5-4.SAY YES



 ふたりが、アンヌの屋敷へと戻って来たのは、五時半を過ぎた時刻だった。
その時には、今夜、急遽、アンヌの屋敷で催されることになった晩餐会のために、モーガン家からやって来た料理人が、既に、キッチンで、晩餐の準備に取り掛かっていた。
ランドルフ様は、六時半にはお屋敷に戻られるそうです、とエマから伝言があり、それからランドルフが、着替えをし、身支度を整えるとすれば、晩餐は七時過ぎになるはずだった。
男のヘンリーやランドルフに比べ、アンヌの身支度は、一時間はかかるので、少々急いで、着替える必要があった。
だから、アンヌは、ヘンリーと屋敷に戻ってすぐ、着替えのために、ヘンリーを応接間に残して、エマと共に、二階の寝室へ上がらなければならなかった。
私のことはいいから、支度をしておいで、と、ヘンリーはアンヌを促し、ちょうどそこへ姿を見せた、かつてのモーガン家の経理担当のアンソニーに、優しく声をかけ、ただ、恐縮するアンソニーにその近況を尋ねていたことから、アンヌは気兼ねするなく、身支度に時間をかけることが出来た。
身支度をするため、二階に上がった時点では、アンヌは、今夜の晩餐は、ヘンリーと、ランドルフとアンヌの三人で楽しむのだと、何の疑いも持たなかった。
ところが、七時前、アンヌが身支度を整えて、応接間に降りて来ると、そこにヘンリーの姿は、なかった。
アンソニーが、ヘンリーからのメッセージを預かっていた。


今日はありがとう、アンヌ。
本当に、楽しかった。
よければ、また私と一緒に、絵を描いてほしい。
そろそろ老人は、退散するよ。
晩餐は、若い二人で。
                      ヘンリー


 紙片には、そう書かれていた。
それでようやく、アンヌは、ヘンリーが帰ったのだと知った。
今夜の晩餐は、ランドルフとふたりきりなのだと、気づいた。
今更、断ることは出来なかった。
日々、アンヌへの愛情を隠さないランドルフが、アンヌとの二人きりの晩餐を喜ぶのは、間違いなかった。
困るのは、アンヌだった。
いつものように、優しい言葉で、労わられたら・・・。
ふたりきりの楽しい時間を過ごして、後戻りできない事態になることを、アンヌは心から恐れていた。
アンヌは、もう一度寝室に戻り、鏡の前で、深呼吸をした。
決して、隙をつくらないこと。
自制心を失わないこと。
鏡の中の自分を見つめて、アンヌはそう言い聞かせた。



  「今夜、君とここでこんな素晴らしい晩餐を楽しめるなんて、夢のようだ。父に感謝しないと」
ランドルフは、デザートを終えて、ワイングラスをテーブルに置くと、ナプキンで口元をおさえながらそう言い、笑顔を見せた。
「大袈裟です」
テールコートに身を包んだ、ランドルフの正面の席に座るアンヌも、デザートを終えて、ワイングラスを置きながら、表情を変えることなく、そう答えた。
会話が弾んでいるとは、言えなかった。
アンヌの警戒心は、ランドルフに、隙を与えなかった。
アンヌは、慎重に言葉を選び、距離を保った。
それでも、ランドルフは楽しそうだった。
「綺麗だ・・・」
エマが皿を下げて行ったあと、テーブルの上に置かれた灯に浮かび上がる、アンヌの引き締まった美しい顔を見つめながら、ランドルフは、そう呟いた。
農園に赴いている時とは違って、きちんと化粧をし、鮮やかなイエローグリーンのイブニングドレスに身を包んだアンヌは、華やかで、艶やかだった。
アンヌは、黙っていた。
「本当に、綺麗だ。いつまでも、こうして君と、時間を過ごしたくなる」
アンヌは、ランドルフの方を見ようとはしなかったが、その鳶色の瞳が、愛情のこもった眼差しで、自分を見つめていることを知っていた。
「止めてください」
「何故?」
「不愉快です。そういった言葉は、わたくしには必要ありません。わたくしに、称賛は、無意味です」
ランドルフの称賛は、アンヌの心を乱した。
そうでなくても、テールコートに身を包んだランドルフは、アンヌの眼に凛々しく映り、心ざわめくというのに、称賛をうけるたび、真っすぐなランドルフの恋心に射抜かれそうになって、アンヌは、自分を見失うことを恐れた。
「君は、強くて、優しくて、賢くて、美しくて、上品で・・・、完璧だ。その完璧な女性を、僕は、独り占めしたくなる」
「ですから、そのようなことは・・・」
「でも、止めておく。君がそう言うなら、止めるよ。君に嫌われたくないんだ。話題を変えよう。今日は、父とどこで写生を?」
「ターホープ・レイクに行きました」
「父は、随分、喜んだだろうね」
「楽しかったと、仰ってくださいました」
「君には、感謝するよ。農園経営を僕に譲ってから、父は暇を持て余している。父は絵を描く以外には、無趣味で、狩りにも乗馬にも、舞踏会にも、興味がない。僕は、絵に疎いし、母は、遠慮なく批評するから、父としては面白くないんだ。だから、君という友人が出来て、きっと嬉しくて仕方ない」
「わたくしが、お役に立てたのなら、光栄です」
「収穫を終えたら、僕も、君をデートに誘いたい」
「お断りします」
アンヌの声は、硬かった。
「何故?」
「必要ありません」
「どうしたら・・・、君の心の壁を取り払うことが出来るのかな」
明らかに、ランドルフは、落胆していた。
「そういったことは、もう止めてください。わたくしには、迷惑です」
「アンヌ・・・」
「ランドルフ様、以前にも、申し上げましたが、わたくしは、どなたとも交際するつもりはありません。わたくしの関心を引くために、時間を費やすのは、時間の無駄です。何度も言いますが、わたくしたちは、必要な時に協力し合える、良き隣人で、それ以上でも、それ以下でもありません。・・・晩餐は、もう終わりました。そろそろ、お引き取りください。わたくしも、これで失礼します」
アンヌは、ランドルフの瞳を見据え、きっぱりとそう告げ、立ち上がった。
これでいい。
これが・・・、この方のため。
「もう少しだけ、時間を。今日は、君に、渡したいものがあるんだ」
立ち上がったアンヌを見て、ランドルフは、慌てて、自分も立ち上がると、少し待っていてと、ダイニングを離れた。
すぐに、ランドルフは戻って来た。
戻って来たランドルフは、薄い冊子のようなものを手にしていた。
そして、
「これを、君に」
と、アンヌに差し出した。
「これは・・・」
「楽譜だ」
「楽譜・・・」
その全く思いがけない贈り物に、アンヌは戸惑った。
「先月、鶏騒動のあった日、僕は、君をリビングまで運んだ。その時、リビングに、ピアノが置いてあることに気づいて、とても興味を持ったんだ。しかも、ピアノには縁のない僕が見ても、とても立派なピアノだと思った。街の令嬢が、ピアノを習っているというのなら、家にピアノがあったとしてもおかしくはない。でも、ここは、綿花畑しかないアウラで、習うような先生もいるはずがない。だから、エマに、尋ねてみたんだ・・・」



