1-3.ミス・クレマン



 アンヌは、新大陸に渡って来てからの数年間を振り返りながら、アンダーソン邸の西側の、少し離れた場所に茂る木々に沿って、ゆっくりと散歩をしていた。
アンダーソン邸を離れて、十分以上が過ぎ、身体から熱気が冷めて来たのか、アンヌは、身震いをした。
四月初旬のまだ冷たい夜風が、上着を羽織っていない肩や首元を、刺した。
そろそろ、邸宅に戻った方がよさそうだと、来た道を戻ろうとした時、くぐもった声が、微かにアンヌの耳に入った。
こんな人気のない場所に、人の声がするはずがなく、アンヌは最初、聞き違えかと思った。
そうこうするうちに、今度ははっきりと、聞こえた。
若い女の、泣き声が。
アンヌは、すぐさま、その声のする方へと足を向けた。
「静かにしろ、このアマ」
「なにぐずぐずしてんだ、さっさとやっちまえよ」
男たちの話し声が、アンヌの耳に入って来た。
さらに歩みを進めると、木々の茂みに、人の姿が目に入った。
「そこで、何をしているのですか」
アンヌの厳しい声が、響き渡った。
地面に這いつくばる様にしていた男と、膝立ちになっていた男は、はっ、とアンヌの方を振り返った。
地面に這いつくばる様にしていた男の、身体の下には、胸元をはだかれて、すすり泣く若い女の姿があった。
アンヌは、それが奴隷の女だということ、そして、何が行われようとしていたのか、すぐに理解した。
男の身体の傍にあった小さな灯りが、その様子を、まざまざと照らし出していた。
「今すぐ、そこをどきなさい」
怒りの籠った声で、アンヌは男たちに命令した。
その威厳の籠る声に、男たちは、従わざるを得なかった。
アンヌは、奴隷の女に近寄ると、はだけた胸を合わせて、立ち上がらせ、背中の土を払った。
まだ、何も始まってはなかったことを確信して、安堵すると、行きなさいと、背中を押して、すぐに立ち去らせた。
「恥を知りなさい」
アンヌも、男たちにそう言い捨てて、踵を返した。
「おおっと、ちょっと待てよ」
膝立ちになっていた、年かさの男が、アンヌの背後から、そう声をかけた。
アンヌは、振り返ると、黙って、声をかけた男の眼を見つめた。
「これは、これは・・・、誰かと思えば、アンヌ嬢じゃないか」
アンヌは、名前を呼ばれて、怪訝な面持ちになった。
男の顔に見覚えはなかった。
「ふん、もう、忘れたのか?あんたがクビにした男だよ」
それで、アンヌはようやく思い出した。
それが、かつて、アンヌの農園で働いていた農園監督者、ケネスだということに。
「こんなところで、あんたに会うとは・・・、これもなにかの縁だ」
ケネスは、瞳に、下卑た笑みを浮かべて、アンヌに近づいてきた。
ケネスがここにいるということは、今はアンダーソン家で雇われているに違いなかったが、歳月を経ても、アンヌの農園で働いていた頃と、その性根は変わっていないということが、アンヌには良く分かった。
ケネスは、アンヌの頬に、顔を近づけて、無遠慮に眺めまわした。
酒臭い息が、アンヌの頬にかかった。
「無礼は、許しません」
「無礼は、許さないって?面白れえ。このアマ、二度とそんな傲慢な口を、聞けなくしてやる」
きっぱり言い切るアンヌの腕を、ケネスは、力任せに、ぐいっ、と掴んだ。
「なあ、ケネス。いくら何でも、まずいぜ。その女は、上流階級の女だろ。奴隷の女をやるのとは訳が違う。もしこんなことがばれたら、俺たちは、縛り首だ」
まだ二十代に見える、若い男の声は、明らかに動揺していた。
「へっ、この女は、大丈夫だ。この傲慢な女は、誰からも嫌われてるんだよ。上流階級の方々からは、仲間外れさ。この女をやったところで、庇う奴なんかいやしないぜ。ベアトリス様は、ずいぶん情けをかけてるみたいだが・・・、俺たちが口を割らなけりゃ、どうにでもなる」
と、ケネスが、アンヌのドレスに掴みかかろうとした時だった。
