トロイ、補筆


映画と神話のちがいについて、藤縄謙三「ホメロスの世界」を読んだのでちょっと修正。そもそもギリシャ神話そのものが、まだよく分かっていないだが、とりあえず「イリアス」については学習した。

まず「イリアス」は10年間続いたトロイヤ戦争(考古学的には紀元前1250年頃の話らしい)の最後の50日間くらいのことを物語っているだけらしい。アキレウスが前線を離れる契機となったアガメムノンとの喧嘩から物語がはじまり、ヘクトルの遺体をプリアモスが引き取って終わるらしい。

え、そうなの? アキレウス物語なの? 集約された場面で全体を語るって結構映画的じゃない?



アキレウスの残忍性
アキレウスは当時の英雄として語られるが、この時代の英雄は戦士であることが最大の条件らしい。国王たちもみな勇敢な戦士として名を馳せた者ばかりだそうだ。アガメムノンはギリシャ中でもっとも強大な国の王であるという政治的・階級的権威のなかにあるが、アキレウスはただの戦士にすぎない。そして戦士が名を立てるのはその武勇によってしかなく、実際そうしてきた。さらにアキレウスは激しい感情の持ち主でありがらも純粋さを持ちあわせる。アキレウスは残忍な戦士という印象を与えてくれた映画「トロイ」は正しい。

アキレウスの狂乱
アキレウスは親友パトロクロスの死後に狂乱し、復讐の鬼と化したのは正しい。

ヘレネ
トロイヤ戦争の発端となった美貌のヘレネについて様々な解釈があるらしい。もともと豊穣の女神としてギリシャのあちこちで祭られていたらしい。特にスパルタでは重要な女神だったらしい。トロイヤ戦争のヘレネは、原始的信仰の女神とトロイヤ戦争の原因となった女性が混同されたとのこと。その際、ヘレネを悪女として描くと吟遊詩人たちはたたりを受けて盲目になるらしい。ヘレネは善悪を超越した不滅の美の神であり、おかした過ちのために罰をうけることもないのである。だからこそヘレネを描くときには細心の注意が必要で、ホメロスはヘレネの身体的美貌に関しては1回しか描写してないものの、むしろ精神の美しさ、性格の高貴さを描いた。つまり悪女として扱っていない。けども、駆け落ちしたことは明確に描いたので神罰を受け盲目になったらしい。それいにしても、ヘレネの精神的美しさに関する描写は映画にはなかったように思う。

メネラオス
「イリアス」における言動から推察するに大音声を発する単なる無骨者だったらしく、映画の印象どおり。知的なヘレネには夫への不満があった。映画でも単なる無骨者である。

ヘクトル
勇気と責任感が傑出したトロイヤ軍最高の指揮官だが、自分がおかした戦略上のミスから窮地に陥り、アキレウスとの一騎打ちをせざるをえなくなったらしい。だから最初は恐怖心から逃げまどう。

パリス
兄ヘクトルからも、美貌なだけで卑怯者と非難されている。ヘレネはこの戦争に対する自分の責任を痛ましいほど強く感じているが、パリスはまったく感じていない。映画のパリスは、最後に勇敢にしんがりを努めて退却するが、あれはオーランド・ブルーム・ファンへのサービスか。もっとヘタレでよい。

戦争の大義名分
全ギリシャから戦力があつまるのはヘレネ奪還の忠誠を実現するためで、その逸話がないと大義名分がないと前回書いたが、ホメロスもヘレネへの求婚者たちの誓約のためとは述べていないらしい。誓約のことはアポロドロスが伝説としてまとめている。ツキュディデスは、むしろアガメムノンの勢力が卓越していたためとしている。しかし当時、各地の国王は血縁や客友関係によって個人的交際をしており、友情や義理によって統合を達成できたらしい。アキレウスがアガメムノンに対してトロイヤまで部下を連れて来たのは「お前を喜ばすため」と言っている。つまり、ヘーゲルが言うように「この統一は外部からの強制なしに成功したものであり、各々の自発的意志による」らしい。要はギリシャはトロイヤを軍事的に侵略しに行ったわけで、トロイヤ侵略の野望をもつアガメムノンのもとに皆が集散した映画の設定は正しいようだ。

前回の感想の末文にも書いたが、あくまでも神話であり、いろいろな伝承があるから、正しい物語というのはないのかもしれない。物語にいろいろな解釈をあたえて新しい物語を創りだすのもよい。神話的伝説を人間のドラマとするのもよい。ここでは前回感じた神話とのちがいを、ホメロスの作品を検証することで考察しなおし、必ずしも映画の設定がおかしくないことが理解できた。それでも映画としての「トロイ」は失敗していると思うのは変わらない。


土 - 8 月 27, 2005   08:35 午後