1-4.ミス・クレマン



 
アンヌの朝は、早かった。
毎朝四時半に起床すると、手早く身支度を整え、朝食をとり、必要な書類に目を通し、六時半にはそろそろ空が白み始める四月のこの時期、七時には自分の農園に、姿を現した。
今、アンヌの小さな屋敷の使用人は、エマひとりで、屋敷内の雑用をひとりで切り盛りするエマに、昔のように、アンヌの世話を十二分にするように言うのは、土台無理な話で、アンヌは、自然と、自分のことは自分でするようになった。
それは、ユースティティアで、ラングラン公爵令嬢として、暮らしていたころに比べると、考えられないほど、様変わりしたアンヌの生活だった。
かつては、生活の全てに使用人の手を借り、贅をつくした衣装や貴金属を身に着け、暮らした。
十六歳で社交界にデビューしてからは、頻繁に行われる夜会や、著名人が集まるサロンに出入りし、ラングラン公爵令嬢としての立場を使って、人脈を築き、派閥を支配し、ミラージュという闇の組織を、大きく成長させ、父、ラングラン公爵の企みに、加担した。
それに比べれば、今、こうして自分の身の回りのことは、自分でとり行い、農園や、その雑務や、経理に追われて過ごす毎日は、なんと、慌ただしく、忙しく、そして、地に足の着いた生き方であろうか、と、アンヌは思った。
ユースティティアを離れ、新大陸ラエトゥスへ向かった時から、ラングラン公爵令嬢としての身分や待遇が通用しないことは、百も承知で、むしろ、その立場から離れ、ミラージュと決別するために新大陸へと向かい、クレマンという姓を名乗ったのだから、過去のことは、誰にも話さなかった。
生活の不自由は、覚悟の上だったし、何よりも、綿花という、人々の暮らしに役立つものを育てているのだということが、何よりもアンヌには、誇らしかった。



 アンヌが七時前に、農園へ赴くと、農園監督者のオーウェン・スミスが、農園に出向いていて、十五人の奴隷の中でも、リーダー的役割を果たす、ディエゴと、その日の、農作業の勧め具合を、話し合っていた。
ディエゴは、アンヌの農園では、唯一、妻子があり、農園内にある奴隷小屋に、家族で、住んでいた。
ディエゴの妻、ジュリアは、八歳の男の子の世話をしながら、独身の男の奴隷十二人の炊事を、一手に引き受けていた。
最も、正確に言えば、ある事情から、つい先日、ひとりの若い女の奴隷を持ったため、アンヌの農園で働く奴隷は十六人となり、その新しい若い女の奴隷は、ハウスメイドとしてエマと共に、屋敷内の仕事を引き受けることになった。
ディエゴは、もともとベアトリスの農園で働いていた、経験のある働き者の奴隷だったが、三年前、アンヌが農園を始める時、綿花栽培に、知識と経験のある真面目な働き手が必要だろうと、ベアトリスがアンヌの農園へと、寄越してくれたのだった。



  四月中旬の、やや曇の多いその日も、四月末から、数週間に渡って行う種まきに向けて、アンヌの農園では、先日から続く、土壌作りを行う予定だった。
土壌は、酸性を嫌うため、石灰を混ぜ、中和させ、耕耘しておく必要があったのだが、その作業が、雨の影響で、少々遅れ気味だったため、急ぐ必要があると言うのが、結論だった。
そのため、その日の朝は、早速、全員で作業に取り掛かった。
何十人、何百人の奴隷を所有する、五百エーカー、千エーカーの大農園主ならば、農作業は奴隷と使用人たちに任せて、農園主は、その管理をして、優雅に暮らしていればよかったのだが、アンヌのような百エーカーほどの中規模の農園では、人手はいつも足りなかった。
人手が足りなければ、農園主とて、農作業をすればいいというのが、アンヌの考え方だった。
もちろん、農園の管理や、経理、それに商談もしなければならないため、いつも農園に出向いているわけではなかったが、手が空いている時、アンヌはいつも農作業を手伝っていた。
だから、日に焼けないように、肌を隠し、気は配っているものの、アンヌの手は、上流階級の者とは思えないほど、荒れていたのだった。



