6-1.悪女



 ふたりが熱い抱擁を交わすリビングを、訪れる者はなかった。
夜の静寂の中、何度も、何度も口づけを交わし、ランドルフの唇が、アンヌの肌を繰り返し彷徨った後、アンヌはランドルフの胸に抱かれて、時を過ごした。
ランドルフは、アンヌの髪に触れ、そっと口づけた。
アンヌは、ランドルフの腕の中で、言葉にはできない想いをかみしめていた。

愛しいあなた・・・。
どれほど想い合っていても、わたくしは、あなたと結ばれることができないのです。
わたくしの罪を、あなたに背負わせるわけにはいかないのですから・・・。

 どれほどの時間、そうしていたのだろうか。
「そろそろ、帰らないと・・・」
ランドルフが、小さく呟いた。
アンヌは、静かにランドルフの胸から顔を上げた。
「泊まるわけにはいかないだろう?」
ランドルフは、そう言って微笑み、
「明日、また来るよ。朝一番でね」
と、アンヌの唇に、そっと、唇を落とした。
そうして、夜の帳の中、モーガン邸に戻るランドルフを見送りに出たアンヌに、愛している、と告げ、もう何度目になるのかも分からない口づけを交わして、ランドルフは馬に上がった。



 アンヌは一睡もできないまま、朝を迎えようとしていた。
昨夜、ランドルフと過ごした時間が、一晩中、アンヌの心によみがえった。
後悔と、愛しさが入り混じって、心は千々に乱れた。
このままではいけない。
こんなことは、もう終わりにしなくては・・・。
アンヌは、そっとベッドから起き上がった。
そして、カーテンを開けて、まだ薄墨色の中にある、静寂に包まれた広大な農園に眼をやった。
わたくしの胸の痛みなど、とるにたらないこと。
わたくしが奪った罪なき命の数々を思えば、愛や恋に身を委ねられる身であるはずがないのに・・・。
アンヌには、自らの犯した数々の罪の中でも、とりわけ、自分自身を許すことができない出来事があった。
その後悔は、小さくなるどころか、歳を経るごとに、大きくなっていくばかりだった。
わたくしに、心からの信頼を寄せ、尽くしてくれた、美しいヘーゼルの瞳の持ち主、レティシア。
あの娘だけは、守ってやらなければならなかった。
どんなことをしても。
それなのに、わたくしは・・・。
アンヌは、深い後悔に襲われて、息苦しくなった。
呼吸が、荒くなる。
時折、訪れるその症状に、いつものように、大丈夫、大丈夫、落ち着きなさい、と、自分に言い聞かせ、胸を抑えて、息を吐き、呼吸が静まるのを待った。
わたくしが・・・、恋ですって?
愛ですって?
身の程知らずも、いい加減になさい。
アンヌは、自らを叱りつけた。
ランドルフ様には、もう二度と、ここへ来てはいけないと、告げること。
わたくしとは、もう関わってはいけないと、告げること。
自分が、罪人であると・・・、告げること。
それで、ふたりの関係には、完全に決着がつく。
一夜明けて、アンヌはそう結論を出した。
次第に、明けてゆく農園を見つめるアンヌの瞳は、もう揺れてはいなかった。
けれども、ふと、その瞳が緩んだ。
今頃は、幸せに暮らしていますか?
リックとブリストンで・・・、もしかしたら、新しい命も誕生しているのでしょうか?
どうか、幸せでいて、レティシア・・・。



