「秋の日」



「いやん、清美い、それはしゅんちゃんに残してあったのにい」
 母親の悲鳴に似た声がいきなり飛んできて、清美はスプーンをおっことしてしまう。慌てて拾いながら、とっさにいいわけを考える。
「だって、おなかすいてたんだもん」
「なにいってるのよお。あんたは昨日いっぱい食べたじゃないの。もおー」
「もおーって、牛か」
「ほんとに、あんたって子は油断も隙もないんだから。しゅんちゃん今遊びにいってるから、帰ってくるまでに片づけておきなさいよ。あの子空になったプリンのカップ見たら泣きわめくわよ」
 ほろ苦いカラメルの味がまだ口の中に残って糸をひいていた。清美は学校から帰ってくるとすぐ、いつもの癖で冷蔵庫を開け、ずいぶん奥に隠すように置いてあった、黄金色のカップに入ったラスト一個のプリンを食べてしまうと、スプーンを握りしめたまま母親の手作りの味に浸っていたのだ。確かに俊介の分のプリンを食べたのはいけなかった。昨日俊介が「僕明日また食べたいから残しとく」といった声をしっかりと清美はきいていたのだから。
――だけど、なんだ、あの悔しがりようは。
 清美は黙ってカップを洗ったものの、ムカムカする気持ちを抑えられず、音をたてて階段を駆け上がり、自分の部屋へ飛び込んだ。
 清美は蝶結びにされた、えんじ色のネクタイを剥ぎ取り、胸のボタンをブチブチ毟り取ると、両手を機関銃のように突き出してセーラー服を脱ぎ捨てた。そしてベッドの上に体を投げ出す。清美は六つも年齢の離れている俊介をかわいがってはいた。ただ、母親が俊介のことばかりを口にするのには、我慢ならなかった。子供っぽいと思いながらも腹がたってしかたない。

「あーあ、しゅんちゃんしゅんちゃんって、なにあれ。ばっかじゃねーの」
 清美はクラスの子のマネをして、わざと下品にそういうと、ものすごい速さでベッドから起き上がり、ジーパンと赤いトレーナーに着替え、この間買ってもらったばかりのカーキ色の軽いコートに腕を通しながら、宿題も予習も復習もなにもかもをうっちゃって、部屋を出た。母親になにも告げず、薄紫色の自転車に飛乗ると、彼女は家の前のなだらかな坂をすべっていった。風のせいで全開になるおでこを押さえながら。母親のいる家は清美の背後でどんどん小さくなってゆく。

 こうして風をきって走っていると、季節を追い抜いていけるような気がしてしまう。でも清美は知っている。自分にはなんの力もないことを。
 空が高い。絵に描きたくなるような白い雲は群れをなし、ときおり黒い流れ星のように鳥が突っ切ってゆく。この空、雲、空気、光、風……清美は線路際を一面に覆ったすすきの穂をみつめながら不思議になる。どうして秋はなにもかもが遠くに思えるんだろう。こんなに近くに、こんなにそばにあたしはいるのに。

 キンモクセイの香りがむせるほどに匂い立つ、いつもの場所にやってくると、できるかぎりのにおいを吸い込もうとして、清美は大きく上を向いて自転車をこいだ。すると、つーんと鼻の奥が痛くなって、つきぬけるような淋しさを感じた。
 最近学校ではいやなことばかりおきる。友達ともうまくいってなかった。だからといって清美は、母親にも父親にも、そんなこと話たりしなかった。
――きっと、お母さんもお父さんもわかってはくれない。善良だから、大人だから、わからないことなんて、いっぱいあるんだ……


