「淋しい気持ち」




「ただいま」
 ヒロシは玄関のドアをかじかんだ手で開くと、小さな声でそういって、そっと音のしないように閉めた。窮屈な靴を脱ぎ捨て、日のまったく当たらない玄関に置き去りにする。小さく音楽がきこえてくる。静かに台所へのドアを開けると音楽が大きくなった。北側の窓からのしんみりした光といっしょに。青い林檎が三個転がっているテーブルを通り過ぎながら、ヒロシは胸が痛くなってしまう。こうして進んでいくことは、喜びであると同時に恐くもあったから。しかし、それはヒロシの習慣であり、そうしないではいられないのだ。
 ヒロシは目の前で閉ざされた襖の前で深く息を吸ってから、またもやそっと、癖のようにそっと開けた。いつもと同じように南側のカーテンはすべて閉めきってあった。襖を開けたせいでほんのりと照らし出されたその薄暗い部屋の中で、やはり母親は蒲団に包まれていた。音楽は彼女の枕元のラジカセから流れていた。バイオリンの音だとヒロシは知っていた。顔は見えない。髪だけが黒く、瓶詰にされた海草のように黒く見えている。ヒロシは母親が自然に起きてくれることを願ったが、どうも熟睡しているらしい。こうして光が入ってきたというのに、ぜんぜん動かない。黙っていたら、気づいてくれない。ヒロシはとうとう声を上げた。
「お母さん、ただいま」
「……」
 返事がなかった。
「お母さん、帰ってきたよ」
「うー……」
 獣に似た声がうめいた。ヒロシはおどおどしながら母親の部屋に足を踏み入れる。
「今日は眠れた?」
「ううん……眠った瞬間に、あんたが帰ってくるんだもん」
 母親は別に怒ってはいないのだが、眠たくてどうにもやりきれない、といった不機嫌な声でつぶやき、ヒロシのほうを見ようともしなかった。
「でも、三年生になったらもっと帰ってくるの遅くなるから大丈夫だよ」
「三年生って、まだあんた二年生になったばかりじゃない」
「え、そうだけど」
 母親はまだ枕に額をこすりつけていた。
「蒲団に入ってもいい?」
 子供らしくない遠慮がちな言い方で、ヒロシは尋ねた。
「えーっ。制服のままはやめてよ。さっさと服を着替えてちょうだい」
「それに手も洗ってきてよ」
 母親は不機嫌極まりないといった声でつけたした。
 やっぱり……別に汚れてなんかいないのに。
「はあい」
 しかし、ヒロシは返事して洗面所に走り、すぐに着替え始めた。四月の半ばで部屋は少し寒かった。シャツを脱ぐと痩せたヒロシの体に鳥肌ができた。彼は何よりも早く母親の蒲団に潜り込みたかった。
「着替えたよ。いい?」
 母親は眠たいのと、ヒロシの発音がはっきりしていないのとで、ヒロシが何を言ったのかうまくききとれなかった。それで枕に顔をなすりつけたまま、うめくように怒鳴った。
「着替えたの?」
「着替えたよっ。さっき言ったじゃないかあ」
 ヒロシは泣きそうになって、母親を非難した。
「ああ、はいはい。じゃあ入りな」
 ヒロシは靴下に包まれた足から順に、体を潜り込ませていった。あったかい。いいにおい。母親のにおい。シーツのしんなりした柔らかさ。しっとりと肌にまといついてくる柔らかさ。
「気持ちいいー」
 ヒロシは歌うように声を出し、心からそう思った。蒲団とお母さんのさわり心地は似ている……。
「ねえ、お母さん、今日の宿題、本読みだけ」
「ふうん、よかったじゃん」
「うん。ラッキー」
 ヒロシは足をばたばたさせて、母親を見た。まだ目を閉じている。黒く長い髪がからまって、唇の中に何本か入りそうだった。とってあげようと思って、ヒロシは髪を触った。髪をつまんだつもりだったが、母親の白い肌に触れてしまった。
「ちょっとお、やめてよお」
 母親は半ば笑いながら、半ば怒って、邪険にヒロシの手を振り払った。
「えーん」
 ヒロシはわざとらしいほど大きく泣き真似をした。母親に嘘泣きだとわかるように。本当に泣きたいとき、ヒロシは声をあげずに泣いた。「さめざめと」。だから注意していないとだれも気づかない。先生も、友達も、母親でさえも。
 ヒロシがもっと小さいとき、ヒロシが大声で長い間泣くと、母親はパニックに状態になり、ヒロシを拒絶し、ヒロシを憎んだので、ヒロシはいつのまにか、声を押し殺して泣くことが身についてしまっていた。
「あんたが急に触るからびっくりするんでしょ。お母さんはくすぐったいのが、苦手なんだから」
 ヒロシは黙った。言い訳や説明もせずに。沈黙。時計の音。また湧き起こる、淋しい気持ち。
 ヒロシは母親の腕を握れなかった。少し前まではそうしていたのだが。しかし母親は突然ヒロシの腕を強く抱きしめてきた。
「柔らかい。ヒロの腕は細くって、ふにゃふにゃで気持ちいい」
 ヒロシは泣きまねをした手前もあり、しばらくは頑なに体を強張らせていた。そうすると母親はさらに体を密着させてきた。最初、熱い息がヒロシの耳にかかって、もっと驚くほどに熱い唇が触れて、ヒロシがくすぐったさに身をすくめると、言葉が吹き込まれた。
「かわいい子。わたしの命」
 保育園の頃から、ヒロシを叱ったあと必ず、母親はそう言った。ずっと意味がわからなかった。でも今はもうわかる。

 母親に押し潰されそうになって、苦しくてヒロシはやっと笑った。むせかえるようにぎゅうぎゅうと、母と子は笑いながら抱きしめあっていた。
 ヒロシの中で、淋しい気持ちはどうしてだか、消えることはなかったけれど。

                                            (了