「そこで何をしている?」
低い、男の声がした。
そして、声の主である、ずいぶんと上背のある男は、アンヌとケネスのいる方へ、灯りをかざし、近づいて来た。
「そこで、何をしている?お前は・・・、確か、アンダーソン家の使用人だな」
「ランドルフ様・・・」
やってきた男の顔を見て、ケネスは、そう呟いた。
「お前たち、こんな場所に、若い貴婦人を連れ込んで、ただではすまないぞ」
ケネスと、もうひとり若い男の顔が、明らかに強張った。
「この件は、お前たちの主人に報告する。重い処分があると覚悟しろ。さっさと、歩け」
ランドルフは、そう告げると、ケネスと、若い男の背を押した。
「ランドルフ様、これには訳が・・・」
「訳は、屋敷に戻ってから、お前たちの主人と一緒に聞く。いいから、さっさと歩け」
「訳は、今、わたくしが話します」
男たちの押し問答を遮ったのは、アンヌだった。
「その者たちは、わたくしを、案内してきたのです」
「何だって?」
ランドルフは、怪訝な面持ちで、アンヌを振り返った。
「わたくしは先ほどまで、ベアトリス様の誕生会に出席しておりました。けれども、窓から、ずいぶんと、広大な美しい庭園が眼に入って、少し歩いてみたくなりました。それで、外に出たところ、偶然居合わせたこの者たちに、案内を頼んだのです」
「この男たちを、庇う理由は?」
ランドルフは、最初から、そんな話を信用しなかった。
「今、この場で争いごとは望みません。ベアトリス様の宴に、水を差すことになります」
「あなたは、それで、納得できるのか?」
こういった事態に関わらず、アンヌに全く取り乱した様子が全くないことが、ランドルフには不思議だった。
「わたくしが、それでいいと言っているのです」
それでも、ひと時、ランドルフは躊躇していたが、
「いいだろう、行け」
と、二人の男を、解放した。
男たちは、直ぐに、その場から立ち去った。
ランドルフは、アンヌに灯りをかざすと、その顔を伺った。
そして、それが、アンヌだと気づくと、ああ、と小さな声を上げ、
「君だったのか」
と、少し驚いた様子で言った。



 アンヌは、先ほどケネスが、ランドルフ様、と、呟いたとき、その男が、アンヌの農園の隣人で、アンヌと同じく、綿花プランテーションを経営する、モーガン家の長男、ランドルフ・モーガンだと言うことに、気が付いた。
隣人とはいっても、モーガン家は、七百エーカーを所有する大農園主で、アンヌの屋敷からモーガン家の邸宅までは、馬で三十分は、かかるのだったが。
アンヌと、ランドルフは、お互い面識がないわけではなかった。
アンヌが、社交界を倦厭していたとはいえ、綿花の農園を経営する以上、同業者や、商売人たちとの付き合いというものがあったため、上流階級との交流は皆無ではなかった。
現に今夜も、ベアトリスの誕生会に招かれれば、断ることは出来ず、形だけとはいえ、出席をしていた。
そういった折に、ベアトリスと並んで、アウラの社交界の中心人物である、マーガレット・モーガンと一緒に、ランドルフがいるのを、見かけることがあった。
ランドルフは、マーガレット・モーガンの一人息子だった。
モーガン家は、ランドルフとその父、母、そして、父親の弟一家で、七百エーカーの大規模な綿花農園を所有し、七十名に及ぶ奴隷と、四十頭もの家畜を所有する、大農園だった。
ランドルフの父の弟、つまり叔父には、二十代の二人の息子と、娘が一人いて、いずれも、農園内に邸宅を建てて住み、プランテーション経営に携わっていた。
ランドルフと、三人の従兄弟たちは、小さなころから、兄弟同然に育ち、まさしく、家族ぐるみの固い結束力で、プランテーションを経営するモーガン一族にとって、経営の先行きに、何の陰りもなかった。