 清美は無意識のうちに自分が、幼馴染の陽子ちゃんの家へむかっていることに気づいていた。久しぶりだった。そして猛烈に会いたかった。陽子ちゃんは清美と同い年だとは思えないほど落ち着きがあって、怒ったり、泣いたりといった感情をめったに表面には表さない、大人びた子供だった。だれにでもいつも優しくて、お姉さん的な存在だといえた。彼女の母親は、彼女が小学三年生のときに、癌でなくなってしまっていた。清美はお葬式で見た。陽子ちゃんが、年の離れたお姉ちゃんに肩を抱かれて、何度も何度も手の甲で涙を拭っていた姿を。黒い服を着た大人たちの一番むこうで。
 清美はいつからかはわからないが、陽子ちゃんに気づかれないようにじっと彼女の顔を観察してしまうことがあった。遊んでいるときでも、勉強しているときでも。それは彼女にどこか、生気といったものが足りないような感じがしてならないからなのだが……
 清美は陽子ちゃんが友達の中で一番好きだったから、ときおり彼女を独り占めできたらと狂おしく思うときがあった。陽子ちゃんはその気持ちを拒絶するわけではないが、すいすい泳いでどこかへ流れていってしまう。清美が陽子ちゃんをつかまえることは、けしてできなかった。どれほど長く、どれほどいっしょに遊んでいても。
 それでも仲が良いことにかわりはなかったのだが、中学生になったとたん、二人は急激に疎遠になってしまった。クラスが別々だったし、互いに新しい友達ができてしまったのが原因かもしれない。でも、清美はもっと明白なわけがあることに、うすうす感づいてはいた。陽子ちゃんはけして自分を求めたりしないという残酷な現実に。

「会いたいなあ」
 自転車で川辺を走りながら、清美はせつなさを抑えられず声にだしてしまう。マリア様に似ていたお母さんはもういないけれど、頼りになるお兄ちゃん、優しくてふっくらとしたお姉ちゃんのいる、あの、きれいなおうち。清美は幻をみるように陽子ちゃんの家を瞼にうつしていた。
 久しぶりといっても会っていない期間は三ヶ月くらいなのだから、彼女の家はどこもかわらず、川のすぐそばに端正な姿のまま建っていた。清美は昔と同じようにレースのカーテンがひかれた大きな窓を見やりながら、珊瑚の置物やステレオセット、小さいころそこで何回も飛び跳ねて遊んだ、革張りのつるつるしたソファの並んだ応接間と、冬になると必ずごちそうになったホットカルピスの甘さに、いますぐ邂逅できる期待で胸がいっぱいになった。
 自転車を塀のそばにとめて、玄関前の石畳に続いている、四段の階段をかけあがる。「大島」……いざ表札の前に立ってみると、鼓動がどっと押し寄せてきた。しかし、このときまで彼女は陽子ちゃんに会って話しができることを疑ってはいなかった。
 清美の指が音符のマークがついた白いチャイムを押した。心臓の音が最高潮に達すると同時にガラガラと引き戸が開けられて、陽子ちゃんが灰色のタイルの上に現れた。
 彼女は緑色のチェックのワンピースを着ていて、あいかわらずサラサラのおかっぱ頭のまま、清美を見た。
「あっ、清美ちゃん」
 陽子ちゃんはかなり驚いたような声で言った。それでも、それはやはり物静かな、年老いたといってもいいような声音だった。清美は懐かしさに胸がしめつけられた。そしてすぐに不安になった。陽子ちゃんの顔はみるみるうちに暗く沈んでいったから。そして彼女は気の毒なほど遠慮がちに言った。
「なに?」

 遠慮がちでも、年寄りみたいな枯れた声でも、「なに?」といわれたことには違いなかった……清美は屈辱で自分の顔が曲がってしまうような気がした。とっさに目線を下に落として陽子ちゃんの履いている、おそらくお兄ちゃんの物であろう干物のようなサンダルを見た。昔なら、「入りな」といってくれた。いつも。必ず。どんなときも。
「いっしょに遊ばない?」
 なんとかそう言ったものの、あまりにも深く打ちのめされて、もう清美は断られることの恐怖感さえ失っていた。そしてそれははずれたりしなかった。
「ごめん、今日だめなの。もうすぐクラスの友達くるから」
「じゃあ、あたしも仲間に入れてよ」……小学生までだったら、意地になって清美はそう言っただろう。そして陽子ちゃんは断りきれなかったろう。だけど、今は言わなかった。今できることは、明るく振舞うことだ。同情されないように。
「ふうん。じゃ、またね」 
「うん、ごめんな」
 陽子ちゃんは青ざめた顔色で玄関に突っ立って、清美が帰ってゆくのを見ていた。
――いまにも死にそうな顔をしている。
 ハンドルに手をかけて、ようやく顔を上げて、陽子ちゃんを見上げた清美はそう思った。二人は力なく手をふった。清美にはそれが永遠の別れのように感じられるのだった。

