「YES」   



「だめだっていってるだろっ」
 とうとう父親がどなった。母親は鏡台のそばで慎重に口紅をひいていたのだが、娘に投げつけられたその声の大きさに手元が狂って、真紅の線が唇の端にはみだしてしまった。
 母親ははみだした口紅をすばやくふき取ると、取り繕うような声で言った。
「ナナちゃん。何度言ったらわかるの? お母さんはね、同窓会なのよ。大人の人しかいないし、帰りもとても遅くなっちゃうの。あなたはもう三年生なんだから、いいかげんわかるでしょ」
 母親の久美子は鏡越しにナナを見やった。ナナはもう一時間前から「いっしょに連れて行って」とぐずっていたのだった。
 父親に怒鳴られてナナは鏡に映る母親を見つめたまま、ぐっと唇をかみしめて黙った。父親の勉はやさしくて子煩悩な男で、田舎者らしく素朴な反面、気性が烈しく短気で、怒りを抑えきれないときは子供に手をあげることがあった。
 久美子は頬にチークで赤みを入れている。紫色のニットのツーピースに同色の大ぶりのイヤリング。アクセサリーはそれだけだ。そしてその不透明な石の輝きは、久美子の雰囲気にぴったりとマッチしていた。髪は複雑なシニヨンにまとめられ、襟足の後れ毛が細い首にかすかに、細い糸のようにたれている。
「ナナちゃんのお母さんって、いっつもオシャレでいいなあ」
 クラスの友達は口を揃えてそう言う。だからナナは参観日や学校の行事が楽しみでならないのだった。久美子はとりたてて美人ではないのだが、スタイルがよく、なによりも洋服の着こなし、色彩に対するセンスがずば抜けていた。
「さあ、できた。ナナちゃん、ちょっと」
 久美子は鏡台の椅子から立ち上がると、自分が朝編みこんだ娘の髪を、鼈甲色のブラシで梳かしながら、もう一度やり直し始めた。彼女は器用で手馴れていた。たいていの家事をそつなくこなしたが、特に、自分の娘の髪を様々な形に仕上げることが、忙しい朝の決まった楽しみでもあった。
 ナナは母親の手がブラシを自分の頭に入れるたび、ぐっと頭を後ろにひっぱられながら、不安なまま、そばで溢れてくる匂いをかいでいた。口紅と同じ真紅の、しかしもう少し深みを帯びたこっくりした色合いのマニュキュアが塗られた指からは、いつもと同じ洗剤のレモンのにおい。でも今日の母親からはかすかな白粉のにおいに混じって、もっとたっぷりとむせ返るほどの花の香りがする。
「ねえ、お母さん、香水つけた?」
「あら、ナナちゃん、においがわかるの?」
「うん。お花のにおいする。これバラ?」
「さあ、なにかしら……お母さんはわからないわ」
 母親に髪や地肌を触られているうちに、いつものようにナナは夢み心地になってきた。
――ずっとこのまま、お母さんのそばにいることができたら……。

 でも髪の毛はすぐにできあがってしまう。やわらかな手の圧力は消え去って、重みをなくした頭はスースーする淋しくて空虚な空気に放り出されてしまった。
「さ、こうちゃんはおばあちゃんにお願いしてあるから、ナナちゃんはお父さんとごはん食べて、おふろ入って一人で寝ておくのよ」
「……」
 ナナは返事できなかった。
――お母さんがいないごはんなんて、一人きりのお風呂なんて、考えたこともなかった。



