約束



                            

「ちょっと、あんずちゃん、早くおいでよ」
「あ……」
 なんであんな約束したんやろ……
 あんずは友達と二人で横にならんでいつもの帰り道を歩いていたのだが、何度も遅れてしまう。彼女は後悔していた。ヒトシと遊ぶ約束をしてしまったことを。あのときはあんなに嬉しかったのに。
 家に着いたら、おばあちゃんにヒトシ君と遊ぶということを伝えなければならない。それとも、黙っていようか……
 そんなことを考えはじめると、嬉々として交わしたあの約束自体が、ひどくやっかいなことに思えてくるのだった。
 この辺りに住む人はみんな「お宮さん」と呼んでいる神社を囲む城跡が、すっかり冬めいた田んぼのちょっと先、あんずたちの斜め横方向に寒々しくそびえている。城はずっと昔に焼け落ちて、そこに残されているのは天辺が四角い、崖のような石垣だけだ。どす黒い雲ばかりですっかり覆い尽くされてしまった空に、地面や道や、あんずたちを見くだすように浮んでいる石垣を睨みながら、あんずはなにもかもが面倒になってくる。

 ヒトシには父親がいないこと、ヒトシの母親が学校の行事に一度も参加したことがないこと、たまに街でみかける彼女の姿がとても奇抜であること、ヒトシがしょっちゅう集団登校に遅れること、ヒトシの格好がみすぼらしいこと、制服はいつもよごれたままだったし、体操服も極度に汗臭いこと、これらの事実はここが田舎であるゆえに、あまねく知れ渡っていた。
 まだいじめなどなかったが、クラスメイトたちは本人の目の前で、ときには呆れたように、ときには世話好きの姉のように、こういうことを言う。
「ヒトシ君、くさいよお」
「そろそろ服洗ってもらったら」
「体くさるぞ」
 そういうとき、ヒトシは黙って笑った。怒りもせず、泣き出すわけでもなく、口だけでほほえむのだ。といっても、このやりかたを覚えたのは、彼が二年生になってからだった。一年生のころはよく泣いていた。あばれたりもした。新しいクラスになって激しくあばれたら、母親が初めて学校に呼ばれて注意をうけた。その事件以来、ヒトシはめっきり大人しくなった。
 ヒトシは子供たちの輪に紛れこんでいても、自分の姿にだけ違った輪郭があるように思えるのだった。それは錯覚ではなく、ふと視線を感じて瞳を上げた瞬間には、いつも自分にむかってくる大人特有の目があった。ヒトシに見つかるとたいていは泳ぐように逃げてゆく、その眼差しのわけを彼は名付けようもないままに知っていた。振り払いたくなるような目つきのわけを……。



 その日の昼休み、ワックスがひからびて黄色い毛先をからませている、何本ものモップのすぐそばで二人は身を潜めていた。オニ役のサヤカちゃんが大きな声で叫んだ。
「もーいーかーい?」
 あんずとヒトシは同時に叫び返す。
「もーいーよー」
 だがまだ、「まあだだよ」という声の方が多い。 
 二年二組の子供たちは、十一月に入ってから、昼休みのたびに、かくれんぼを楽しむようになっていた。二人は偶然同じ掃除用具入れに飛び込んでしまったのだ。
 狭くて薄暗い穴蔵みたいな場所に、二人で忍んでいる興奮があんずの瞳を輝かせていた。あんずの髪はうさぎの耳のように二つに束ねられて、彼女が動くたび頭の上でピンピンと跳ねる。彼女に比べてヒトシは硬直しているように動かない。動くと咳が出てしまいそうな気がしたのだ。彼は寒がりだったが、母親にいつも薄着にさせられていて、鼻水をすすりながら咳いてばかりいるのだ。
 「まあだだよ」という声がおしまいになると、サヤカちゃんが探しはじめた。さっきまで盛んだったあんずの動きはぴったりととまっていた。閉じこもっているからか、サヤカちゃんの足音は霧のむこう側にあるような感じがする。だが、すぐに一人見つかって、けたたましい笑い声が響き渡ってきた。続けてもう一人。二人は笑い声がおこるたびに歯を食いしばって、自分たちまで吹き出しそうになるのを我慢していた。ヒトシはこんなところにもオニがくるのかどうかあんずにたずねたかった。かなり離れているし、見つけるのは大変だろう。
「なあ、あんずちゃん」
「しーっ! 見つかるっ」
 あんずはかすれた声で自分の名を呼んだヒトシの口を、手の平で素早く押さえた。ヒトシは自分のひび割れた唇に、突然女の子の汗ばんだやわらかな手が押しあてられて、思わず息をとめた。しかし、ヒトシの鼻から我慢できずに漏れる熱い息をうけたとたん、その手は生き物みたいに離れて、底のほうによどんでいる闇に沈んでしまった。
 
