PAUL QUINNインタビュー
翻訳APPさん。ありがとうございます
(Debut
掲載記事)昔の物です。 写真の人はポールではないですよ |
MCAが発表したBourgie Bourgieのプレスリリースには、「ちょっと複雑なのでよく注意して読んでください」
と前置きがつけられている。それももっともなことで、このバンドの誕生からこれまでのいきさつはあまりにも紆余曲折が多く、
メンバー自身でさえきちんと把握できていないのではないかと疑いたくなってくる。シンガーのポール・クインも、
インタビューの際多少混乱しているように見受けられたほどである。西ドイツのバヴァリアでレコーディング・セッションを
行っているポールに話を訊いて見た。
スコットランド出身のBourgie Bourgie は、当初ジャザティアーズというバンド名で活動していた。彼らのファーストアルバムは、
グラスゴーのアラン・ホーン率いるポストカード・レコードから、ジャザティアーズ名義で発表される予定だった。当時、
バンドはアリソン・ゴーリーという女性ヴォーカルを擁していたが、ポール・クインは、アラン・ホーンを通じて、
二人目のヴォーカルとしてバンドに加わったのである。
しかし、完成したアルバムを聴いたアランは、この作品にはバンドの可能性が十分表れていないと考え、
アルバムをお蔵入りにしてしまった。そもそも、ダンディー出身のポールがアランやポストカード・レコードと
かかわるようになったのは、彼が11歳の頃、オレンジ・ジュースのエドウィン・コリンズと
同じ学校に通っていたことがきっかけであった。
この二人は、15歳でエドウィンがグラスゴーに引越すまで同級生だった。その後も交流が続き、
1978年に、グラスゴーで開かれたデビッド・ボウイのコンサートで二人はアラン・ホーンと知り合ったのだった。
さらに数年たって、ポールはRIP IT UPのアルバムでバッキングヴォーカルを担当し、シンガーとしての才能を証明した。
ということは、歌手デビューはRIP IT UPだったということになるのかな?
「いや、その前にもうジャザティアーズに加入してたけど、RIP
IT UPで歌うまでエドウィンもアランも
僕のことを遊び半分で歌ってるとしか思ってなかったんだ。」
どういう経緯でジャザティアーズはBourgie
Bourgieにバンド名を変えたのか、
というこちらの質問に、かなり複雑ないきさつだったと前置きをしてから、ポールは次のように答えた。
「えーと、僕はジャザティアーズを脱退して、ソロになったんだけど、そのあとジャザティアーズはラフ・トレードから
アルバムを出したんだよね。それなりに評判もよくて、インデイ・チャートでもそこそこいいとこまでいったんだけど。
それから僕はもう一度ジャザティアーズに戻って、バンド名をBourgie
Bourgieに改名したんだ。この名前は、
グラディス・ナイト&ザ・ピップスの古い曲のタイトルからとったんだよ。」
ちなみに、Bourgie Bourgieというのは、アメリカのスラングで、「金は持っているがお高く留まっている黒人」という意味だという。
この脱退から再加入に至る事件は去年の5月のことである。それから、彼らは4チャンネルの番組「スイッチ」に出演した。
このTV出演が、MCAとの契約のきっかけになったのだろうか。ポールはこう答える。
「いや、あのTV出演はたいした反響なかったんだよ。でも生録画だったんですごく楽しかったけどね。
MCAにはただ3曲入りのテープを送っただけで、その当時は僕たちまだライブもやったことなかったんだ。」
一本のデモテープで契約まで話が進んだというのはあまりない話である。MCAほどのメジャーレーベルなら、
もっと曲を聞かせろと言ってきそうなものだ。
「(契約前に)本当に演奏できるバンドだっていうことをみせるために、去年ハマースミス・パレで一度ライブやったよ。」
その年の終わりまでに、Bourgie Bourgieは84年のブライテスト・ホープの一つとしてマスコミに広く取り上げられるようになり、
翌年2月6日にファーストシングルBREAKING POINTを発表した。リバプールのデュオCAREのイアン・ブローディーにプロデュースを