  鶏騒動のあった日、アンヌの屋敷のリビングで、ピアノを見かけたランドルフは、夜、帰宅する前、エマに、アンヌはピアノを弾くのかを尋ねてみた。
「アンヌ様のピアノは、演奏家を凌ぐと言われておりました」
「演奏家を?それは、すごいね」
「ピアノに限らず、絵も、語学も、ダンスも、何にでも人並み以上に秀でておられて、アンヌ様にできないことは、ありませんが、とりわけ、並々ならぬ才能をお持ちなのが、ピアノです」
「知らなかったよ」
「それは、そうだと思います。ここしばらくは、ピアノの前に座っておられません」
「何故?」
「時間がないのです。農園のお仕事で手いっぱいで、とても、ピアノを弾く余裕がありません。先ほども、申し上げた通り、アンヌ様は、演奏家を凌ぐ腕前です。物心つく前から、ずっとレッスンに励まれて、殿方顔負けのピアノソナタを、お弾きになるほどでした。ですから、ピアノには、ずいぶんと愛着があって、この屋敷を建てて、ここに住むようになってすぐ、特別な注文をして、名の知れた職人に作らせました。でも、立派なピアノを手に入れたものの、農園のお仕事が忙しくて、結局、十分に弾く時間がなくて、以前の様な演奏が、お出来にならなかったんです。アンヌ様は、何でも、完璧にされるご気性なので、以前のような演奏ができないご自分に、納得がいかなくて、ピアノを弾くのを、止めておしまいになりました」
ランドルフとエマは、玄関ポーチで話していたのだったが、そのエマの話を聞いて、ランドルフはリビングのピアノを、もう一度、見てみたくなった。
それで、エマにそう伝えると、アンヌは寝室で休んでいて、尋ねに行くわけにもいかなかったせいで、少し考える様子だったが、
「少しだけなら、大丈夫だと思います」
と、ランドルフをリビングへ案内した。
今はもう弾く者がないという、深い色合いが美しい木目調のピアノだったが、埃一つ被っておらず、アンヌが今でも、大切にしているのだということが、よくわかった。
「開けてみましょうか?」
「いいのかな?」
「ランドルフ様なら、アンヌ様もお認めになると思います」
アンヌのことを知り尽くすエマにそう言われて、ランドルフは悪い気はしなかった。
エマは、ピアノの蓋を慎重に開け、鍵盤の上のクロスを取った。
白と黒のコントラストが美しい、真新しい鍵盤が、ランドルフの眼に入った。
「本当に、新品みたいだ。傷一つない」
ランドルフは目を凝らして間近で鍵盤を見つめたが、傷一つどころか、指紋一つ残っていなかった。
「アンヌ様が弾かなくなって、随分経つのですが、調律だけは、きちんとしています」
ランドルフは、しばらく、そのピアノをじっと見つめたあと、
「できたら、もうひとつだけ、頼みたいんだ」
エマに、そう、切り出した。
「何でしょう?」
「楽譜を、見せてくれないかな。以前、アンヌが弾いていたのを」
「それなら、問題ないと思います」
エマは、そう言って、ピアノのすぐ横にあったチェストを開けると、糸綴じの紙のファイルの中から楽譜を取り出し、どうぞ、と、ランドルフに差し出した。
差し出されたものの、開いてみて、ランドルフは笑うより仕方なかった。
「全く分からない。音符と記号がいっぱいで、何かの暗号みたいだよ」
ランドルフの手にした、いくつも書き込みがある楽譜を、傍らからエマも見つめて、
「本当に、そのようにしか見えませんが、アンヌ様がご覧になると、素晴らしい演奏になるので、不思議です」
と、微笑んだ。
楽譜を手に、しばらく何かを考えていたランドルフだったが、ある事を、思いついた。
「エマ、ありがとう」
と、楽譜を返しながら、ランドルフは、この一件は、アンヌには内緒にしておいてほしいと頼んだ。
そして、自分の思いつきを実行するため、次にペンナの街へ行ったとき、ある買い物をすることを決めたランドルフだった。