1-1.ミス・クレマン



 アンヌ・マリー・ジュスティーヌ・クレマンは、アンダーソン邸の東側の扉をそっと開けて、抜け出すと、数十メートルほど芝生を歩いた後、ほうっと、息をついた。
振り返ると、その広大な邸宅を取り囲む列柱の間から、邸宅内の灯りが闇の中に煌々と浮かび上がり、女主人ベアトリス・アンダーソンの誕生会に集まった、紳士や貴婦人のさざめきが、アンヌの立つ場所にまで、届くかのようだった。
川沿いの門扉から邸宅までの約四百メートル、両脇に木々が並び、まっすぐに伸びる幅五メートルはあろうかという道を横切ると、アンヌは、邸宅の西側へと回った。
別段、行く当てがあるわけではなかった。
邸宅の東側には、今夜、アンダーソン邸を訪れている人々の馬車が、ずらりと並んで、邸宅内で賑やかに過ごす主たちの帰路を、じっと待ち続けていたから、それを避けて、反対側へ足を向けたに過ぎなかった。
人影はなく、四月初旬の、まだ肌には冷たい澄み渡った夜の外気が、人々の喧騒と、アルコールで、少しばかり火照ったアンヌの身体には、心地よかった。
本当なら、農園主や豪商たちの出席する、こういった上流階級のパーティーへの出席は、極力避けていたアンヌだった。



 アンヌのように、若い、独身の、しかも貴族の娘が、新大陸ラエトゥスへ渡り、農園主となったことは、特異なことだった。
女は、常に男に寄り添う立場であるべきという、絶対的な価値観のある社会で、アンヌの主体的な存在と行動は、非難の対象だった。
だから、そういった上流階級の人々が集う社交界にアンヌが姿を見せれば、これみよがしに、あちらこちらでひそひそ話が起こり、中傷が始まるのだった。
アンヌの、その気位の高い態度も、アンヌに対する非難に、拍車をかけたには違いなかったけれども。
だから、アンヌは、できるだけ、そういった集いには顔を出さなかった。
けれどもそれが、このアウラの地で、唯一、アンヌの存在を認め、ひとかたならぬ支援を続けてくれている、ベアトリス・アンダーソンの誕生会となれば、出席しない訳にはいかなかった。
ベアトリス以外、誰一人としてアンヌを認める者があるわけでもなく、アンヌはベアトリスへ来邸の挨拶と、誕生日のお祝いを述べ、誕生日祝いを渡した後は、壁際に寄り、今夜の主役、ベアトリスを取り囲むようにして、お喋りに興じる一群や、ダンスで、華やかに盛り上がるホールを、黙って、眺めていただけだった。
それでも、軽く嗜んだアルコールのせいか、人々の喧騒のせいか、幾分、上気する身体を冷ますために、アンヌは、表に出たのだった。
空は曇っているようで、月明かりはなく、アンダーソン邸から離れ行くほどに、足元は暗くなった。
けれども、アンヌは煌びやかな灯りから離れて、しばし闇の中へ紛れ込んでみたいような気分になった。
アンダーソン邸の灯りが視界にある限り、道に迷うはずはなかった。
ふと、空を仰ぐと、雲の切れ間から、小さな輝きを放つ星があった。
ラングランの名前を捨て、わたくしが、この地に移って、はや、もう五年・・・。
夜空の小さな星に眼を止めながら、そう思うと、アンヌには、感慨深いものがあった。



 アンヌの父であり、闇の組織ミラージュの首謀者、ラングラン公爵が、母フランセットの撃ったピストルの銃弾に倒れてすぐ、ミラージュの実力者であったアンヌは、その悪しき集団を、壊滅させる手続きを取った。
軍事、医療、政治、多岐にわたる分野で暗躍する組織、ミラージュを壊滅させるのは、たやすいことではないと、アンヌは、当初、覚悟をしていた。
けれども、アンヌが、実際にミラージュの消滅に向けて、動き出してみると、自らミラージュを去って行く者が、多数いた。
結局のところ、みな、父であるラングラン公爵を恐れていたに過ぎなかったのだと、アンヌは、改めて思い知らされたのだった。
ミラージュの存続を願う者もいないわけではなかったが、アンヌは、そういった者たちに、十分な支払いをして、納得させていった。
ミラージュの残党たちが、自分たちで、ミラージュに変わる新たな組織を、作りだす可能性もあったが、ラングラン公爵を軸にした、悪しき人脈も莫大な資金もなく、かつてのような勢力を、築けるとは思わなかった。
そして、例えそうなったところで、アンヌは、もう無関係だった。
何故なら、故国ユースティティアを離れ、もう二度と帰らない覚悟で、アンヌは、新大陸ラエトゥスを目指したからだった。
ユースティティアを離れ、ラングラン公爵令嬢の称号が、意味をなさないラエトゥスへと赴いたところで、過去の罪は、決して消えることはないのだと、忘れてはならないのだと、自分を厳しく戒めて生きるアンヌだったが、父や、ミラージュからの抑圧を受け、新たな悪事に手を染めなくてもいいのだと思うと、言いようのないほど、心は自由を覚えた。