 泣きたくなる気持ちをなんとか抑えながら、清美はお尻を突き出して、ペダルを思い切り踏みしめると、向かい風になったアスファルトの道を全力でこぎ始めた。


 気づいたとき、清美は神社の近くにいた。なぜか胸騒ぎがした。思いっきりこぎすぎたせいだろうか? 高らかに重なって子供の声がきこえてくる。清美はペダルに足をのせたまま、こぐのを休んでいたが、自転車は惰性で、すべるように前へ進んでいった。声はどんどん大きくなってきて、そのうち、神社の鳥居のすぐそばにある松の木の根元に、幾人かの男の子が見えてきた。声はあの子たちのものだった。清美はぎょっとしてしまう。六人くらいの男の子たちに囲まれて木の上ではやしたてられているのは弟の俊介だった。
「おーい。早くおりてこいよお」
「なにやってんだよっ。こわがりー。弱虫い」
「もっと上までのぼってみろよ。猿う」
 清美はとっさに弟を助けなければと思ったのだが、反面、自分がそこにいることを気づかれるのがとてつもなく恐ろしかった。だれにも気づかれないうちに早く立ち去ってしまいたかった。だいたい俊介はどうしてあんなところにのぼったりしたんだろう。バカなやつ。
 鼓動が早まる。木の下にいる男の子たちは、自分よりも年下だった。小学四、五年くらいだろう。近所の子ではないらしい。知った顔はいない。
 声を出したかった。「やめなよ」と一声でも。しかし、気持ちとは裏腹に清美はペダルに右足をかけた。逃げよう。放っておいたって、そのうちあの子たちも帰るだろう。引き返そうと思いながらも、枝分かれした木の幹に横になってしがみついている俊介から目が離せなかった。俊介は泣いてなかった。言い返しもしない。ひっきりなしにはやしたてる男の子たちを不安そうに見下ろしているだけだ。風がひゅんと音をたてて、清美の耳をかすめていった。
――お母さんを独り占めする罰だ。
 そう思って清美は左足を蹴り上げた。そのとたん、俊介が清美に気づいた。俊介は黙っていたが、姉の瞳を驚いた顔をして見つめた。切実さが色白な俊介の顔をいっそう幼く見せていた。清美は赤ん坊のように首だけをぐっと上にもたげ、自分を見ている弟の姿を、枝の上でむきだしにされた手の、人間のもつ肌の色を、幹にくいこむような生きた指の形を、見てしまったのだ。

 時が止まっていた。清美は口を開けた。
「ちょっとあんたたち、なにやってるのよ!」
 こうして言葉を吐いてしまっても、彼女は自分が本当にそう言ったことが信じられなかった。喉がからからに乾ききっており、口の中がしびれているおぞましい感触が、なにかとりかえしのつかないことをやってしまったような気にさせてはいたが。
 清美は自転車のハンドルを強く握りしめながら吼えたのだ。弟を虐げる者たちにむかって。彼女はできるかぎり恐い目をして、男の子たちを睨みつけていた。
 男の子たちは一瞬にして清美の方を振り返り、静かになったかと思うと、なにかつぶやいて笑ったあと、いっせいに階段を駆け下り、ばらばらになって自転車に飛乗った。風はまだ声変わりさえしていない、猿のような彼らの声と、乾いた足音を一吹きで蹴散らしてしまった。

 清美はあまりにもあっけなく危機が去っていったことに半ば驚きながら、自転車をやっと降りると、まだ木の上にいる俊介にむかって言った。
「大丈夫?」
 自分の声が震えていたので、清美はまたもびっくりした。
「うん」
 俊介は強張った笑顔で照れたように言いながらするする降りてきた。やはり彼らが恐かっただけなのだ。降りることくらいこの子には簡単だったのに。清美は小さな足音をたてて黒い地面に舞い降りた俊介の肩をぎゅっとつかんで、そのあと彼の手を握りしめた。二人は手をつないで、鳥居に続く、でこぼこした石の階段を一段飛ばしにおりていった。
「後ろ、乗る?」
「うん」
 俊介は荷台に乗ると、清美の両腰をつかんだ。
「いくよ」
「うん」
 二人乗りなんて、ずいぶんしていなかった。俊介はいつのまにかかなり重たくなっていて、ペダルを踏み込むのにもぐっと力がかかる。
 家に続くなだらかな長い坂道のずっとむこうに、夕陽が黄金色に輝いて雲の下の方を不思議な光で満たしていた。
「うわあ、お姉ちゃん、光がむかってくるよ」
「よし、こっちから突撃しよう」
「いけえ」
 清美は体を思いっきり前のめりにして、夕陽に向かって懸命に進みながら、湧き起こる誇らしい喜びに、唇をわざと噛みしめていた。

                                            (了)