 翌朝、起床してすぐ、馬の準備を命じておいたランドルフは、着替えを済ませ、簡単に朝食を済ませると、まだ、朝八時にもならなかったが、外出のために、玄関へと向かった。
外出先は、当然、アンヌの農園だった。
ランドルフの足取りは、軽かった。
これまでとは違い、今日からは、恋人として、アンヌと一緒に過ごせるのだと思うと、それだけで心は弾んだ。
けれども、
「ずいぶんと、楽しそうね、ランドルフ」
玄関のドアに手をかけたランドルフの頭上から、降り注ぐ声があった。
マーガレットだった。
マーガレットの言葉には、どこか険があった。
そして、いつものようにランディではなく、わざわざ、ランドルフと呼ぶあたり、何か、気に入らない事態があるのだと、すぐに察しはついた。
「昨夜は、ずいぶん遅くの帰宅だったようだけれど、何処へ出かけていたの?」
「ちょっと友達のところでね。・・・飲みすぎた」
「随分と、開放的なお友達ね。開放的?いいえ、不謹慎と言った方が、相応しいかしら。独身の女が、堂々と屋敷に男を招き入れて、深夜まで過ごすだなんて。私たちの頃と違って、最近は、不道徳な娘が増えたようね」
「お母さん・・・」
「私が、何も知らないとでも思っているの?あの娘の屋敷に行くことは、今後一切、許しません」
マーガレットは、玄関ホールへと続くオープン階段の手すりを持って、たっぷりと膨らませたグレーのドレスの裾を、さらさらと音を立てて滑らせながら、ゆっくりと降り、ランドルフの前に立った。
「お母さんは、彼女を誤解している。彼女は・・・、アンヌは、お母さんが思っているような女性じゃない。優しくて、強くて、賢明で、気品にあふれていて・・・、僕には、もったいないくらいの素晴らしい女性だ」
「そんな話は、一切聞きたくありません、ランドルフ。社交界での、あの娘の評判を、まさか知らないわけじゃないでしょう?気位が高くて、傲慢で、我儘で、自分勝手で、私たちに、一切、馴染もうとしない。ベアトリス・アンダーソンの庇護がなければ、あの娘は、とうに、このアウラの地を追われていますよ。あなたも、そろそろ目を覚ましなさい。あなたには、私が、きちんと似合いの娘を見つけてあります。近々、あなたはその娘と会うことになるでしょう」
「僕は、いい加減な気持ちで、アンヌと交際しているわけじゃない。僕は、彼女との結婚を望んでいます」
「ランドルフ!」
「僕は真剣です。僕は、心から彼女を愛している」
「お黙りなさい!」
マーガレットは、その焦げ茶色の眼を、かっと見開いて、ランドルフを睨みつけた。
「お母さん・・・」
ランドルフに比べて、マーガレットの方が、随分、体格は小さかったが、その凄まじい迫力は、ランドルフを圧倒した。
「目を覚ましなさい、ランドルフ・モーガン。私は、絶対に認めません。あの娘では、絶対にいけません。あの娘は、この家には、相応しくないのです。万一、あの娘がこの家に嫁いでくるようなことがあれば、モーガン家は没落します」
「何故・・・、そんな風に言いきれるんだ?」
「落ち着いて考えてごらんなさい。モーガン家の、相応しい格式と繁栄を望むのなら、社交界での、上流階級の方々とのお付き合いは、必要不可欠です。あらゆる人脈を築いておくこと、これは、とても重要なことです。そうすることによって、様々な情報を潤滑に得ることができ、モーガン家の利益へと繋がるのです。政財界の方々を始めとして、商人、教育関係、芸術家まで、多方面の方々と広く交流することで、モーガン家の名も挙がるというものです。そのためには、妻の果たす務めが、どれほど重要か、あなたにもわかるでしょう?私はこのモーガン家に嫁いで以来、四十年近く、モーガン家の名誉と栄華のために、ヘンリー・モーガンの妻として、及ばずながら尽力してきたつもりです」
マーガレットの言葉には、積み重ねて来た長い年月の重みがあった。
