10-3.マーガレット<後編>



  「お取込み中、失礼するわね」
突如、その良く通る声が聞こえて、マーガレットは、弾かれたように、ヘンリーの胸の中から、顔を上げた。
ヘンリーと、マーガレットの視線の先には、灯りを手にし、シルバーグレーの落ち着いた色のドレスを身に着けた、背の高い婦人が立っていた。
ベアトリス・アンダーソンだった。
「何かあった?」
打ち解けた口調で、ヘンリーが尋ねる。
「あなた方を探していたのよ。あなたたちふたりの姿が見えないことに、気が付き始めた人たちが、あまり好ましくない噂を始めているの。早く、大広間に戻った方がいいわ」
マーガレットは、何を噂されているのか、直ぐに想像がついた。

あの二人、どこかへ消えたまま、帰って来ないわね。
マーガレット・ジョーンズの次の獲物は、ヘンリー・モーガンというわけね。
ヘンリーも、酷い娘にすっかり誑かされて、気の毒だこと。
あんな娘に嫁いで来られるようなことにでもなれば、モーガン家も、もう終わりよ。
パトリックも、頭の痛い話だこと。

そう噂する夫人たちの声が、聞こえるかのようだった。
「大変、直ぐに戻らないと」
「僕は、構わないよ」
ヘンリーは、きっぱりと告げた。
「ヘンリー・・・」
「どう噂されても、僕は構わない」
「世間の批判に左右されない、あなたのその姿勢には、感心するけれど、今、むやみに周囲を刺激するのは、やめた方がいいわね。あなた方の関係は・・・、きっと、繊細で、慎重に進めて行かなければならないのでしょう。周囲からの余計な干渉を受けたくなければ、今は、目立った行動を控えることね」
「君は、本当に思慮深いね。敬服するよ」
「バルコニーの東側の階段を降りたあたりを、夫が探していると思うから、一緒に、大広間に戻って。私は、しばらくしてから、マーガレットと一緒に戻るわ。誰かに何かを聞かれたら、ずっと主人と一緒だったって答えるのよ。主人も、事情は良く分かっているわ。マーガレットの方は、私に任せておいて」
「助かるよ」
そう言って、ヘンリーは、邸宅へと続く小道を、戻って行った。
その場に、マーガレットは、ベアトリスとふたりで残った。
「ベアトリス・・・、わざわざ、知らせてくれて、ありがとう」
「構わないわ」
マーガレットとベアトリスは、五つの年の差があったが、知らない仲ではなかった。
マーガレットと同じく、ベアトリスの実家もアウラ近郊で、綿花農園を営んでいたし、半年前に、ベアトリスが嫁いだアンダーソン家は、モーガン家と一、二を争う綿花の大農園だった。
だから、舞踏会やお茶会などの集いで、度々顔を合わせる機会はあったものの、あまりにも性格の違うふたりは、親しくなることがなかった。
マーガレットは、取り巻きに囲まれて、若さを満喫し、恋の真似事を楽しんでいた。
一方、ベアトリスは、芸術、歴史、世界情勢や、政治、慈善事業にまで熱心で、老若男女問わず、同様の関心を持つ者たちと、集うことが多かった。
だから、敵対することもなければ、親しくなることもなく、挨拶程度の付き合いだった。
「そういえば、半年前に結婚したのよね。お祝いもまだ言ってなかったわね。遅くなったけど・・・、結婚おめでとう」
「ありがとう」
マーガレットに祝いを述べられて、ベアトリスは微笑んだ。
「ヘンリーとは、親しいの?」
「親しいのは、私ではなくて主人ね。どちらの家も同じ生業だから、昔から何かと行き来があって、親しくしているみたいよ」
「ベアトリス・・・」
「何?」
「あなたは、どうして、私と普通に話をしてくれるの?私の評判は、知っての通りよ。こうして、私と一緒にいて、嫌じゃないの?」
ベアトリスは、しばらく、黙って考えていたが、
「あなたを否定することは、簡単だわ」
そう話し出した。
冷静で知的な黒い瞳が、マーガレットをまっすぐに見つめていた。
「でも、あなたを否定することは、人は変わるかもしれないという可能性を、否定することだと思うの。私の言っていること、わかるかしら?」
「少し、難しいけれど・・・」
「あなたは、若くて、とても軽率で、浅はかで、悲惨な事件を起こし、大きな罪を犯した。そこから、あなたは、どう変わるのかしら?失礼な言い方かもしれないけれど、私は、そのことに、とても関心があるの。ヘンリーは、あなたに惹かれているようだけど、私の眼が確かなら、彼は、外見の美しさだけに惑わされる、愚かな人ではないわ。ヘンリーが、あなたに惹かれたのなら、彼は、今のあなたに何か魅力を感じているのでしょう。以前の、美しくはあっても、軽率なあなたにはなかった魅力が。つまり、あなた自身が、変化してきているのよ」
「自分では、何が変わって来たのか、よくわからないわ。ただ、以前の私が、どうしようもなく愚かに思えるの。まだあれから、一年にしかならないのに・・・」
「自分が愚かだったと思えることは、成長の証よ。あなたは、変わってきている。私は、その変化を否定したくないの。人は、変われるということを、否定したくないのよ。あなたのことを、否定して締め出してしまうよりは、見守る側でいたいと思っているわ」
「ベアトリス・・・」
マーガレットの瞳に、涙が浮かんだ。
なんて、思慮深くて、大きな人なのだろうと、思わずにはいられなかった。
「お願いだから、泣かないで。今から、私と一緒に、舞踏会に戻るのよ。あなたが泣いていたら、ベアトリス・アンダーソンが、マーガレット・ジョーンズを泣かせたって、みんなに思われるでしょう」
「でも、あなたは、大丈夫なの?私と一緒に帰って。誰かに、酷く言われたりしないかしら?」
「ヘンリーと一緒で、私も周囲の批判を気にしない性格よ。さあ、そろそろ、戻りましょうか」
と、ベアトリスは灯りを手に、マーガレットを邸宅へ促した。
少し先を歩く、ベアトリスの背中が、とても頼もしく思えた。
「ベアトリス・・・」
両脇に木立の並ぶ、石の小道を進み、邸宅が近くなった時、マーガレットはベアトリスの背中を呼び止め、
「ベアトリス、もし、あなたさえ、嫌じゃなかったら・・・、お友達になってくれる?あなたが、お友達でいてくれたら、とても、心強い気がして。嫌なら・・・、断って。私、気にしないから」
勇気を絞って、そう言った。
「もう、友達だと思っているわよ。何でも、相談に乗るわ、マギー」
マーガレットの新しい友達は、優しい笑顔でそう答えた。