 ヒトシが予想したとおり、二人はなかなか見つからなかった。そして隠れているという状態にどちらも少々飽きてしまい、体をもぞもぞと動かしはじめた。

 ヒトシはさっきよりずっと声をひそめて、それでいて急に思いついたように言った。
「なあ、あんずちゃん、今日いっしょにお宮さんいかん?」
 痩せてとんがったヒトシの顎が、あんずのぽってりと膨らんだ頬のすぐ横にあった。掃除用具入れの扉は立て付けが悪いのか最後まで閉まらなくて、隙間から射し込んでくる光が、互いの顔の特徴を鮮明に浮き立たせていた。
 ヒトシの前髪は伸びすぎていて、目の中に入ってしまいそうだった。あんずはヒトシと学校以外で一度も遊んだことがなかった。これほど彼に接近したこともなかったのだ。彼女は人からの誘いを断ることがうまくできなかったので、気乗りしないまま友達にいやいやついていくことも多かったのだが、今はなぜかヒトシの誘いが極めて楽しいものに思われた。ヒトシの汗臭さも、掃除用具入れに充満している、ワックスやら雑巾やらの強烈なにおいと混じって、なにがなにやらわからない。
「いいよ。宿題せんとあとからお母さんに怒られるし、おやつ食べて、宿題終わった頃にいくわ」
「じゃあ、四時くらい?」
「たぶん、そんなくらいでいいわ」
 ヒトシの一重の目が、簾(すだれ)のような前髪の陰からのぞいている。あんずには、そのきつい利発そうな目が不必要に光っているように見えた。
 ……いつか夕暮れどきに見た野良猫の目にそっくり。
 あの猫ときたら不憫なほど痩せて毛が汚れていて、あんずが体をなぜようとして近寄ったとたん、狂ったような声を上げてしっぽを逆立てたのだ。ヒトシの目の中を覗き込んでいたら、ヒトシもおかしそうに歯をみせてマネをした。笑ったためか、目の光はやさしくなった。二人は鼻と鼻をくっつけあうくらいに近づいて、互いの目に、目の中に見入っていた。
「茶色ん中に黒いのある?」
「ある。僕がおる」
「ヒトシ君の中にもあんずおるよ」
 二人は子供だけに出せる綿菓子のような声で笑った。そのうち息苦しくなって、目も疲れてきて、二人は息を押し出すように口を開けて互いから離れた。
 このときまったくとうとつに、あんずは自分の母親と祖母の言葉を思い出してしまった。

「松木さんとこのおばはん、また今日もけったいな格好してうろついて」
「ほんまになあ。かわいそうやわ、子供が」
「そやかてあんた、子供も陰気な顔しとるもん。やっぱり片親ではなあ」
 もしその場にあんずがなにもしないでただいるだけだったら、二人はそんな話をすることはなかった。しかし、同じ場所でも、あんずが漫画を読んでいたり、テレビを見ていたりするときは、あんずを横目で覗いつつ、実の母娘の気安さで、二人はじきに噂話をはじめる。たとえ、話の内容がよく理解できなくても、人の囁きあう悪意というものは特定の調子をもっていて、どうしたって伝わってしまうのに。
 お気に入りの漫画を畳に寝転がって読んでいる最中に、二人のヒソヒソ話がはじまると、あんずはたちまち居心地が悪くなる。二人の声から逃げ出したくなる。でも、そうすることはできない。二人の目が自分を見ていることを知っていたから。だからあんずは、ぜんぜん進まない漫画を見つめながら、なにもきこえないふりをしつづけていた。こういうことはわりと頻繁にあったから、あんずは大人というもの全員が、子供には耳がないとでも思っているのだと結論づけてしまっていた。

