「オモチャのそばで」



 四時十分を過ぎた。私はさっきから会計を間違えてばかりだ。今日はこないのだろうか? あの子。何歳くらいだろう。小学二年生くらいかもしれない。顔は大きく丸く、体もがっしりしている。髪は黒々として太く量が多い。瞼がはれぼったいので一重の目は殴られたボクサーのようにもみえる。口はいつも堅く閉じられていて、笑った顔は見たことがない。一人でくるのだから、当たり前なのかもしれないが。私が気になるのは男の子の服がいつも薄汚れていることだった。それはレジにいてもはっきりとわかる。靴の全面に小さな穴が開いている。靴下ははいていない。トレーナーの裾からだらりと飛び出したシャツがトレードマークだ。
 体格のわりに、少年と呼ぶにはまだまだ幼くみえるその子は、ほとんどいつも同じ格好をして、四時過ぎになると、このオモチャ売り場に一人きりで現れる。けして買うことはない。見て、触って、五時を過ぎると帰ってゆく。
 平日の四時は客もまばらだ。そんななか毎日やってくる男の子を私はいつしか待つようになった。私はさりげなく彼に話しかけてみようと思ったこともあったのだが、できなかった。オモチャを見つめる彼の眼差しは厳しいといってもよく、私を惹きつけつつも、怯ませたのだ。
 それにしても私は、レジを打ちながら、パソコンに入力しながら、プレゼントの包装をしながら、昼食を取りながら、自分の休日のときでさえ、その子のことが心のどこかにいつもあった。頭ではなく、心のどこかに。今も、こうして会計をさんざん間違え、そのあいまに、ラッピングペーパーを整理しながら、くるはずの男の子を私は待っていた。


 今年は秋の深まりが例年になく早く、十一月半ばだというのに、冬がもうそこまできていた。デパートは、かなり前から冬物一色となっていた。
「ああらら」
 私は手を滑らせて、ラッピングペーパーをレジの外側に落っことしてしまった。慌ててそこらじゅうに飛び散ったきらびやかなつるつるした紙を拾っている最中に、私の手は一瞬止まった。足音……デパートの中に充満する数々の雑踏の中で、たった一つの足音だけを私は聞き分けている。足音はやはりこちらに近づいてきて、しゃがみこんだ私の付近で止まった。私はラッピングペーパーで顔を隠すようにして、おそらくそこにいるのであろう、待ちわびていた彼を見上げた。
 男の子は相変わらず裸足に穴の開いた靴を履き、汚れたトレーナーと綿の長ズボン姿でオモチャの前に立っていた。
 今流行りのオモチャだ。あのくらいの背丈の男の子が一日に何人も同じ物を買ってゆく。ベーゴマの現代版だと主任は言っていたけれど、みんなが買っていくのだから、たいていの子供が持っているのだろう。私は彼が恵まれた家庭の子ではないと勝手に判断していた。彼は幸せそうにはみえなかった。少なくとも、私が思い描く幸せにはそぐわなかった。だからこそ、私はこうして彼を見つめているのかもしれない。私は幼いころの、自分の家庭を顧みることをずっと前に放棄していたのだが、そのかわりに、男の子の家庭を、それがどんな形であれ、必ず存在するであろう彼の家庭へと、導かれ、連れてゆかれる気がしてならなかった。常に右肩だけが少し上がった幼い姿の、帰ってゆく場所へと。




 次の日の朝は、横殴りのひどい雨だった。デパートの中は夏を除けばたいていいつも同じ温度に保たれていて、外がどうなっているのかウィンドーから覗きでもしない限りまったくわからない。ただデパートの中を歩く人たちの手に、濡れたままの傘が握られていたり、洋服をハンカチで拭いたりしている人を見て、まだ天気が回復していないことを知ることはできる。それに雨の日は客が少ない。昼食を取ったあとしばらくはあまりにも暇なので、デパートに流れるBGMに揺られながら、立ったままで眠ってしまいそうになった。しかし、三時ともなると、たちまち心が動きはじめる。何回時計を見ただろう。今やっと、三時五十分を回った。もうすぐあの子がやってくるのだ。