依頼した理由についてポールにたずねてみた。
「イアンにテープを送ったらたまたま気に入ってくれたんだよ。僕たちも、彼がエコバニとやった仕事なんかすごくいいと思ってたしね。」
このシングルは、もう一歩のところで惜しくもトップ50入りを逃した。
同じ頃、Bourgie Bourgieはテレビ番組「ザ・チューブ」とピールセッションの収録を行った。ライブの日程も話題に上がるようになり、
今まで7回しかコンサートをしたことがなかった彼らも、近く全国ツアーをすることになりそうである。Bourgie
Bourgieのライブを
見たことがない人のために、コンサートの様子をポールに説明してもらった。
「(しばし考えて)エキサイティングで、ごちゃごちゃしてて ―― いまいちまとまりがないこともあるけど。でもまだ新人だからね。
時々はなかなかタイトに決まることもあるよ。少なくとも楽しめるライブにはなってると思う。」
3月から4月にかけてのツアーの後、Bourgie
Bourgieはスタジオ入りして、マイク・ヘッジスをプロデューサーに迎え、
ファーストアルバムの制作にかかった。このレコーディング・セッションの成果は、4月末に発売されたセカンドシングル、
CARELESSでまず試された。
インタビュー時、ポールはこのシングルのチャートアクションが芳しくなかったことに落胆しているようだった。彼自身も、
他のメンバーも、この曲はもっと評判になると思っていたのである。しかし、発売直後に人里離れたスタジオにこもって
プロモーションをしなかったのは問題なのではないだろうか。
「うん、たぶんね。ここにいるとちょっと世間から切り離されてる感じはする。実際、
CARELESSが今チャートのどの辺にいるのかもよくわかんないし。イギリスに帰ったあとどうにかしようとしても手遅れかもね。」
メンバーのアイデアを取り入れて、CARELESSのビデオも制作された。カメラの前に立つ気分と、出来上がったビデオを観た感想は?
「(ビデオ制作は)かなりきつかった。出来上がったビデオは、僕たちが打ち出そうとしてるバンドのイメージとは
ちょっと違ったものになっちゃったように思うな。」
ビデオがメンバー自身のアイディアを取り入れて作られたのなら、そんなことにはならないのでは、という問いに、
ポールはこう答える。
「実際はいろんな人のアドバイスを受け入れざるを得なかったんだ。もっと自分たちでイニシアチブをとるべきだったんだよね。
それは僕たち自身に問題があったと思う。」
曲作りはどのように行われてるのかな?
「Ian Burgoyne とKeith Bandが曲を書いて、詞はだいたい僕が書いてる。イアンが書くこともあるけどね。
たいていはリハーサルの間に誰かがコード進行を弾いて、そこからみんなで少しづつメロディーを作っていくんだよね。
それで、一番最後に、僕が歌詞をつける訳。レコーディングが始まる30分ぐらい前になってあわててやることが多いんだけど。
あんまり用意周到とはいえないよね。」
この即興的なやり方にこちらが驚きを表すと、ポールはほとんどあやまらんばかりであった。しかし、
実際に歌詞を書く前に大体のアイディアは決まっているのだそうだ。
他のメンバー、Michael Slaven とドラマーのKenny
McDonaldのサウンド面での貢献はどのくらいあるの?
メンバーのうち誰か一人がサウンド的に中心になって他のメンバーを引っ張っているのかな?
「もちろん他のメンバーも参加するよ。ギタリストのマイケルは独自のスタイルを持ってるし。その時その時で、
バンド内の誰が曲作りに関心を持ってるかによるんだよね。まあ、だいたいイアンが中心になってるのは事実だけど。」
この秋に発売される予定のアルバムのタイトルはDinky
Honey
となる予定で、(このタイトルの意味は不明)、
Carelessに続くシングルのタイトルもDinky Honeyであること
次のシングルとアルバムが発表されたときには、Bourgie
Bourgie はマスコミの予想通りブレイクすると思う?