 九時を過ぎ、屋敷の雑用を終えたエマも、アンヌについて、農園に出てきた。
十時の休憩が近くなって、馬で農地を耕していたオーウェンが、手を止め、時刻を確認すると、広大な農園に分かれて作業する奴隷たちに向けて、休憩の合図である鐘を、鳴らそうとしていた。
鐘の音を耳にした奴隷が、また鐘を鳴らし、どんどん遠方の者へと、知らせていくのだった。
「誰かいらしたみたいですよ!」
休憩の鐘を鳴らしかけたオーウェンが、アンヌの屋敷の前に、馬と人影を認めて、オーウェンの場所から、ずっと前方にいたアンヌに、大きな声で叫んだ。
出払っていて、屋敷に人がいないと知った訪問者は、農園で作業するオーウェンに、気づいて、近づいて来る。
「隣家のランドルフ・モーガンだ。ミス・クレマンは、外出中か?」
「わたくしなら、ここにいます」
オーウェンにそう尋ねる声が耳に入って、アンヌが代わりに返事をした。
「・・・ミス・クレマン?」
ランドルフは、怪訝な面持ちで、頭から、すっぽりとボンネットを被り、土と埃で汚れた野良着を身に着けた、アンヌを見つめた。
「そうです」
「君は、そこで、何をしているんだ?」
「種まきに向けて、土を作っています」
「・・・考えられないな」
ランドルフの知る限り、農園の令嬢が、奴隷と共に、農作業をするなどということは、考えられなかった。
ランドルフの知る農園の令嬢はみな、毎日、自分の姿が、どうすればもっと美しく見えるかに気を遣い、招待を受けたパーティーに、どのドレスで出かけるかに、頭を巡らせていた。
「何の御用でしょう?」
「話がある。
少し、時間をもらえないか?」
先ほどから、休憩の合図の鐘が、農園一面に、鳴り響いていた。



 アンヌは、ランドルフと連れ立って、屋敷に戻って来た。
そのアンヌとランドルフの姿を眼にしたエマも、一緒に屋敷へ戻って来たのは、来客にお茶を用意するためだった。
アンヌの屋敷は、先日招かれたアンダーソン邸や、ランドルフの住まいであるモーガン邸の、大理石を用いて贅沢に造られた大豪邸とは、比べるべくもなかったが、それでも、キッチン、ダイニング、リビング、応接間の他、主寝室、書斎に、二つの居室と、エマの使用人部屋を兼ね備えた、赤レンガの屋敷は、アンヌが暮らすのに、何の不自由もなかった。
先夜、アンダーソン邸の庭で、会った時には、暗がりだったせいで、大柄で肉付きのいい体つきだという以外は、はっきりとした特徴はわからなかったが、今、改めて、その姿を眼にすると、ランドルフは、明るい茶色のくせ毛に、鳶色の瞳の持ち主だった。
センスの良い帽子を被り、仕立てのいい紺のスーツに袖を通し、一目で、上流階級の人間だと分かった。
ランドルフは、女性だからと、アンヌを軽んじる様子もなく、さりとて、特別に持ち上げたり、褒め上げたりするわけでもなく、飾らない親しみやすさがあった。
気位の高いアンヌに対しても、別段、気分を害するふうでもなかった。
変に悪びれたり、自分を取り繕ったりするようなこともなく、育ちの良さが、話し方や態度に滲み出ていた。