「なに?」
 ヒトシが耐え切れないようにきいてきたので、あんずは自分が今ヒトシになにかを尋ねようとしていたことにやっと気づいた。それは彼女にとって口に出しにくいことだった。よくわからないまま、自分が言おうとしていることが、ヒトシには嬉しくないことだろうと、あんずは察知していた。ききたくてたまらないのだが、それはきいてはいけないことなのだと、子供心になにかを命じながら、あんずは口をつむいだままでいた。
 あんずが《もうここにはいたくない》と思ったとき、ちょうど昼休みの終りを告げるチャイムがなり響いた。あんずはヒトシになにも言わないで飛び出していった。
「あれーっ、どこにおったん?」
 しばらくするといっせいに女の子の歓声がおこった。ヒトシは出ていくのが恥ずかしくてまだそこにいた。彼は細い顎を突き出して乾いた咳をし、しがみつくように目の前にならんでいるモップの長い柄の一本をつかんだ。約束をしたことで彼は満足していたが、わずかにおびえる自分の心に疼くような痛みを感じていた。



 あんずの家は文房具店だった。駄菓子にアイスクリーム、ジュースなども置いていて、学校が近いこともあって店はなかなか繁盛していた。なにしろここから車で二十分はいかないと、大きなショッピングセンターなどないのだ。母親は夕方五時までパートに出ていて、いつも祖母の初恵が店番をしていた。あんずがガラガラとサッシを開けて店の中へ足を一歩踏み入れると「ピンポーン」という普通のドアチャイムと同じような音が店中に響き渡った。万引きが多くなってから初恵が困り果てて、見張り番のような機械をつけたのだ。
 ついたばかりの頃は、あんずはその音にひどく驚いて飛び上がったりしていた。入り口のサッシのすぐそばの、ちょうどあんずの腰の位置くらいに設置されたその白い四角い機械を覗き込んで見ると、黒いガラス面に小さな点のような赤い一つの「目」があって、その「目」が「目」の前を通る人影を無差別的に警告するのだった。
 しかし今となってはそんなもの、あってもなくてもいっしょだった。初恵が音をききつけて店に現れる前に、あんずは店の奥にたどりついて、靴を脱ぎ捨て、実際の家の玄関に上がってしまっている。それに防犯という意味でもいまいち心もとなかった。万引きする中学生ときたら、その機械の下を這いつくばって通れば、単細胞な赤い「目」はまったく察知できないことにすでに気づいてしまっていたのだ。
「ただいま」
「なんや、あんずかいな」
 いつもと同じように初恵の気の抜けたような声が店の方から響いてきた。初恵はしょっちゅう学校帰りのあんずを客と間違えるのだった。その声をきくたびに、あんずはニヤニヤしてしまうのだが、でも今日は笑えなかった。口の中まで重たいような感じだ。どうやって打ち明けようか。あんずは玄関からの廊下に続く居間に上がると(その部屋は店とも続いている)ランドセルを置いて服を着替え、店へもう一度出ていった。駄菓子の並べてあるコーナーで立ち止まり、三角の形をした糸つき飴の、白い紐の束の中から一本を選び、引っ張って取り出した。中には極めて小さい粒のような飴や、反対にばかでかい飴もある。でっかい飴は「アタリ」で数が少ない。今出てきたのは「ハズレ」で小さいものだった。あんずは表面にまぶされた粗目砂糖のせいで、ザラザラした飴を上から糸をたらして口の中に入れると、神妙な顔で店の時計を見上げた。赤い唇から白い糸がたれている。
 四時に「お宮さん」か……。

 店の外はさっきよりもさらに暗くなっていた。サッシにへばりついて空を見上げると、すでに雨でも降ってきそうな感じである。
 ヒトシ君、「お宮さん」にほんまに来るんかな……。

 あんずは飴を頬張ったまま、急な暗い階段をのぼってゆき、そわそわしながらも自分の机で宿題をはじめた。下では何回も店のチャイムがなって、初恵のてきぱきした声が小さく届いてきた。



 四時まであと五分になった。あんずは完全に落ち着きをなくして下に下りていった。
「おばあちゃん」
 初恵は店に続く居間でこまごましたお金の計算をしていた。あんずはそれを見ると欲しくてたまらなくなる。
 でもおばあちゃんもお母さんも同じ顔つきをして言う。「お金触ったらあかんよ。ばっちいんやから」って。