「えーっ、とりあえずそう思いますって言っておかないとね?自分でもまだよくわかんないけど、
僕たちきっといいものを持ってると思うよ。」
一個や二個腐ったリンゴが箱の中に入っていても、箱のリンゴ全部が腐るわけではない。次のシングルに期待したいものである。
(Record Mirror
掲載記事)昔のものです 写真はポールとエドウィン |
3人のスコットランド人がカフェに座っている。エドウィン・コリンズ、ポール・クイン、アラン・ホーンの3人は話題に事欠かない。
エドウィンとポールはこの夏発売されたシングルの中でも最高の作品のひとつ、Pale
Blue Eyesで共演している。
これはVelvet Undergroundのカバーで、ポールの爽やかなヴォーカルをアコースティックなサウンドに載せた佳曲である。
この作品は、元ポストカードレーベル代表、アラン・ホーンが新たに設立したレーベル、スワンプランドの第一弾シングルとして発表された。
このシングルの話題以外にも、ポールのBourgie
Bourgie脱退、Punk Rock Hotelなる映画の計画、そして輸入ハギスの値段高騰など
、彼らの話はとどまることなく続く。
この3人はなかなかの辛口トリオである。一人は音楽業界に喧嘩を売らんばかりの夢想家、もう一人は業界の流れに棹さして進むポップスター、
そしていま一人は、自分の声を最大限に生かせるサウンドを探しているシンガー。
彼ら3人のキャリアは複雑に交錯しあっている。コリンズは、ホーンの伝説的レーベル、ポストカードのスター的存在だったし、
クインはホーンの手によって、ブルー・アイド・ソウルのヴォーカリストとして売り出されんとしている。
コリンズとクインはかつての幼馴染で、今ではコラボレーターとして一緒に音楽を作る仲である。
エドウィン、ポールとはいつからの知り合いなの?
「僕たちが11歳か12歳で、ダンディーに住んでた頃からの付き合いだよ。僕は家族とグラスゴーに引越したんだけど、
その後もポールとは連絡とりあってた。ボウイやロキシーがグラスゴーでコンサートをしたときは、
ポールがグラスゴーに来て僕の家に泊まったりしてね。それ以来ずっと友達だよ。Rip
It Up ではバッキング・ヴォーカルも
やってもらったしね。」
Pale Blue Eyesのカバーをやった経緯は?
エドウィン:「アランはずっと前から、自分のフェイヴァリット・ソングはPale
Blue Eyesだって言ってたんだよね。
ポストカードの目指すべきものはこれだ、って。でもなかなか思ったような結果がでなくて、行き詰まりを感じてたんだよね。
去年の夏、プールで泳ぎながらいろいろアイディアを出し合ったんだ。アランは、Jon
Savage主演、 Derek Jarman監督で、
Punk Super 8 TV
の番組を制作する企画を考え付いて、これがPunk
Rock Hotel という映画になったんだよ。
アラン:「ホモセクシュアリテイーを抜きにしたテネシー・ウイリアムって感じの映画だよ。
ファクトリー以降のウォーホルとか、チェルシー・ガールとかも近いね。」
エドウィン:「とにかく、映画のサントラには、Waylon
Jennings のDreaming My Dreams
とか、その他もろもろの、沼(swamps)
に関係ある曲が入ってるんだ。Pale Blue Eyesは、ちっちゃなPortastudio
で録音したんだよ。」
「映画にはこれといったストーリーはないんだ。ニューオーリンズが舞台で、撮影はWilesdenでやったんだけどね。
(撮影のために)アランは60ポンド払ってワニの剥製を借りたんだよ・・・」
アラン:「この映画はニューオーリンズで是非公開したい。それもテレビ放映じゃなくてちゃんと映画館で。