ただ、モーガン家の嫡男、ランドルフに関して言うならば、五年ほど前に、結婚して二年にしかならない妻と死別したと、アンヌは聞いたことがあった。
最も、アンヌにとって、そういったことは関心のない話で、今、ランドルフの顔を見て、思い出したくらいのことだった。
ランドルフの持つ灯りひとつの暗がりの中で、その顔を伺ったかぎりでは、三十歳くらいに見えたが、実際は、それより若いのか、年上なのか、アンヌは知らなかった。
アンヌと同様、ランドルフも、社交的な方ではないのか、パーティーなどで、見かけることは少なく、出席していたとしても、ランドルフの方からアンヌに話しかけてくることもなかった。
アンヌの記憶にある限り、ランドルフもアンヌほどではないにせよ、そういう華やかな社交の場にいても、静かに佇んでいることが多いような気がした。



 「なぜここへ来たのです?」
「窓から、邸宅を離れて歩く人影が見えた。男なら放っておいたが、どうも、婦人のような気がした。もし、逢引きだったら、無粋な真似はしたくなかったんだが、どうも、気になって、後を追ってみたんだ。後を追ってみて、良かったよ」
「身に危険が及ぶところを助けていただいて、感謝します」
アンヌは、静かにそう告げると、会釈をして、ランドルフの前を行き過ぎた。
ランドルフと一緒に、アンダーソン邸に戻るつもりは、なかった。
社交界の中心人物、マーガレット・モーガンの息子と一緒にいたところが、誰かの眼についたら、何を噂されるか、知れなかった。
「君は、怖くなかったの?」
「怖い?」
アンヌは、歩みを止めて、振り返った。
「さっきの男たちだよ。今、君は、襲われかけたんだ。僕が来なかったら、君は確実に襲われていた。それが、婦人にとって、どれほど酷くて、屈辱的な事態か、わからないのか?僕が、君の父親か兄だったら、君の軽率な行動を、厳しく叱るよ」
「覚悟はできています」
「覚悟?」
「もし、そのようなことがあれば、自害します」
「・・・本気?」
驚いて、ランドルフが思わずそう問い返した時、突如、雲の切れ間から、月明かりが届いた。
満ちた月は、眩いほど明るく輝き、その幻想的な光に、アンヌの姿が、浮かび上がった。
その高い背丈で、すらりと引き締まった体つきに、女性らしい柔らかさはなかった。
ランドルフをじっと見つめる、深い緑色の瞳は、女性が持つ穏やかさとは無縁で、一縷の隙もなく、聡明で、理知的で、そして、強い意志が込められていた。
夜会風にまとめた、豊かな黒みがかった茶色の髪は、月の光を浴びて、艶やかに輝き、 瞳と同じ色のドレスをまとった、誇り高い姿は、神秘的ですらあった。
ランドルフは、そのアンヌの姿に、眼を奪われた。
少なくとも、ランドルフは、これまで、アンヌのような女性に出会ったことはなかった。
「偽りは言いません。もしも、あの者たちの手にかかっていたなら、わたくしは、即刻、自害します」
「君には・・・、返す言葉がない」
それは、アンヌの物言いに対しての言葉ではなかった。
今、そう話す瞬間も、ランドルフは、アンヌの姿に心奪われたままだったのだから。
が、再び、月が雲に閉ざされて、アンヌを照らすのは、ランドルフの持つ、小さな灯りだけとなった。
「アンダーソン邸へ戻ります」
「一緒に戻るよ」
「いいえ、わたくしはひとりで帰ります。失礼します、ランドルフ様」
アンヌは、そう答えると、ランドルフの返事は待たずに、踵を返した。



 暗闇の中、しばらく、ランドルフは、アンヌの地面を踏みしめて歩く足音を、聞いていた。
風向きが変わったのか、ふいに、甘い香りがランドルフの鼻をついた。
その甘い香りに、ランドルフは覚えがあった。
初夏に咲くガーデニアの花の香だった。
なぜ、この時分に、この香りが・・・。
一瞬、ランドルフは、そう思った。
けれども、すぐに、気づいた。
それが、アンヌの残り香だということに。