「なに?」
 初恵は五十四歳だった。京都生まれの京都育ちで、結婚するまでは京都で観光バスのガイドをしていた。若い頃はだれもがハッとするほどの美人で、あんずは昔の写真を見せてもらうたびに、お寺の前でバスガイドの制服を着て微笑んでいるほっそりした女の人が、いつもウエストのないワンピースを着て、そのどっぷりとした腰に手をあてて店番をしている、自分の祖母と同じ人物だとはどうしても信じられないのだった。
 初恵はバスの運転手と結婚し、夫の故郷である福井県の若狭地方に家を建ててから、学校に近いこともあって文房具店を始めたわけだ。
「あんず、今から遊びにいってくるわ」
「ふーん、どこへ?」
 そういいながら、やっと初恵は顔を上げて、孫の顔を見た。初恵の眼差しはいつも真っ直ぐで、真っ直ぐであるゆえに有無をいわさぬ迫力みたいなものがあった。
「え、お宮さんやけど」
「暗くならんうちに帰ってきなよ。あら、あんた、その格好じゃ寒いわ。ジャンパーかなんか羽織っていきなさい」
「……わかった」
 「だれと?」ってきかれんでよかった。お母さんやったら、絶対きいてきたはずや

 あんずはジャンパーに腕を通しながら、なんとなくのろのろしている自分に気づいた。
 でも約束したんやから、いかんと……。
 あんずが家の玄関から靴をはいて店に出ようとしたそのとき、チャイムがなった。あんずは客と店で会うのが恥ずかしくて好きではなかったから、半分飛び出ていた体を瞬時に引っ込めてまた家の中へ戻った。 
「はい」
 初恵の声が響いてくる。しかし、いつもなら「おいでやす」というはずの続きがなかった。
「あんずちゃんは?」
 次にきこえてきた声は初恵ではなく、ヒトシのものだった。
 なんで、家にくるん……
 あんずは不意を打たれて動けなくなってしまった。
「なんでっしゃろ」
 初恵は大人にむかうときと同じ話し方で言った。
「むかえにきた」
 ヒトシはかすかすの声でそう言った。
「ちょっと待っといてよ」
 呆れたようにそう言い残して初恵は店への扉を閉ざし(いつもは薄いカーテン一つで区切られ、たいてい開けっ放しになっているのだが)、戻ってきてそこにいるあんずを上から見下ろした。膝下までの長さのワンピースから突き出した初恵のずんぐりした足は、黒くて不透明なアクリルのタイツで覆われている。
「あんた、松木さんとこの子きとるけど、あの子と遊ぶんかいな?」
 初恵の厳しい視線ととげとげしい口調があんずをたじろがせた。あんずは初恵のタイツにいっぱいできた毛玉にだけ視線を集中させ、スカートのひだを、ぎゅっとひっぱる。
「……」
「あの子と約束でもしたんかいな?」
 したといったら、母親に言いつけられ、怒られそうな気がした。
 ……絶対怒られるに決まっている。
「……してない」
 不思議なことにそう言ってしまうと、急にそれが本当のことに思えた。
「ほな、帰ってもらうさかい。いややわ。おばあちゃんもあんな家の子は」
 怒っているような、笑っているような、あるいは、なにかから逃げるような感じでそう言うと、初恵はまた店へ出ていった。
 「あんな家の子」という言葉があんずを恥ずかしくさせた。なぜ恥ずかしいのか、だれに恥ずかしいのかなにもわからないまま、とにかくどうしようもなく恥ずかしいのだった。
「ごめんねえ。あんずちょっと遊べへんのやわ」
 店が不必要に静まり返ったような気がした。あんずはだれからも見られてはいないのに、這いつくばるような格好をして、耳だけを研ぎ澄ませていた。
「なんで?」
 納得いかなかったのだろう。ヒトシは小さな声で、それでもはっきりと尋ねてきた。
「家の用事ができてしもたんやわ」
「でも」
 そう言ってから彼は少し咳いた。二度、三度。そしてやはりかすかすの声で言った。
「でも、約束したし、ここで待っとく」
 彼の表情は最初に店へ入ってきたときとほとんど変わりがなくて、けして泣きそうでも、怒っているようでも、まして強情な感じでもなかった。
「待っといてもあかへんよ」
 初恵は驚いたように言った。返事はなかった。
 ……弱ったなあ。でもそのうち帰るやろ。