「私のその努力が、あの娘に出来るとは思いません。社交界の方々に、愛想よく振る舞うことも、お世辞一つ言うことさえも、出来ない。貴族の出身か何か知りませんけど、気位が高く、我が強くて、誰だって、あの娘に、近づこうだなんて思いません。そんな娘が、この家に嫁いでくるようなことになれば、どうなると思いますか?いいえ、社交界どころか、家族の結束でさえ、破綻してしまいます。この農園に住む、あなたの叔父や叔母のトーマスやレイチェル、それにあなたの従兄弟たちも、あの高慢な娘と、親しくなどできないでしょう。今、結束の固い私たち親族の間に亀裂を生み、家族は崩壊してしまうかもしれません」
「お母さん・・・」
「美しい娘だとは思います。あなたが惑わされても、仕方がないとは思います。貴族出身というだけあって、相応しい教養も、気品もあることでしょう。それは、私も認めます。でも、それだけでは、やっていけないのです。モーガン家の、あなたの妻に相応しいとはいえないのです。私の言うことが、わかりますね?」
いつも以上に、ランドルフに対するマーガレットの丁寧な言葉遣いが、何としても言い聞かせなくてはならないという、マーガレットの懸命さを物語っていた。
ランドルフがどうアンヌを援護したところで、マーガレットが一歩も引かないということは、既に、ランドルフはよく理解していた。
けれども、この件に関して、譲る気がないのは、ランドルフも同様だった。
「仕方がない。僕が、この家を出るよ。幸い、この農園には、僕以外に後継者がいる。頼りになる従兄弟が、ふたりもね」
「ランドルフ!」
マーガレットの頬は、怒りで震えていた。
気性の激しい一面を持つマーガレットの怒りを、ランドルフは、これまで見たことがないわけではなかった。
いや、むしろ、長く母に接してきたランドルフは、マーガレットの怒りを、よく知っていた。
けれども、今、ランドルフが目にするマーガレットの怒りは、これまでのどの怒りとも 違っていた。
どうあっても、モーガン家を守り抜かねばならないというマーガレットの決意を、ランドルフはまざまざと感じ取っていた。
「お母さんが、アンヌをどうしてもモーガン家に迎える気がないのは、よくわかった。でも、僕も、アンヌを譲る気はない。彼女は、ただ一人、僕を理解してくれた女性だ。フローレンスを失った、僕の哀しみを癒してくれた女性だ。僕には、彼女しかいない。誰にどう反対されても、僕は、彼女を離すつもりはないよ」
ランドルフは、そう言い残すと、玄関の扉を開けた。
「お待ちなさい」
「止めても無駄だよ」
「・・・いいでしょう。あなたの好きになさい」
先ほどまでとは、打って変わって、落ち着いたマーガレットの声音だった。
思わず、ランドルフは振り返った。
「何だって?」
「あなたの好きになさい、と言ったの。私が、これほど言っても聞き入れないと言うのなら、どうしようもないでしょう。あなたの好きになさい。ただし、それは、明日からにしてちょうだい」
「どういうこと?」
「先頃から、エヴァンズさんが、ずいぶんと熱心に勧める投資話があるの。ぜひ、あなたと一度、話をしたいそうよ」
エヴァンズというのは、モーガン家と古くから付き合いのある、投資家だった。
「僕じゃなくても、イーサンと話せばいい」
イーサンは、ランドルフの従兄弟のひとりだった。
「随分、大きな話だそうよ。イーサンひとりに、任せるわけにはいかないわ。それとも、早くもモーガン家の跡取りとしての、誇りも責任も家族も捨てて、あの娘の元へ行くと言うの?この夏、あなたがいないせいで、どれだけイーサンに迷惑がかかっているのかを少しでも考えたら、そんな無責任な言葉は、出て来ないと思うけれど」
そのマーガレットの言葉は、巧みにランドルフの良心を突いた。
ランドルフは、しばらくためらいを見せた後、
「わかった。今日は、エヴァンズ氏に会うよ。でも、今日限りだ。お母さんが、アンヌをこの屋敷に迎えることを認めない限り、これからも僕が、アンヌの屋敷へ行く」
それだけを言い残すと、エヴァンズを訪れる支度をするために、ランドルフはオープン階段を上り、自室へと戻った。
「・・・どうぞご自由に、ランドルフ・モーガン」
ランドルフが去った方へ鋭い視線を向けながら、マーガレットは、そう呟いた。