 タクシーを頼んでおいた時間が近づいてくると、久美子はすでに気もそぞろになり、子供っぽくしゃがみこんで、小さな滑皮のショルダーバックに化粧品を詰めなおしている。こうして時間に追われるように落ち着きのない母親を見ていると、ナナは自分までせっぱつまってくるように感じるのだった。彼女は久美子が移動するたび、少し離れつつも、ゾロゾロついて歩いた。勉はナナが形だけでも静かになったのを見て、リビングへかえっていた。
「おい、タクシー来たみたいだぞォ」
 リビングから響き渡ってきた勉の低く、地の底を覆すようながなり声は、ナナを震え上がらせた。
 久美子は時計を見上げた。ナナも見上げた。
「あら、ほんと」
 五時一分前だった。久美子は自分が用意した夕食のそばを通りぬけ、音もたてず流れるように玄関へと進んでゆく。ナナもついてゆく。その後ろから勉がドスドスと床がぬけそうな音をたてて歩いてくる。
 久美子が先の尖った黒いハイヒールに足を入れた。ナナはどうすることもできず、そこに突っ立っていた。
 そのとき勉の手が、分厚い無骨な、いつもナナに厚切りにされたボンレスハムを連想させるその手が、がっしりナナの肩をつかんだ。
「じゃ、気をつけてな」
「ごめんなさいね。お父さん。十二時までには帰れると思うわ」
「気にしないで楽しんできなさい。ずっと会ってないんだから」
「ええ」
「ナナちゃん、じゃあお母さん行ってくるわね」
「……」
「大丈夫だよな、ナナ。お父さんと二人で仲良くやれるさ」
 勉が明るく豪快に笑った。
「……」
 涙がでてきそうになって、ナナは顔を上げることさえできない。
「いっしょに連れていけたらいいんだけど」
 玄関のノブに手をかけた久美子が小さな声でそういった。ナナはそれを聞き逃さなかった。こらえていた涙がたちまち溢れて喉の奥が熱く震え始めた。叫び声がそこを突き抜けて火の玉みたいに飛び出した。
「あたしも行くうー」
 ナナが叫んだとき、久美子はもう玄関を出てしまい、庭から道に続く階段を下りていた。
「こらっ! ナナッ」
 勉の声で久美子が振り返ると、ナナが泣き喚きながら手を前に突き出して自分の方に向かってくるではないか。
「どうしよう」
 久美子は後ろ髪をひかれながらも、逃げるようにすでにドアの開いているタクシーに乗り込んだ。
「駅までお願いします」
 その言葉を言い終わらないうちに、ナナは細い腕でタクシーのドアにすがりついて叫んだ。
「いきたいよお。お母さん、いっしょに、連れてってー」
 ゴリラのような形相で追いかけてきた勉は、タクシーからナナを必死で引き離しにかかった。
「こらっ、離さないか」
 周りにはだれもいなかった。しかし、ゆっくりと近づいてきた自家用車がタクシーの横を通り過ぎるとき、運転手は驚いた顔をして、泣き叫ぶ少女と、その体を引っ張る図体の大きな男をじろじろ見ているのだった。

 久美子は言葉もなくして、泣き叫ぶナナをおろおろと見ていた。握り締めていたバックのストラップが汗ばんできた。ナナは死に物狂いだったから、勉ほどの力でもなかなか思い通りにはならない。そして、こんなふうに無理やり勉に連れていかれるナナを見てしまったら、どうして同窓会など楽しむことができるだろう。
 勉がとうとうナナの頭を「バカッ」と音をたてて叩いた。こんな折でさえ、久美子の眼差しは勉を激しく非難した。
 叩かれた痛さなどまるで感じなかったのだが、ナナは弾みがついたように、これ以上ないほどの泣き声を張り上げた。すでに日は沈みかけていて、一方の空では薔薇色の雲が縞々になっていた。冬の闇を目前にして暴れる娘の姿が久美子には赤ん坊のようにみえた。
 ……こんなふうに駄々をこねる子じゃなかった。小さなころからずっと。
 久美子の震える唇が開いた。開花する赤い薔薇のように。
「もういいわ。おいで。連れていくわ」
 母親の静かな、それでいてよく通る声が、タクシーの中から漏れた。
 勉の腕から力がすっぽぬけた。
「えっ。なんで? いいのか?」
 勉は不服そうな、いぶかしげな声を出して、目の前にいる二人の女を見た。そんな感じがしたのだ。女が二人で、自分のわからないことをする。ナナの方はしゃくりあげながら、願いがかなったことで急速に静かになっていった。
「ええ。ほら、早く乗りなさい」
 ナナはすぐに見慣れないタクシーの中へ飛び込んだ。変わったにおいがした。シートにはビニールが張ってある。
「いいですかあ?」
 タクシーの運転手が少々疲れたような声で、前を向いたまま言った。白いものが入り混じった頭にナナは怒られているような気がした。
「ええ。すみません。出してください」
「じゃドア閉めますよ」
 勉を遮蔽するように、ドアが音をたてて勝手に閉まった。ナナは外に一人きりで立ちつくしている父親をけして見なかった。こうして母のそばにいると、残されてゆく父親がかわいそうに思えてきたのだ。それでもナナは、シートにぴったりと背中をつけていた。母親がそばにいるこの場所から、もう二度と引き剥がされたくなくて。

 タイヤが滑り始め、まだ納得いかないといった顔をした勉を一人残した家は、またたくまに遠ざかっていった。ナナはじっと、物も言わないで、移り変わる景色を見ていた。久美子も黙っていた。夕闇に潤んだ街のネオンがピカピカと窓の外にやってきたころ、久美子は気づいた。
「あらっ、ナナちゃん。靴、あんた、お母さんのつっかけじゃないの」
「あっ、ほんとだ」
 ナナの足にはブラブラと久美子のつっかけがぶら下がっていたのだ。
「まあいいわ。もう。しょうがない子ねえ」
 久美子はそう言うと、おかしくてたまらないといった格好で、おなかを押さえて笑った。
 ナナはつっかけを見たとたん、自分がさっき泣き喚いて暴れたことを思い出して、急に恥ずかしくなった。それで久美子を見つめながら、小さな声で笑った。窓の外の灯りが、久美子のカールした人形のような睫を雫のように彩っていた。

                                    (了)