映画より先にたぶんサントラが完成すると思うけどね。」
ちょっと眉唾ものの話みたいだけど・・・それじゃ、スワンプランドのことについてきかせてください。
アラン:「スワンプランドは、James
King and the Lone Wolvesと Savage Familyの2バンドが所属するレーベルで、
ロンドンレコードの傘下にある。ちょっと変則的な存在形態だけどね。とりあえずやりたいことをやって、もしうまくいかないようなら、
今年の末にはきっとクビになって終わりじゃないかな。」
「僕の過去の経歴を見ればわかるけど、レコードを売るのは得意じゃないんだよ。すごくいいレコードを作るのはうまいけど、
それを売るのはダメなんだ。
僕は自分の思い通りのことをやって、それですべてがうまくいくというのが理想なんだよね。
そうやって出来上がった作品を大衆が気に入ってくれれば、それはそれで素晴らしいことだし。自分が関わったレコードで、
自分が真に気に入ったと言える作品は、Pale Blue
Eyeが初めてだよ。」
ポストカードは影響力もあったし、カルト的存在になって、いろんな人が模倣したけど、セールス面ではいまいちでしたよね。
アラン:「ポストカードは、アイディアはすごくよかったけど、それを実現するだけの金がなかった。ZTTのポール・モーリーには、
自分のアイディアを実現させる金がある。だけど、いまいちなアイディアがやたら成功を収めるよりも、
いいアイディアがうまく実現しなかったっていうケースのほうがずっとましだよ。」
あなたのやってきたことには、アンディー・ウォーホルの影響が見え隠れすると思うんですよ。
レーベルの第一弾シングルもヴェルヴェッツのカバーだし。ちょっと後ろ向きすぎないですかね?
アラン:「ヴェルヴェッツには、あらゆるよいものが集約されている。正直さ、バラエティ、妥協のなさ。
実現しきれないほどたくさんのすごいアイディアを持ってたし、一本筋が通ってた。大いに見習うべきだと思うよ。
「ドアーズにしても他の(アメリカの)バンドにしても、ヴェルヴェッツやウォーホルから盗んだ点はいっぱいあるだろ。
イギリスでは、ボウイやロキシーが出てくるまであんまり目立たなかったけど、その後の音楽シーンは、グラム、
パンクから80年代にいたるまで、ずっと一貫して(ヴェルヴェッツ)の影響は存在し続けてるよ。偉大なお手本だよね。」
エドウィン:「自分のやってることをふと振り返って、今まで誰もこんなことやってる人なんていなかったのかな、
それとも誰かがこういうことやってたのかな、って自問自答したりすることってあるだろ。
そういうときにヴェルヴェッツのことを考えたりするんだよ。」
ここまで話が進んだところで、ポール・クインが話に加わってきた。MCAは彼のことを、「ポール・ヤングのストリート版」
として売り出そうとしている。とはいえ、彼のソロ・アーティストとしての将来はまだまだ未知数である。Bourgie
Bourgieを
脱退したのはなぜ?
ポール:「とにかくいろいろ不満があったんだ。音楽的方向性についてバンド内でずいぶん衝突があってね。ロックなギターに、
伝統的なソウル・スタイルのヴォーカル、っていう二面性が僕にとってはどうも合わなかった。僕自身は、
もう少し統一性のあるものをやりたかったから。奇をてらった音楽よりも、まず自分自身がエンジョイできる音楽を作りたかった。
自分が楽しめる音楽をやっていれば、きっと聴く人にも楽しんでもらえるんじゃないかと思う。」
Pale Blue Eyesは今のところ一回限りのコラボレーションですね。ポールとエドウィンは今後も一緒に曲作りしたり
レコーディングしたりする予定はあるんですか?