 アンヌはランドルフと一緒に、農園から戻ると、被ったボンネットを取り、タオルで顔の埃を拭って、ランドルフを応接間に案内し、ソファを勧めた。
「全く、君には、驚かされるよ。いつもあんな風に、農園の仕事を?」
応接間に案内されると、すぐに、ランドルフは、アンヌに尋ねた。
「自分の農園です。手が空いていれば、働くのは当然でしょう」
アンヌに、人手を雇う資金がないわけではなかった。
ミラージュを清算するのに、多少の金はかかったものの、アンヌの手に残った額は、莫大だった。
アンヌがその気になれば、千エーカーの土地でも買い占めることが出来た。
そうしなかったのは、自分一人では、到底その管理が、できなかったからだった。
奴隷たちは、時に喧嘩もすれば、病気にもなった。
気象に左右されて、あまり質のいい綿花が取れない年もあった。
今以上に土地を所有し、多くの奴隷を所有したところで、アンヌひとりで、その管理ができるとは思えなかった。
もちろん、ゆくゆくは、農園を大きくしたいと言う願望はあったが、今は、まだとても、そういう時期ではなかった。
それに、アンヌが、農園に出て働くのは、何も、人手が足りない、という理由だけではなかった。
アンヌは、畑仕事が好きだった。
自分のこの働きが、綿を実らせ、誰かの役に立つのだと考えるとき、胸の内には、いいようのない充実感があった。
ミラージュで、罪に手を染めていた頃には、決してなかった幸福感があった。
けれども、アンヌは、それを誰かにわかってもらおうなどと思ったことは、なかった。
奴隷を酷使して、利益を吸い上げ、贅沢な暮らしをおくる、頭の固い、私利私欲にまみれた人々に、わかってもらいたいなどと、思ったことはなかった。
かつて、身分を利用して、罪に手を染めたことを心から恥じ、悔い、今、自らを律して生きるアンヌは、ユースティティアを離れ、名前を変えて暮らしてはいても、貴族としての責任と誇りを知る、由緒正しい公爵家の血筋を引く、正真正銘の令嬢だった。
そのアンヌにしてみれば、アウラの上流階級の人々は、稚拙としかうつらなかった。
「僕の知る限り、奴隷と一緒に働く令嬢はいない」
「モーガン家のような大農園であれば、必要ないのでしょうけれど、ここのようなさほど大きくない農園では、人手は足りていません。人手が足りなければ、例え農園主であっても、働くのは当然です。ところで、ご用件は?」
「君の考えは、斬新だ。悪いわけじゃないが、ここで、うまくやって行きたいなら、もう少し、考えた方がいい」
「わざわざ、それを、わたくしに言いに来たのですか?」
「そうだ」
「それでしたら、もうお帰りいただいて結構です。わたくしは、人の指図はうけません」
「ミセス・アンダーソンにも、そう言える?」
「ベアトリス様には、指図ではなく、指導をしていただいています」
「アンダーソン家から、女の奴隷を譲ってもらったそうだね」
アンヌは、黙った。
「君に話というのは、その件だ」
そこへエマが、お茶の用意をして入ってきたために、しばらく、話は途切れた。
エマがお茶の用意をして、その場を離れると、ランドルフは、すぐに話し出した。
「最初から腑に落ちなかったんだ。君が、ケネスと、コーディのような男に、アンダーソン邸の庭の案内を頼むなんて」
先夜、ケネスと一緒に奴隷の女を襲った若い男が、コーディというらしかった。
「だから、絶対に罪は咎めないという条件で、コーディから直接、真実を聞き出した。先夜の一部始終を。それで、納得がいった。ケネスと、コーディは、奴隷の女を襲った。それを、偶然居合わせた君が、助けたというわけだ」
アンヌは、エマの運んできたお茶に手を付けることもなく、黙って、ランドルフの話を聞いていた。
「襲われた奴隷の女は、ミセス・アンダーソンに頼んで、君が引き取ったとか」
「襲った者と、襲われた者が、同じ農園で働くのは、中々、困難でしょう」
「君は、奴隷の肩を持ちすぎる。そういうことをしていれば、農園主たちの反感を買う」
ランドルフが、そう言うのには、理由があった。



  誰が、何をどう喋ったのかは、明らかではなかったが、先夜、アンダーソン邸の庭で、奴隷の女をケネスとコーディが襲ったと言う一件は、農園主たちの知るところとなっていた。
実際のところ、そういった話は、よくあることで、それだけなら、それで済んだのだが、問題は、アンヌが間に入って、奴隷の女を助けたということだった。
アンヌの行いは、間違ったものではなかったが、奴隷を、同じ人間とは考えていない支配者層の人々は、アンヌが、卑しむべき奴隷の肩を持った、と、その行いを一斉に非難した。
しかも、奴隷女の主人であるベアトリスに交渉して、ベアトリスから、その女奴隷を買ったと言うのだから、新参者の農園主のくせに、差し出がましいと、アンヌに対して、非難の嵐が起こっていた。



