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読売新聞 0645

【新 日本語の現場】
「根底に東京への劣等感?」

関西の人はなぜ、共通語や東京言葉を「気色悪い」と感じるのか。(中略)

奈良県出身で、大阪の高校へ通った富山大助教授の中井精一郎さんは、
その不快感を東京で 味わったことがある。
都内の駐車場で係員からこんな注意を受けた。
「そこだめだよ、もう少し向こうに置いてよ」
東京の人なら何の抵抗感もない。
「あ、そう、あっちね」程度の言葉を返して車を動かすだろう。
ところが中井さんはカチンと来た。
「関西の駐車場係りなら『そこなあ、悪いけど、あかんねん。 向こうへ止めてくれるか』と話しかけるでしょう。
 東京の言葉では、上から見下ろされて、しから れているように気持ちになりまして」

係員は、決してしかりつけたわけではない。
「そう受け取るのは、突き詰めれば、東京に対するコンプレックスと世間知らず。
 大阪人には、自分たちが日本の中心だという思い上がりもあるのです」と自戒する。
それは東北や九州への出身者への対応に現れるという。

(引用終わり)
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「新 日本語の現場」 読売新聞
「根底に大阪への劣等感?」

読売新聞の人はなぜ、
「関西の人はなぜ、共通語や東京言葉を『気色悪い』と感じるのか。」を論じるのか。
その理由は、記事とは逆に、読売新聞の人が大阪言葉を「気持ち悪い」と感じているからである。

読売新聞の人は、その不快感を大阪で味わったことがある。
府内の駐車場で係員からこんな注意を受けた。
「そこあかん、もうちょっと向こうに止めて」
大阪の人なら何の抵抗感もない。
「あ、あっちな」程度の言葉を返して車を動かすだろう。
ところが読売新聞の人ははカチンと来た。
「関東の駐車場係りなら『そこだめだよ、もう少し向こうに置いてよ』と話しかけるでしょう。
 大阪の言葉では、上から見下ろされて、しかられているように気持ちになりまして」

係員は、決してしかりつけたわけではない。
そう受け取るのは、突き詰めれば、大阪に対するコンプレックスと世間知らず。

読売新聞の人には、自分たちが日本の中心だという思い上がり、そして
自分たちだけが日本の基準を決めるという思い上がりのために、
方言、特に大阪言葉を不快に感じるのかもしれないという自省は、微塵も感じられない。

その不快感は、なにも大阪だけをターゲットにしているわけではなく、明治以降、日本全国、
その中でも、東北や九州の出身者とそれらの地域の言葉への対応にも現れているのである。

周知のように、かつて東北や九州を中心とした教育の現場では「方言札」というものが用いられていた。
学校で方言を使った児童・生徒の首に方言札を掛け立たせたのだ。

その結果、子供たちは、親が使う言葉だけではなく、歴史ある伝統文化を体現している親の存在そのものを
恥ずかしいものだと感じるようになったのだ。

そんな国家とメディアによる文化浄化・方言浄化に積極的に抵抗したのが、大阪の先人たちである。
そして、大阪だけではない各地の先人たちの努力により、方言が劣っているものであるという意識は急速に薄れている。

こういうパラダイム・シフトの中心になり、国家とメディアの力で100年かけても、
東京原理主義を定着させることができなかった大阪に対して、
読売新聞の人は苛立ちとコンプレックスを隠せないのである。


それにしても、無理やりに証言を取ってきたのだろうが、
「大阪人には、自分たちが日本の中心だという思い上がりもあるのです」
こんなことを思っている大阪人が、どれだけいると思っているのだろうか。 (嘲

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