エドウィン:「ポールがBourgie
Bourgieに入る前、ちょっとの間ソロでやってた頃に一緒に曲を書き出したんだけど、
その時は録音するまでに至らなかったんだよね。」
ポール:「うん、でもまた是非エドウィンの曲を歌いたいとは思ってるよ。」
コーヒーのおかわりが運ばれ、3人の話もより辛らつなものになってきた。フランキーからスパンダー・バレエにいたる
現代のポップ・ミュージックの様相、音楽業界の存在理由などが、容赦なく俎上に上げられていく。
エドウィン:「3−4年前、プロデューサーが表面に出てくるようになってから、ポップミュージックは方向性を失ったよね。
フランキーなんかはこの傾向の産物だよ。大いなるコケおどしってとこかな。
僕はただ、自分自身がエキサイトできるような音楽が作りたいだけなんだ。売れるかどうかは関係ない。今は誰もかれも自意識過剰で、
本当に心から曲を書くってことがなくなってると思う。」
「みんな、どのマーケットを狙って曲を書けばいいのかな?っていうことばっかり気にしてる。レコードを売るために
自分の音楽をカテゴライズするなんていうのはナンセンスだよ。いいレコードを作ってさえいれば、結果はおのずとでてくるもんだよ。」
アラン:「売れてなければいい音楽とはいえない、なんていうことはないよ。電話をかけるとき、
発明者のアレキサンダー・グラハム・ベルのことを考えることはあっても、ベルがどのくらい金もうけしたか考えることはないだろ。」
それじゃあエドウィン、1983年に少しの間ポップ・スターになった時は楽しくなかったのかな?
エドウィン:「トップ・オブ・ザ・ポップスやポップ・クイズに出るのはすごくエキサイティングだろうと思ってたけど、実際はがっかりしたよ。
ギャラの面でも、気分的にも想像以下だったね。
「僕は、ハックニーの自宅を引き払った時に、家賃の替わりにシンセを置いてきたんだよね。オレンジ・ジュースの
ヒット・レコードを生み出した魔法のシンセだったんだけどさ。あのシンセを手放さなかったら、僕も今頃ハワード・ジョーンズや
ニック・カーショウばりのアーティストになってたかも・・・
アラン:「とにかく、何らかの形でロックン・ロールのスピリットを再現するのが大事だよ。」
エドウィン:「そういうスピリットはパンク以来見られなくなったけど、スワンプランドはそれを取り戻そうとしてるんだよ。
レコード会社の人間にはなかなか理解できないことだけどね。やつらは、ハワード・ジョーンズのレコードを売るほうが性に合ってるのさ。」
エドウィン、アラン、ポールの三人はコーヒーを飲み終え、小銭で支払いを済ませて、それぞれのアイディアと夢を携えて去って行った。
サイト管理者のメモ
Punk Rock Hotelなる映画のインストはAIN’T THAT ALWAYS THE WAY
のBSIDEにインストとして一曲入るだけにとどまる
またスワンプランドはアランの言っているとおり、ポールのアルバムレコードを巨額を投じて結果作れなかった事で
ポールの裁判沙汰になってつぶれた(多分)
BOURGIE BOURGIEでのロックスタイルにソウルフルボーカルでは無く
落ち着いたPAUL QUINNand Independent Gloupが本来目指したかった方向だったのであろう...
これを思うと裁判で活動停止5年後に復活して本来したい方向性のバンドに...
そりゃ裁判沙汰みんな知ってただろうからグラズゴー周辺みんな強力するよ..
そしてPAUL QUINNand Independent Gloupポール節全開、やったね!!でMS(病気で活動停止)
なんていう悲劇だ...この二つのインタビュー読んでたら野心が伝わってきてマジに泣けてくる。
そういえばPAUL QUINNand Independent Gloupセカンド
折込ポスターでバスローブみたいので椅子に腰掛けた姿なんでだろう?と当時思ったけど
ひっとしてすでに
病床にあったのかもしれない...
腰掛けたままでもいい、あなたの歌が聴きたいです、あなたの歌は年をとっても味が出るスタイルのはずだ
復活を願ってやまない。