「お母さん、これ買ってもいい?」
「えー、またあ……いくつ買えば気がすむの」
 声に華やぎがあった。私は声の持主の方を見やった。
 若く美しい女性が、ひどく人目を惹く、ハーフのような顔つきをした子供の手を握って歩いてきた。もう一方の手には高そうな紺色の傘を握っている。子供は母親の手触りのよさそうなコートにすがりつくようにして歩いていた。真っ白なトレーナーに軽そうな緑のパーカーをはおり、ストレートのブルージーンズが細く真っ直ぐなその子の足を際立たせていた。
 肌の色が驚くほどに白い。しかし頬は薔薇色に染まっている。薄い唇の色は真っ赤で、一つ一つが花びらのように繊細にできている。二人はオモチャ売り場の中へ入ってきてすぐ止まった。
「じゃあ、早く選んで。お母さんちょっと、おトイレ行ってくるからね。お父さんもここにくることになってるから、ずっとここにいてちょうだい」
「うん。わかった」
 子供は首を縦に振りながら素直に返事し、例のベーゴマを進化させたオモチャの前に急いで来ると、真剣な表情で見つめはじめた。私はその子があまりにもかわいらしく、非の打ち所がないのに驚いてしまっていた。こんな綺麗な子供、見たことがない。母親は美しいが、日本人にしか見えなかった。父親が外人なのだろうか。瞳は黒い。しかし、髪は羽のように柔らかそうで、非常に明るい栗色をしている。染めたのでないことは一目でわかった。あくまでも自然に、こっくりと彼の髪は輝いていた。鼻はこぢんまりとして適度な高さを保ち、顎がすっとして、その分頬のかすかなふくらみがよけいに愛らしい。本当に天使のようだ。私は目が離せなかった。
 しばらくして、私は異様な事態が起こっていることに気づいた。目の前に前触れもなく現れた天使のせいで、完全に時間を忘れていたのだ。私が待っていたのは、今駆け込んできた、薄汚い格好をした男の子の方だったのに。髪がかなり濡れていた。黒い毛がべったりとしてゴミ箱をあさるカラスの羽のようだった。私はやっと今四時であることに気づいた。そして二人は並んだのだ。男の子は駆け込んできたスピードを緩めず、いくぶん強引に、天使を押しのけるようにしていつも自分がいる位置を確保した。天使はびっくりした顔をして、となりに立った男の子をチラリと見たが、またすぐオモチャを触りはじめた。私はハラハラしていた。彼らは言葉もないまま、互いに緊張をはりめぐらしているようにみえた。
「バルカンUかスパイクリザード。バルカンUかスパイクリザード」
 突然、天使は小鳥が囀るようにその言葉を繰り返しはじめた。澄み切った声だった。男の子はまじまじと天使を見た。
「おまえ、ウルボーグ知ってるか?」
 我慢しきれなくなったような、威圧的な、挑戦する者の声音が天使に投げつけられた。
「うん。僕だいたい持ってるよ。タカヒロ君は全部なくしちゃったけどね」
「だれ、それ」
「えっ。僕の学校の友達だよ」
「……オレもウルボーグ持ってるぜ」
 男の子は前をむいてそう言った。嘘だとわかった。私は自分の身が引き裂かれてゆくような気がした。
「ベイブレードのスタジアムに磁石がついているやつあるよ」
「ほんとか?」
 まったく仕事にならない私を尻目に、彼らは五分とたたないうちに、勢いづいてにぎやかに話しはじめた。子供らしく無邪気な声を響かせて。


「恭平。お母さんはどこ行った?」
「あ、お父さん」
 恭平という名の天使は、近づいてくる父親を見て、こぼれるような笑みをみせた。うっすらと広がった唇のすぐそばには笑窪ができていた。こうして微笑んだ彼にはどれほどかわいらしい女の子でも、たちうちできやしないだろう。
「お母さんはおトイレだよ」
「そうか」
 父親の顔立ちも彫が深いが、やはり外人には見えなかった。おそらく両親の良いところを全部合わせてできあがったのだろう。母親からは、そのすっとした顎と、整った鼻筋。肌の白さと髪の美しさを。父親からは、大きな印象的な瞳(父親の方は多少大きすぎて、それが欠点にさえなっていたのだが)力強い眉、賢そうな額と薄い唇を。
「早く選べよ。どれか一つだけだぞ」
「わかってるよ」
 天使は口を尖らせた。そして体をバタバタさせながら必死で選びはじめた。こうして、すぐそばで会話をする父と子を、ひとりぼっちの男の子はくいいるように見ていた。不躾なほどにじっと。


「決まった?」
 母親が駆け足でその場に飛び込んできた。
「あ、お母さんやっと帰ってきた」
「遅かったね」
「ごめん。買い忘れた物があったから、一階まで降りてたの」
「ヒデ、いいスーツあった?」
 母親は父親に向かってきく。
「うーん、いまいち。一応買ったけどな」
「恭平は、決まったの?」
「まだ」
「ちょっと、家に着くの遅くなっちゃう。早く決めてよお、恭平」
 母親はケタケタと笑った。なんとなく私はその笑い方に腹がたった。
「だって決まらないんだもん」
「こらあ、早くしないとお父さんがおしりペンペンだぞお」
 さんざん迷ったあげく、天使は決めた。千五百円のオモチャをラックからはずすと、母親と私のいるレジに向かって歩きはじめた。そのとき、私は恥ずかしさに真っ赤になった。そばにいた男の子もいっしょに動いたのだ。まるで兄弟のように。自分も買ってもらえる資格があるとでもいわんばかりに。
 母親は驚いた顔をして、すぐ後ろからついてくるその子をすばやく見た。そしてだれにもわかるほど眉を思い切りひそめてから、我が子の肩をきつく引き寄せた。輝くばかりのダイアモンドによって飾られた、手入れの行き届いた完璧な指で。ついてきた男の子は、黙ったまま今、レジで行われているすべてを見上げていた。私は数字を打ち込みながら、自分の無骨な、でこぼこした太い指が震えるのを必死で隠さねばならなかった。
「さ、帰ろう」
 母親は私の手からレシートとお釣りを受け取ると、すぐさまその身をオモチャ売り場の外へ向けて高らかと言い放った。
「じゃあ、帰ろうか。満足したろ、恭平」
 父親は自分の子の頭を後ろからぽんと軽く叩いた。三人はエスカレーターの方へ進んでいった。
 レジの前に置き去りにされた男の子の目が、天使の握った紫色の袋に注がれていた。天使は親に引きずられるようにオモチャ売り場を出ようとしていた。何度も残された男の子の方を振り返りながら。
「ばいばい」
 下りエスカレーターの手前で、天使は突然母親の手を振り払うと、袋を握り締めていない方の手をふって、少年にむかってさよならをした。母親は力を込めて、すぐにその手をつつんでしまった。
 男の子は何も言わず、ほんの少し、手を上げた。


 完全に彼らの姿がみえなくなると、デパートのBGMが急にしらじらと、大きくなったように感じた。男の子は私の前で一人突っ立っていたが、私が見ていることに気づくと、ふてくされたように、しかし、かすかに笑みのようなものを浮かべて、さっきまで天使がいたオモチャのそばへもう一度近づいていった。                                                       

                                        (了)