 そう思って初恵はしばらく放っておくことにした。
「あんた、あの子帰るまで出ていったらあかんよ」
 初恵はあんずにピシリと言い渡した。あんずは頷いた。こうなったら一刻も早くヒトシに帰ってもらいたかった。しかし、十分たっても二十分たってもヒトシは店の中にいた。その間客が四度訪れたが、ヒトシは店の品を見て回るわけでもなく、同じ場所にじっと立っているのだった。
「いややわ。あの子まだおる」
 初恵は何度か真中で二つに分かれた、暖簾風のレースのカーテンをめくり上げてヒトシを覗き見たのち、とうとう扉を開けて店へ出ていった。
「あのねえ、僕、そこにおるとお客さんの迷惑になるさかいなあ、待つのはいいけど、お外に出てくれへんか?」
 ヒトシは長いこと待ちすぎて疲れたのか、一瞬だれに言った言葉なのかわからないといった感じで店を見回したが、初恵の目が自分をじっと見ていることに気づくとやっと意味を理解したように頷いて、サッシを開けて外へ出ていった。入ってきたときと同じ、「ピンポーン」という音がして、店は空になった。
「やれやれ、これで帰るやろ」
 初恵は少しかわいそうな気もしたが、客が少ないうちにしなければならないことが山ほどあってすぐに忘れた。夫は孫が生まれる前に肺癌で死んでしまっていた。子供は娘一人きりで、養子に入ってくれた娘婿ときたら、人はいいがとんだ浪費家で、稼いだら稼いだ分だけ使ってしまう。
 あんずは初恵の言葉をきいて、しばらくしてから店へ出てみた。彼の姿は本当に消えてしまったかにみえた。しかし、サッシの一番はしっこで、ちろちろ動くものがあった。茶色い薄っぺらなセーターが、サッシにむかって突き出ていたのだ。それはヒトシの腕だった。彼はサッシのすぐ横の壁に、後ろ向きでもたれていたのだ。あんずはその場に磔にされてしまったように立っていた。それからどうしていいかわからず家へ飛び込んだ。彼がまだ表にいることを、初恵には言わなかった。
 なんで、ずっと待っとるんやろ。
 ヒトシがかわいそうという気持ちより、彼が自分のことをまだ待ち続けているという事実があんずを苦しめていた。
 彼女はじっとしていることができなくなって、音をたてないように二階へ上がると、ピアノの部屋へ忍び込んでいつものようにピアノの蓋を開けた。だが、今は、ピアノはひけない。音をさせてはならない。だれにいわれたわけでもないけれど。あんずはしかたないので、ぺったりと床におしりをつけてピアノの前に座った。黒く光を帯びた胴体に、水面に浮かぶ月のように、微妙にゆがんだ自分の姿がうつっている。
 あんずは、なぜこんなふうにコソコソしなければならなくなったのか、ピアノが全部しっているような気がした。まだいるのだろうか。まだ待っているのだろうか。考えることは、そのことばかりだ。

 突然なにかがベランダを通り過ぎたような気がして、あんずは立ち上がると、おそるおそるベランダに面した大きな窓へ近寄って外を見た。知らないうちに雨が降っていた。パチパチ跳ねるような音がして地面に点々模様をつけてゆく。またたくまに雨は本降りになった。
 あんずはピアノを開けっ放しにしたまま部屋を飛び出して、階段を落ちるようにおりた。そしてつっかけをはくと店へ飛び出て、サッシを開いた。「ヒトシ君」と心で叫びながら。
 そこにはもうだれもいなかった。雨だけがさらに勢いを増して降っていた。あんずは橋へと続く道路の先まで見渡したが、一台の車が曲がっていったきりあとはなにも動くものなどなかった。アスファルトに雨があたるときの、濃い、沸き立つようなにおいがしていた。
「あら、あんずかいな。なにしてるの。ピンポンなるからお客さんやおもた」
 あんずはなにも言えなかった。
「なにしてるの。はよそこ閉めて。ああ、寒なってきた。今日の夜、雪降るかもしれへんな」
 あんずは、もう一度外を見渡したあと、のろのろと音をたてないようにサッシを閉めて、何度も外を振り返りながら家の中へ戻っていった。                                                       

 

                       (了)