りて、車室から、ひとりの貴婦人が降り立ったばかりだった。
気配を感じた貴婦人は、後ろを振り返り、アンヌと顔を合わせた。
途端に、アンヌの表情は、硬くなった。
訪問者は、ベアトリス・アンダーソンではなく、マーガレット・モーガンだった。
「お久しぶりね。約束もせず、お昼前に、突然ごめんなさい。でも、どうしても、あなたと話しておかなければならないことがあるの。今、お時間、よろしい?」
マーガレットの頬には、笑みが浮かんでいた。
けれども、その瞳に浮かぶのは、笑みではなく、怒りの焔だった。

この怒りに・・・、呑まれてはならない。
敗北してはならない。
こうなった以上は、全てを、蹴散らしてでも、誇りを保つのだ。
わたくしは、決してみじめな姿をさらしたりはしない。
ランドルフとの決別を決めた今、農園と、自らの誇りだけは、何としても守り抜くのだ。

アンヌは、瞳に強い光をたぎらせ、マーガレット・モーガンに対峙した。



 「素敵な応接間ね。明るい色合いで、爽やかで、いいご趣味だこと」
応接間に通されたマーガレットは、白を基調にした明るい室内をぐるりと見回して、そう言った。
アンヌの存在などないかのように、しばらく、窓辺に立って、外を眺めていたマーガレットだったが、お茶の支度を整えて入って来たエマを見て、どうぞおかまいなく、と告げた。
お茶の支度を整え、エマが下がったものの、マーガレットも、アンヌも、ソファに座ろうとはしなかった。
ティーカップに注がれたお茶からは、小さな湯気が、静かに立ち上っていた。
先に口を開いたのは、マーガレットだった。
「ランドルフは、随分とあなたにご執心のようね。このひと夏、自分の農園を放り出して、あの子はほとんど毎日、ここへ通い詰めですものね」
「マーガレット様の、ご用向きは何でしょう?その件に関してのお叱りでしょうか?それでしたら、納得いただけるように、十分なお支払いをするつもりです」
「何ですって?」
マーガレットの頬から、笑みが消えた。
「六月の中頃に、農園監督者が大怪我をして、働くことが出来なくなりました。偶然、その場に居合わせたランドルフ様が、わたくしの農園の窮状を見かねて、代理を申し出てくれたのです。それで、わたくしは雇うことに決めました。お支払いが滞った件について、ご立腹なのでしょうか?それでは、早急に、お支払いします」
「つまり、あなたは、ランドルフを・・・、モーガン家の嫡男を、農園監督者として雇った、と言うのね」
「その通りです」
アンヌは、表情を変えることなく答えた。
ランドルフを、雇ったですって?
由緒ある大農園の・・・、私の息子を?
なんて小生意気な、娘!
馬鹿にするのも、いい加減になさい。
もう少しで、マーガレットは、そう声を荒げるところだった。
けれども、マーガレットは、辛うじてその怒りを飲み込んだ。
何故なら、マーガレットが、アンヌを訪れた目的は、そんなことではなかったからだった。
「私が今日、ここへ来たのは、ランドルフとあなたのことについてよ」
窓辺に立つマーガレットは、硬い表情のまま、ソファの傍らに佇むアンヌに、そう切り出した。
「まさか、この期に及んで、ランドルフとは、何もないだなんて、言わないでしょうね?」
アンヌは、答えなかった。
「私も、いろいろ考えたのだけど、この際、あなたにとっても、はっきりと言っておく方がいいと思ったの。これ以上、深入りする前に。その方が、あなたのためだと思って。だから、単刀直入に言います。ランドルフには、この秋、お見合いを予定しているお嬢様がいます。もちろん、相応しい家柄のお嬢様で、お嬢様も、双方の家も、この縁を大切に考えていますし、早ければ、来年早々にも、婚約、そして結婚ということになるでしょう。ランドルフが、一度、妻を亡くしていることは知っているのでしょうね?私は・・・、私たち家族は、今度こそ、ランドルフが素敵な人と結ばれて、幸せな家庭を築いてほしいと、心から願っているの。そのためだったら、私は、何でもするつもりです。だから、今日、私はここへ来たの」
と、マーガレットは、そこで言葉を少し区切ってから、
「ランドルフとは、もうこれまでにして。今後一切、あの子には、関わらないで。あの子が、ここへやって来ても、拒絶してちょうだい」
そう、はっきりと、アンヌに告げた。
「わかりました」
マーガレットの申し出に、アンヌはいささかも表情を崩すことなく、即答した。
拍子抜けしたのは、マーガレットの方だった。
「そう・・・、それなら、いいのだけど」
「わたくしのほうに、異存はありません」
「必要なら、私も、あなたにお支払いをしましょうか?」
それは、つまり手切れ金、という意味に他ならなかったが、マーガレットが、厭味で言っているのではないということは、アンヌにも分かった。
何故なら、マーガレットにアンヌを嘲笑するような気配はなく、真顔のままだったからだった。
マーガレットは、ランドルフとアンヌの関係に、楔を打ち込む行為の残酷さを、知らないわけではなかった。
ふたりの苦さを知りつつも、認めることはできなかったのだった。
ランドルフの将来のためには。
「お支払いは、必要ありません」
「そう、・・・それなら、私の用件は以上よ。あなたには、申し訳ないと思うけれど」
「申し訳ない?・・・マーガレット様は、何か勘違いをされているように思います」
「勘違い?」
「正直に申し上げると、マーガレット様は心痛を覚えるかもしれませんが・・・、わたくしも、自分の名誉を守る権利は、与えられていると思います。ランドルフ様から、好意を押し付けられて、迷惑をしていたのは、わたくしの方です」
「何ですって?」
流石に、マーガレットも気色ばんだ。
「この夏、わたくしの農園の件で、ランドルフ様にお世話になったことは事実ですし、感謝しています。でも、だからと言って、そのことを盾に、ランドルフ様がわたくしに愛情を要求するのは、筋違いではないでしょうか?」
「つまり・・・、あなたは、ランドルフが・・・、私の息子が、あなたの農園を手伝った見返りに、あなたに好意を強要したと、そう言いたいの?」
「我が子の卑劣さを認めたくない、マーガレット様のご心情には、心より、同情申し上げます」
淡々とした口調のアンヌだった。
マーガレットは、怒りを堪えるために、拳を握り締めた。
抑えがたい怒りが、マーガレットの胸に、沸々と沸き上がった。
「ミス・クレマン・・・」
「何でしょう?」
「あなたが、高慢で、我儘で、独善的だと言うことは知っていました。そして、今日は、底意地の悪い人だということが、良く分かりました。でも、そのおかげで、私は、良心の呵責を覚えずに済みそうです。あなたが、私をどう思おうと自由ですが、これでも、私は、少しはあなたのことを気の毒だと思って、ここへ来たのです。でも、そんな必要はありませんでした。ミス・クレマン、あなたには、人間的に何か欠落しています。ですから、これ以上、何を言っても無駄でしょう。私は、あなたのような娘に、好意を抱いた息子の愚かさを、嘆くばかりです。・・・私はこれで失礼します。見送りは、結構よ」
そう言い残すと、マーガレットは、アンヌを残し、応接間を立ち去った。
お茶には手を付けることなく、一度も座ることもなかった。
マーガレットが立ち去った後、アンヌはしばらく、そのまま、じっと、立ちすくんでいた。
その瞳に、怒りはなく、ひとりで、ただ哀しみを堪えて、立ちすくんでいた。