5-5.SAY YES



 「それで・・・、ペンナの街で、買い求めたと言うのが、この楽譜だと言うのですか?」
アンヌは、ランドルフに手渡された、可愛らしい少女の絵柄のある、「ピアノ作品集」と書かれたその表紙を、じっと見つめた。
「そう、中を開いてみて」
アンヌは、ページを開いた。
そして、ページを開いた次の瞬間、思わず、噴き出した。
そのアンヌの笑顔を見て、ランドルフも笑顔にならずにはいられなかった。
今までの冷淡さが嘘のような、アンヌの笑顔だった。
「これを・・・、わたくしが弾くのですか?」
「そう、失礼かな?」
アンヌは、笑いが収まらなかった。
その楽譜は、裕福な家庭の娘が、教養として身につけるべきレベルのもので、身内だけの催し事、例えば、クリスマスであったり、何かのお祝いであったり、という時に、余興として演奏される程度のものだった。
とはいえ、全くの初心者に弾けるレベルの楽譜ではなく、少なくとも数年はしっかりと練習した者でなければ、弾くのが難しい内容ではあった。
アンヌは、こういった、ひとつひとつに、「青空のマーチ」や、「森の妖精の踊り」などという、可愛らしい題名のついた曲は、弾いたことがなかった。
幼い頃の、才能豊かなアンヌにとって、ピアノのレッスンは、いずれ、ピアノソナタを弾きこなすための、練習であり、指をどれだけ早く、滑らかに動かせるようになるかの訓練だった。
練習のための曲には、一曲一曲、番号が振ってあり、高名なピアノ教師の下、日々、厳しい練習を繰り返した。
ランドルフの持ってきた楽譜「ピアノ作品集」には、それぞれに題名のついた一曲四ページほどの曲が、七つほど収められてあった。
「リビングへ」
ランドルフにそう告げ、楽譜を手にアンヌは、ピアノのあるリビングへ向かったが、ランドルフのことなど、眼中にないかのように、手に持った楽譜の虜になっていた。
アンヌは、楽譜を手に、いつ以来になるのかさえ忘れてしまうほど、触れていなかったピアノの蓋を、そっと開き、鍵盤の上のクロスを取った。
どうしようもなく、胸が弾む自分がいた。
アンヌは、いくつか和音を弾いた後、あとは、指の滑るがまま、記憶にある旋律を一気に弾いた。
「すごい・・・」
ランドルフは、その数小節で、鳥肌が立つほどに圧倒された。
「音は、大丈夫です・・・。調律はしてあるので、音は大丈夫です」
ひとりごとのように、アンヌは呟いた。
アンヌが興奮しているのは、すぐにわかった。
今までに見たことのないようなきらきらと輝く瞳で、無邪気に鍵盤に触れるアンヌが、ランドルフには、眩しかった。
さあ、と、アンヌは楽しそうに
「どの曲を弾きましょう?」
と、曲目のページを開いた。
「全部」
「全部?」
「無理?」
一曲四ページほどの曲なので、収めてある曲七つ全てを弾いたところで、そう長くなるはずはなかった。
「わかりました。最初から弾きましょう」
と、ページをめくるアンヌに、ランドルフは、待って、と言い、
「最初は、この曲から」
ランドルフが、指さしたのは、「ハッピーバースデー」だった。
今日は、ランドルフの誕生日だったことを、アンヌは、思い出した。
「では、この曲からにしましょう」
と、アンヌは、「ハッピーバースデー」を、難なく弾き終えた後、オリジナルのメロディを付け加えながら、お誕生日、おめでとうございます、とお祝いを述べた。
「今までの、どの誕生日よりも嬉しいよ。本当に、最高だ」
ランドルフは、顔をほころばせて、笑った。
「次は、どの曲にしましょう?」
「じゃあ、これは?」
ランドルフは、「ハンナの子守歌」を指さした。
アンヌは、緩やかで、穏やかなその曲を、ゆったり、愛情豊かに弾いた。
「本当に、眠くなりそうだ」
「それでは、自分の名前のついた子守歌を、作らせてはどうでしょう?」
「それは、いい考えだ」
ふたりで、声を立てて、笑った。




 わたくしは、ずっと、思い違いをしていた。
ずっと長い間、触れていなかったピアノに指を走らせながら、アンヌは、そう思った。
納得のいく演奏ができないのなら、ピアノなど弾かない方がいい。
これまでずっと、そう思ってきたアンヌだった。
けれども、今、ピアノに触れ、他愛のない曲を演奏して、本当に楽しいと思った。
以前のように、指は滑らかに動かなかった。
以前のような、思い通りの音が出るわけでもなかった。
それでも、ピアノの音色が、愛おしくて仕方なかった。
大切に眠らせているよりも、ずっといい。
思い通りの音色にならなくても、響かせてやる方が、ずっといい。
アンヌは、弾ける喜びに夢中になっていた。



