3-2.花酔



 それからちょうど一週間後になる、六月中旬の日曜日、少々蒸し暑くはあったが、雨の心配もなく、ランドルフと出かけるのには、差し支えない天候だった。
ランドルフと出かけることが決まって以来、雨を願っていたアンヌだったが、その願いは、天には届かなかった。



 アンヌと約束した日の朝、ランドルフは、アンヌの屋敷にやって来た。
ランドルフは夏らしいベージュのスーツを身に着けていたが、赤銅色のネクタイがよく映え、そのコントラストが美しかった。
その肉付きのいい大柄な身体では、何を着ても着映えがして、衣装の持ち味をよく引き出した。
ランドルフの明るい茶色のくせ毛は、いつも通りきちんと整えられていて、さっぱりと爽やかな印象を与えた。
「おはよう、アンヌ。いいお天気で良かったよ」
玄関へと入って、にこやかにアンヌにそう告げる、その表情は、誰の眼にも上機嫌で、その嬉しそうな顔を見ていると、全てが、ランドルフの思惑通りに進んでいるように思え、アンヌの癪に障って、厭味のひとつふたつは言ってやりたいような気分になった。
にこりともせずに、おはようございます、と返したアンヌだったが、ランドルフの傍をすり抜け、表に出て、アンヌは驚いた。
ランドルフは、馬車で来ていた。
馬車で出かけることに対して、アンヌに異存はなかったが、問題は、その馬車というのが車室付きの馬車ではなく、中々年季の入った荷馬車だったことだった。
それはつまり、アンヌが荷台に乗らない限り、二人掛けの御者台に、ランドルフと並んで座ることになった。
「・・・わたくし、行きません」
荷馬車を見て、アンヌは、ぴしゃりと言った。
「どうして?」
素知らぬ振りで、そう言うからには、これも、ランドルフの手に違いなかった。
「どうしてもというのなら、エマも連れて行きます」
「エマは、留守番」
すかさず、ランドルフが返した。
アンヌはランドルフが、本当に、ふたりきりで出かけるつもりなのだと、思った。
何故なら、本来、上流階級の娘が、侍女も連れずに、男とふたりで出かけるなど、言語道断だった。
こんなことが、煩い社交界の人々に知られたなら、またどんな非難を浴びることになるのか知れなかった。
ランドルフとしては、ふたりで街へ行くのならともかく、緑豊かな自然を訪れようというのだから、噂好きな知人に会うはずもなかったし、自分自身をわきまえていたから、何も問題ないだろうと、考えていたのだが。
「気が変わりました。やっぱり一緒には、行きません。今日は一日、農園の仕事をします」
「君は、この外出の趣旨を忘れている。今日のデートは、君の謝罪だ」
「わたくし、そういった卑怯な取引はしません。どうしても、今回の件で謝罪、もしくは見返りを要求すると言うのなら、これからモーガン邸へ行き、マーガレット様に会って、直接謝罪してきます」
「君がそこまで言うなら、僕はそれでもいいけど・・・、いいの?」
と、ランドルフは玄関ポーチに眼をやった。
ドアの陰に、エマが立っていた。
手には、ふたりの昼食らしい大きな包みを二つも手にして、黙って、うなだれていた。
アンヌは、今日の昼食のために、エマが今朝、四時前に起きて・・・、もっというなら、昨日から、一生懸命下ごしらえをして、準備をしていたのを知っていた。
自分のせいで、アンヌ様や、ランドルフ様に大変な迷惑をかけてしまったと、酷く、自分を責めているエマだった。
今日のお出かけで、少しでもふたりの気持ちが和むなら、と、心を込めて作った昼食だった。
少し多めに準備してほしい、というランドルフの申し出があったにせよ、いささか作りすぎとも思える昼食の包みを手に、表に出てみれば、アンヌとランドルフが言い争っていて、ふたりの雲行きが、再び怪しくなっていた。
「エマ・・・」
アンヌは、大きな包みを手にしたまま、肩を落とすエマを見ると、何とも言えない気分になった。
そうして、その時、アンヌははっきり悟った。
自分の弱点は、エマなのだと。
エマは、自分にとって、最大の弱点なのだと。
「さあ、そろそろ出発しよう、アンヌ。エマ、昼食ありがとう、助かるよ」
アンヌの主張は、右から左へと聞き流し、涼しい顔で、ランドルフは、エマから昼食を受け取った。



