近畿衰退化法案−「工場三法」

戦時統制体制として形成され、戦後においても存続した「40年体制」を利用して、
中央省庁は国策として、経営・企画・立案・情報等の機能を東京に集中させることに注力した。【注1(ページ最下部)
http://www.eonet.ne.jp/~0035/memo1.htm
http://www.eonet.ne.jp/~0035/memo2.htm
http://www.eonet.ne.jp/~0035/memo3.htm

地方は、第一次産業と製造業の現場(工場)で生きていけ、というわけである。

ところが、近畿圏においてはその製造業でさえ制限されたのだ。
近畿圏の足かせとなったのが、いわゆる「工場三法」である。



工場三法の概要
pdf :重いのでご注意を)
http://www.dbj.go.jp/kansai/report/pdf/060227.pdf
  P.5

1964
年 工場等制限法制定  正式名称:近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律
        既成都市区域内の制限区域において、産業・人口の過度の集中を防止し、
        都市環境の改善を図ることを目的として、工場(原則1,000m2以上)や大学の新・増設を制限
1972
年 工業再配置促進法制定
        工業が集積した地域(移転促進地域)から集積が低い地域(誘導地域)に
        工場を移転・新設する場合、事業者に補助金等の支援措置を実施。
1973
年 工場立地法制定
        特定工場(敷地面積が9,000m2以上または建築物の建築面積の合計が3,000m2以上の大・中規模工場)を
        新増設する場合、生産施設に面積制限を課し、一定規模の緑地、環境施設の確保を義務づけるもの。



法律の本文
「近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律」 (2002年まで存続)
http://www.houko.com/00/01/S39/144.HTM
「工業再配置促進法」 (2006年まで存続) 【注2(ページ最下部)
http://www.houko.com/00/01/S47/073.HTM
「工場立地法」 (現在も存続)
http://www.houko.com/00/01/S34/024.HTM




公平を期すと、首都圏においても同様の法律が施行されていた。
この「工場三法」の表向きの目的は、過度の集中の排除だったのだ。
しかし、前述のとおり、東京への経営・企画・立案・情報等の機能の集中は、国策として逆に促進されたのである。

つまり、一連の製造業の集中排除法案では、近畿圏だけが一方的に負担を強いられたのである。




冒頭のタイトルを【近畿衰退化法案】としたのは、
「工場三法」によって近畿がダメージを受けたのは、法律の結果ではなく、
ダメージを与えることが法律の目的だったフシがあるからである。

近畿を対象とした最初の「工場等制限法」が制定されたのが1964年、
2
年後の1966年に「中部圏開発整備法」が制定された。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S41/S41HO102.html

これは「制限」する法律ではなく、「開発整備」する法律であり、
ここにおいて製造業の近畿から中部へのシフトが、国策として図られていたのである。




近畿にとっては、まさしく経済的にも情報的にも「失われた40年間」であったのだが、
しかしながら、それを嘆くために本論を書いているのではない。

本論を書いた目的は、40年にわたって、近畿がこれだけのダメージを負わされたにもかかわらず、
大阪はなお、これだけの都市を作り、それを維持していて
http://www.vsocial.com/video/?d=65647
 (220秒の動画)

神戸は、壊滅的大規模災害からの復興を果たしたとして、
世界中の注目と尊敬(リスペクト)を集めている、
近畿には、これだけの底力があることを確認するためである。




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「工場三法」   「工場等制限法」   「工業再配置促進法」



1
トヨタでさえ、東京本社に会長・社長が常駐している。

2
つまり、07年現在において、ついこの間まで、
近畿から工場を移転する企業に対しては、国から補助金が支給されていたのだ!

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