 その夜、モーガン家の夜会から、マーガレットが帰宅したのは、深夜だった。
疲れているはずなのに、中々寝付けなかった。
ベッドに入っても、夜会の興奮は、中々収まらなかった。
正装の紳士、華やかに着飾った貴婦人たち。
美味しいお料理に、心酔わせるお酒。
ヘンリーの細やかなサポートとフォローに、心和んだ。
音楽の演奏に合わせて、大広間で踊りを楽しむ人たち。
ああ、それに、酷い厭味。
覚悟はしていたけれど・・・、やっぱり辛かった。
そして、思わぬ、ダンスレッスン。
お世辞にも、上手な踊り手とはいえないけれど・・・、とても楽しかった。
新しい友達との出会いも。
ベアトリス・アンダーソン。
これから・・・、どうぞよろしく。
そして・・・、そして、
「君が好きだ・・・、マギー」
引き寄せられて、抱きしめられた時の、胸が苦しくなるような、あんな想いは、これまで一度も経験したことがなかった・・・。
寝つけずに、マーガレットは寝返りをうった。
楽しかった夜だと、思った。
けれども、辛い夜でもあった。
本当の恋を知った夜であり、それでも、結ばれることはないだろうと、諦めを受け入れなければならない夜でもあった。
楽しかった夜を思い返し、マーガレットは、微笑んでいたつもりだった。
けれども、知らないうちに、頬には涙が伝っていた。