 昨日、ランドルフの母、マーガレット・モーガンのお茶会に招かれたテイラー夫人が、ことの一部始終を、さもその場に居合わせたかのような勢いで、話し出し、日頃からのアンヌへの反感もあって、お茶会に集う夫人たちの間で、アンヌへの非難と苦情と厭味が渦巻いた。
それを耳にして、アンヌの身を心配したランドルフは、それから、わざわざ、コーディに直接会いに行って、きちんと真実を聞き出し、今朝、アンヌのもとへとやって来たのだった。
「では、黙って見過ごせと言うのですか?」
「僕は、きれいごとは言わない。先夜、君が目撃したような事件は、日常茶飯事だ。相手が奴隷の女ならば、問題視されることもない。もし、そのたびに加害者を裁いていたら、我々の社会は混乱してしまう」
「奴隷だったら、何をしてもよいというお考えなのですね」
「奴隷は、奴隷だ」
ランドルフがそう言うのには、理由があった。



 今、農園主たちは、奴隷問題に対して敏感になっていた。
新大陸ラエトゥスの南部に広がる、広大なプランテーションは、農作業に従事する奴隷失くしては、成り立たなかった。
ところが、工業化の進んだ、新大陸の北部の者たちは、生活に奴隷を必要としなかった。
だから、同じ国でありながら、南部のプランテーション農家で、搾取され、虐げられる奴隷の存在が、非人道的だと、非難し、奴隷制度を撤廃しようと、国が北と南に二分する争いに発展しようとしていた。
州政府の新大陸ラエトゥスでは、北部を中心に奴隷制度を撤廃した自由州と、広大なプランテーション農家が点在し、奴隷を必要不可欠なものとする、南部の奴隷州があった。
今のところ、かろうじて、奴隷州の数が自由州の数を上回ってはいたが、この先、目覚ましい工業化で勢いを増す自由州に飲まれて、新大陸全域で、奴隷が解放されるようなことにでもなれば、プランテーション農園は立ち行かなくなった。
そういった背景がある今、奴隷の地位と解放を絶対に認めるわけにはいかない、南部のプランテーションの農園主たちは、奴隷の扱いに、敏感なのだった。
奴隷の地位を、向上したり、認めたりなどは、絶対にあってはならないことだった。
奴隷は、奴隷であらねばならなかった。



 「お話は、よくわかりました。でも、わたくしにはわたくしの考え方があり、わたくしにはわたくしのやり方があります。もし、そのことで、誰かから非難を受けたり、不利益があるのだとしても、わたくしは自分のやり方を変えるつもりはありません」
「聞き入れてもらえなくて、残念だよ」
「ランドルフ様のご厚意には、感謝します」
「ランディでいいよ。僕たちは、いい隣人になれるかな、アンヌ。アンヌと呼んでもかまわない?」
「わたくしに不都合はありません、ランドルフ様」
愛称で呼ぶことを認めても、決してそうは呼ばない頑ななアンヌに、ランドルフは、少々落胆した。
それは、必要以上に親しくなることを、拒んでいるようにも思えた。
「わたくし、そろそろ、畑仕事に戻ります」
そう告げると、アンヌはソファから、立ち上がった。
それで、ランドルフも、アンヌの屋敷を辞した。



 帰り際、見送るアンヌに、
「君は、不思議な人だ。移民は、みな、新大陸に成功を求めてやってくる。君は、ユースティティアの貴族だと聞いた。何も、ここで苦労しなくても、向こうで、満足に暮らしていけるのでは?」
問いかけるように、ランドルフはそう言ったのだが、アンヌは、黙ったまま、答えなかった。
「ごきげんよう、ランドルフ様」
アンヌは、ランドルフが馬上に上がるのを待たずに、踵を返し、一面に広がる、広大な畑に向けて、歩き出した。
そのアンヌの後ろ姿を、しばらく眺めながら、僕だったら、絶対、君に畑仕事などさせないのに、ランドルフは、そう思った。
そう思ってから、何故、自分はそんな風に思ったのだろうと思うと、可笑しくなって、ふふっ、と笑みを漏らし、馬上の人となった。