 アンヌと並んで御者台に座ったランドルフは、楽しそうに、手綱を握った。
汗ばむ陽気だと言うのに、アンヌは、襟の詰まった、グレーの華やかさのないドレスに身を包み、アクセサリーや髪飾りも一切つけず、一言でいうなら、まったく愛想のない、いで立ちだった。
そして、日よけの大きなつばのついた帽子で、その不機嫌な顔を隠すようにして、ランドルフの隣に黙って座っていた。
「少しは、何か話さない?せっかくのデートだよ。天気も良くて、最高だ」
「話すことは、ありません」
「機嫌悪いね」
「当然です」
「わかった。じゃあ、どうしたら、その機嫌は良くなる?」
「機嫌は直りません」
「どうしても?」
「どうしても」
酷い仏頂面の、アンヌだった。
ランドルフは、道端に馬車を止めた。
そうして、延々と続く一本道の道端に咲く、ダールベルグデージーの黄色い花を摘み、その茎を使って、器用に束ね、花束にすると、アンヌに差し出した。
「強引だったことは、認める。謝るよ。だから、機嫌を直して、僕と一緒に行ってくれないか?」
アンヌは、黙って、ランドルフの鳶色の瞳をじっと、見つめた。
真摯な眼だった。
アンヌは、ランドルフの手から、ダールベルグデージーの可憐な花束を受け取った。
清涼感のある香りが、匂った。
「この花の香りに免じて、今回は、許すことにします」
よかった、とランドルフは、ほっとした笑顔を見せた。
そして、御者台に戻り、再び手綱を握ると、実は、この外出には、目的があるのだと話し出した。



 これからふたりが向かおうとするのは、三年前まで、ランドルフの屋敷で働いていた、使用人セスの家だった。
今年、七十になるセスにはペイジという妻があり、ランドルフが生まれる前から、夫婦でモーガン家に仕えていて、気配り細やかに主人一家の世話をする夫妻に、子供だったランドルフは、随分と懐いていた。
歳を理由に、三年前、セスとペイジは、夫婦でセスの故郷の村に戻ったが、半年前、ペイジが病気で亡くなったという知らせが届いた。
子供はなく、随分と夫婦仲のいいふたりだっただけに、妻亡き後、セスはどうしているかと、ランドルフは、ずっと気にかけていたのだった。
「実は、僕も、五年前に妻を亡くしていてね」
ランドルフは、前を向いたまま、さらっと、そう言った。
「知っています」
「妻に先立たれた男二人で会うなんて、湿っぽすぎるだろう?だから、君を誘った」
「でしたら、何故最初から、そう言わなかったのですか?そういった理由があるのでしたら、わたくしもまた、考えたことでしょう」
「そう・・・、最初から、そういえばよかった。でも、そう言いたくなかったんだ。同情されたくなかったから。可哀想な男だと思われるのは・・・、苦手だ」
しばらく、ふたりは黙った。
真っすぐに伸びる田舎道を行く人影も、馬車も見当たらず、蹄の音だけが響いた。
「わたくしも、同情は、するのもされるのも、苦手です」
口を開いたアンヌは、そう話し出した。
「可哀想かどうかは、本人にしかわからないことです。もしかしたら、暗い穴の中から、空を見上げて、必死に這い上がろうとしているのかもしれません。そのような時に、憐れむのは相手に対して失礼ですし、憐れまれるのは、迷惑です。・・・けれども、哀しみに共感はします」
「アンヌ・・・」
「人生の伴侶を失い、その悲しみはいかばかりだろうと、お察しします。そして、哀しみに溺れる人生ではないようにと、祈ります」
アンヌの、静かな声だった。
ランドルフは、何かに堪えるように、ごくんと、唾を飲み込むと、
「まいったな。君は・・・、僕を泣かせる気?」
と、笑顔を作った。
そして、やっぱり君が一緒で良かったよ、と呟いた。