 五年前の冬、ミラージュの全てを清算し、十九歳になったばかりのアンヌは、ユースティティアを離れ、侍女のエマとたったふたりで、帆船に乗り込み、新大陸ラエトゥスを目指した。
そうして、約一カ月の厳しい航海の後、ラエトゥスへと辿り着いた。
ラングランの名前を捨て、アンヌは、アンヌ・マリー・ジュスティーヌ・クレマンとして、新大陸に降り立った。
アンヌは、希望を持っていた。
それは、移民で成り立つ、まだ歴史の浅い国ラエトゥスで、土地を持ち、自分自身の手で、作物を育てるという夢だった。
容易いことでないことは、百も承知だった。
けれども、アンヌは、生まれ持ったその不屈の精神で、やり遂げるつもりだった。
ミラージュでなく、誰かの利益を吸い上げるわけでもなく、自分の土地で育てた作物で、正当な利益を生み出したいと言う願望は、アンヌを奮い立たせた。
が、女が、しかも、二十歳に満たない、何の身寄りもない、若い、独身の貴族の娘が、単身、作物を育てて、商売をしたいのだと、ラエトゥスへ乗り込んできたところで、まともに相手にする者は、誰一人いなかった。
「お嬢さん、悪いことは言わない。そんな馬鹿な真似はしない方がいい。私が、君の親なら、間違いなくそう言う。金を手にしているのなら、田舎で苦労するより、都会の社交界に出入りして、見合った伴侶を見つけて、人生を楽しいんだ方がいい」
今、世界的に躍進する紡績に眼を止め、エマとふたり、広大な綿花プランテーションが点在する、アウラという土地を訪れたアンヌに、土地の有力者たちは、そう言った。



 アンヌは、ミラージュを処分し、莫大な資金を手にしていた。
アンヌは、その人々の悲哀の籠った闇色の金を手放して、人々の暮らしに役立つものを生み出していきたかった。
綿花プランテーションを経営するには、十分な資金だった。
けれども、そのための土地を、誰もアンヌに売ろうとはしなかった。
笑って、まともには、取り合わなかった。
どこへ行っても、誰に頼んでも、取り合ってはもらえない口惜しさに、アンヌが、苛立たちを覚え始めた頃、アンヌに手を差し伸べたのが、話を聞きつけたアウラの綿花プランテーションの大農園主、ベアトリス・アンダーソンだった。
ベアトリスは、アンヌを自らの邸宅へと招いた。
そして、アンヌのプランテーション経営に対する情熱を認めたベアトリスは、アンヌに協力を惜しまなかった。
ラエトゥスへやってきた経緯を尋ねられた場合は、プランテーション経営に協力してもらっている以上、ある程度は答えなければならないと覚悟をしていたが、ベアトリスは、そういったことを何一つ尋ねなかった。
千エーカーに及ぶ綿花プランテーションの土地を所有し、百人を超える奴隷を所有するアンダーソン一族だったので、新大陸に渡った経緯をアンヌに直接尋ねなくとも、どこからか、その経緯が耳に入っているのかもしれなかった。



 アウラの大農園主、アンダーソン家は、ベアトリスの亡き夫の祖父母が移住し、アウラの地で、綿花プランテーションを始めた。
最初は、百エーカーから始めた綿花プランテーションだったが、世代を重ねるごとに、その規模は大きくなり、アンダーソン家は、今やアウラの大農園主へと、成長を遂げていた。
今年六十二歳迎える、ベアトリス・アンダーソンは、数年前に未亡人となり、実質的なプランテーション経営は、二人の息子たちが引き継いでいたものの、夫と共に、長年プランテーション経営に携わり、成功に導いてきたその手腕、人脈と、莫大な資金故に、アウラの農園主、社交界から、未だ一目置かれる存在であることは、間違いなかった。
背が高く、痩せ型のベアトリスは、歳を重ね、多くは白く変わってしまった黒髪だったが、まだたっぷりと残るその髪を、きりっと後頭部で束ね、その老獪で隙のない、けれども、どこか温情と、懐の深さを感じさせる黒い瞳で、心を見透かすようにじっと見つめられると、この老婦人は手強い、大抵の相手は、そう思うのだった。



 ベアトリスという、強力な支援者ができたことは、アンヌにとって、大きな幸運だった。
もし、ベアトリスという支援者に出会わなければ、プランテーション経営というアンヌの夢は、とうに潰えていたのかもしれなかった。
アンヌの、プランテーション経営への情熱が、確かなものと知ったベアトリスは、アンヌを自分の邸宅に、住まわせた。
そうして、その後、アンヌが農園を開園させるまでの一年半に渡って、アンヌにプランテーション経営を、一から、叩き込んだ。
アンダーソン家の所有する綿花プランテーションをアンヌと共に歩き、綿花栽培の知識、技術を教え込み、奴隷の扱い、家畜の所有から、万一に備えての銃の扱いまでも、指導した。
また、時には、アウラ近郊の街、ペンナの有力者や、銀行家にアンヌを引き合わせ、資金の運用、管理までを、丁寧にそして的確に、教えた。
決して後戻りすることのできない過去を持つアンヌは、その明晰な頭脳と、人並みならぬ情熱で、ベアトリスの教えの全てを、瞬く間に吸収していった。
そうして、二十歳の夏を迎える頃には、百エーカーの土地を購入し、着々と準備を始めたアンヌだった。



 けれども、アンヌの本当の苦労は、ここから始まるのだった。
当初から、難問が山積みだった。
綿花の生育、栽培をあれこれ言う前に、まず、何よりも、奴隷や使用人の問題があった。
奴隷。
その存在は、アンヌの予想をはるかに超えていた。