 楽譜に収められている曲は七曲だったが、一曲弾き終わるたびに、ランドルフが感想を述べ、アンヌが応じるせいで、アンヌが、六曲を弾き終えた時、既に、一時間近くが過ぎようとしていた。
そして、次が、最後の曲だと思うと、この楽しい時間はあと少しなのだと思うと、途端に、互いの胸に、こみ上げて来る想いがあった。
「最後の曲は・・・」
アンヌは、曲目のページを開いた。
「この曲だ」
ランドルフが指さした最後の曲は、「恋の歌」だった。
アンヌは、静かに、鍵盤の上に指を置いた。
そうして、そっと、恋の調べを、弾き始めた。
恋の甘さ、切なさ、そういった情感を、アンヌは、音に込めた。
ランドルフには、アンヌの紡ぎ出す柔らかな音色が、まるで、恋する人の耳にそっと囁く、愛の言葉のようにも思えた。
最後の音を弾き終えて、アンヌは、鍵盤から、指を下した。
沈黙が、続く。
先ほどまでの、明るい時間の面影は、なかった。
「アンヌ・・・」
沈黙を破ったのは、ランドルフの方だった。
「どうぞ、もうお帰りください。わたくしも、このまま失礼します」
アンヌは、ランドルフの言葉を遮って、ランドルフの方を見ないまま、椅子から立ち上がり、背を向けた。
「アンヌ」
ランドルフは、そのアンヌの身体を、引き寄せ、腕に抱きしめた。
「どうか・・・、止めてください」
アンヌの声は、震えていた。
「君が好きだ」
「いいえ・・・、そのようなことを言ってはいけません。どうか、お引き取りください」
「僕には、君が必要だ」
ランドルフは、アンヌを抱きしめる腕に、力を込めた。
そして、その首に唇を寄せて、アンヌのまとうガーデニアの匂いを、吸い込んだ。
「いいえ、それは、あなたの思い過ごしです。・・・気の迷いです」
アンヌに対する、穢れのないその真っすぐな恋心が、刺すように痛かった。
その強い想いに耐えるように、アンヌは眼を閉じた。
熱を帯びたランドルフの唇が、アンヌのうなじに押し付けられて、思わずアンヌは、声を上げた。
「僕は、君を愛している」
「いいえ・・・、いいえ、軽々しく、そのようなことを言ってはいけません。・・・いけないのです」
アンヌは、首筋に走るランドルフの熱い唇を拒み切れないまま、いいえ、いいえと、拒絶の言葉を、うわごとのように繰り返した。
「君は、僕が嫌い?」
ランドルフの問いに、思わず、いいえ、と、アンヌの唇からこぼれた。
口にしてから、アンヌは、はっと、我に返った。
ランドルフは、アンヌの首から、唇を離すと、その鳶色の瞳で、濃緑の瞳を覗き込んだ。
「じゃあ・・・、好き?」
いいえ、と、アンヌは、言葉にしたつもりだった。
けれども、その言葉は、声にはならなかった。
ランドルフは、そのまま、アンヌの唇に口づけた。
アンヌが初めて知るその感覚は、愛に溢れていた。
ランドルフの深い愛情が、唇からアンヌへと注がれて、アンヌの心を弛緩していった。
ようやく想いが重なりあった今、ランドルフの求めは、徐々に、激しくなり、アンヌの中へと、繰り返し忍び込んだ。
薄暗い部屋の中に、衣擦れの音が、響く。
「アンヌ、僕の、アンヌ・・・」
ランドルフは、これまで抑えて来た想いを吹き出すように、アンヌの頬に喉に、唇を走らせる。
アンヌは、そっとランドルフの背に腕を回した。
そして、そのランドルフの愛撫に身を委ね、吐息を上げた。


あなた・・・。
愛しい、あなた。

あなたは、わたくしに、初めて愛を打ち明けてくれた方。
あなたが、ダールベルグデージーの小さな花束に、わたくしへの想いを込めてくれたように、わたくしも、ピアノの音色に、あなたへの想いを忍ばせました。
決して、あなたには気づかれないように。
そっと。
密かに。
けれども、あなたは、気づいてしまった。
わたくしの想いに、気づいてしまった。
互いに、愛し合っていることに、気がついてしまいました・・・。
わたくしは、愛と罪の狭間で、揺れて、揺れて・・・、心が千切れてしまいそうです。
それでも、わたくしは、愛に身を委ねるわけにはいかないのです。
こうして、あなたの情熱的な口づけに、心震えても、あなたの愛にこたえることは、許されないのです。

ああ・・・、あなた。
愛しい、あなた・・・。