人間存在研究

人間とは何か―その本質は言葉である

――言葉、アイデア、イデオロギーが世界を変える――

言語・観念・思想の力で人間と社会の変革をめざそう東西思想を超えて人類の哲学を創造しよう!

by the Life-wordsTheory    to our Reserch for HUMANBEING

Human Being Institute
人間存在研究所

人間とは何か.もっとよく知ろう、自然、生命、人間、言語、心理

6. 西洋的思考様式の意義と限界

世界は私たちには論理的なものと見える。というのは、私たちがまずもって世界を論理化しておいたからである。   

(ニーチェ『権力への意志』)

 西洋的思考様式(合理主義)において、言語はどのように理解されてきたか。
古代ギリシアにおける神話(mythos)は、その原義を問えば「言葉」を意味する。言葉は神々の物語となり「神話」となる。ギリシアにとって人間の口から出る「言葉」は、人間の感情や行動を支配し人為を超えるものである。なぜか?私たちはその根源を、「言葉による人間存在の合理化」、そして「合理化による感情・行動支配」にあると考える。

 西洋的思考様式の典型的特色は2つある。一つは文法的な他動詞中心主義と再帰的用法(中道態)であり、他の一つは欲求や感情(喜怒哀楽)を中心とする無意識の他者依存的合理化である。
われわれは両者を「言語論の革新」という立場から説明してみる。この理解のためには「生命言語理論」が道具として使われる。以下の説明の理解のために、まず生命言語理論の概要を参照されることを奨めます。

西洋合理主義によって増幅・助長された近代西洋の対立構造(弁証法、科学的認識、利己的互恵市場、進歩主義的生存競争、二元論的宗教)を越えて、人間的無意識(欲望・感情)と社会経済の暴走を抑制・コントロールできるのは、合理主義を生み出した言語・知識の力による以外ない。
人間の経済活動(ミクロ・マクロ経済)の調整・コントロールも言語の意義の理解、すなわち人間と社会についての本質的理解が前提となる。
そしてそのためには、まず、言語の伝達的機能だけでなく認識論的機能について理解する必要がある。




<西洋における再帰的用法の意味>

 再帰動詞は、西洋語の他動詞中心主義に由来している。他動詞は目的語をとるがこの目的語が、主語となる動作主と同一である場合(例えば、ドイツ語でEr setzt sichauf die Bank. 彼は自分をベンチに座らせる→彼はベンチに座る )受動的自動詞となる。
これは受動態(Er wird auf die Bank von ihm sitzt.)にはなっていないが、動作の目的語自体(sich 自分)が主体( Er 彼)によって目的とされるので受動的な扱いを受けている。
そこで古代印欧語では、能動と受動の中間的表現として中動(中間)態となったのである。

印欧諸語の一般的発展において比較言語学者たちが久しい以前から確定したところでは、受動態は、中動態の一様相であり、後者から発生したもので、別の範疇として成立してからもこれとは密接な関係を保ち続けてきた。つまり印欧語における動詞の状態を特徴づけているのは、伝統的呼称で能動態および中動と呼ばれる二つの態だけの対立なのである。」

(バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』岸本監訳 みすず書房)

 ここで重要な点は、なぜ動作主(主語)が、自らを目的語として対象化したかという点である。我々の立場からは、西洋語の表現様式(それは同時に思考様式でもある)の特徴 は、主体を対象化ないし目的化することによって、主体自体の存在を客体化し、そ れによって主体自体の思考や判断(の自覚)を軽視することにつながっているという ことである。
「主体が主体自身を操作する(自分が自分をベンチに座らせる)」とはどういうことなのか。なぜ「主体が動作する(自分はベンチに座る)」という自動詞で表現しなかったのか。
単純に考える人は、動作主は主語として存在している、というかもしれない。しかし主体は主語と目的語に分離(分裂)しているのである。この点が最も重要である。
 主体は客体化されることによって、実は統一性を奪われているのである。表現の対象となっている人間を、主体と客体に分断することによって、主体自体の個体性を放棄しているのである。
これは、西洋的思考が、対象的(客観的)自然を対象化するのと同じように、主体自身をも対象化するという西洋的思考の伝統(慣用)に由来している。

 この背景としては二つのことが考えられる。一つは、自然と対峙することが、自然と調和するのではなく、絶対的な(と考えられた)第三者(神々)を想定し、それ(It,Es)に判断させることが、主体自身をも対象化することになったということ。
主体自身が判断の主体であるにもかかわらず、またそれゆえに、自然の構成員として自然的対象に責任を持たせなければならないにも関わらず、主体自身の存在を第三者によって合理化するという思考様式が、他動詞と再帰代名詞による自動詞的表現を可能にしたのである。
他の一つは、一つめの要因と深く結びついているが、アリストテレスが『形而上学』で指摘する「対象をそれ自体として把握する」知的認識態度である。ギリシア的思考態度は人間の価値判断の根源となる情動や感情をも対象化する。

 これはホメロスの叙事詩に頻出する言語表現であり、愛や怒りなどの激情を人間の判断から分離し、それらの感情を主体とする精神的態度である。
 これら二つの精神的態度は、科学的精神の源泉ではあるが、同時に人間の個体的全体性としての主体性を崩壊させる源泉でもある。
このような精神的態度によって人間主体を分断(分離)的に言語化(表現)することは、絶対的な神の存在を前提としてのみ可能である。しかし、神の存在を喪失するとき(古代においては神とは言語logosそのものでもある)、人間存在の依拠する前提をも喪失するのである。

「神は死んだ」と喝破したニーチェは、このことを最もよく見抜くことができた。しかし、彼は、神亡き後の「超人」を創造しようとしたが、普遍的人間としての主体を統一することはできなかった。彼は、人間存在の悲劇性を、自ら人格の統合に失敗することによって実証することになった。
 ハイデッガーはどうしたのか。人間存在を時間的有限性によって規定しようとした。しかし彼は、みずからが規定するべき主体(生命)の確立を見通せぬまま失敗した。
 人間存在の本質である言語表現の意義を見抜けぬままに、西洋的思考方法の根拠を確立しようとしたためである。言語表現すなわち思考と判断の主体は人間自身である。
人間は、言語論理的(哲学的)に自らを対象化(=再帰化)することによってだけでは把握しきれない存在なのである。

<西洋思想の一つの基調としてのホメロス>

 へーゲルが"人間が空気の中に生きる、という意味での、ギリシャ世界が生きるための要素は、ホメロスである。”(「歴史哲学」武市訳 岩波書店)と言っているように、ホメロスは、ギリシア的な思考様式を、その最も素朴な姿で我々に示してくれる。
ここで我々がホメロスを問題とするのは、トロイ戦争を素材とした「イリアス」と「オデッセウス」の長篇の叙事詩において、ギリシア人が感じ把えた人間の姿を知ることができる限りにおいてのものである。
我々はこれらの叙事詩において、ホメロス個人の才能を越えた、ギリシャ民族のみならず西洋思想の根源における人間存在の在り方をみることができる。

ギリシャ的思考様式を支配している原則は、アリストテレスが自己分析しているように、自己の感情を離れて、対象をそれ自体として把える(『形而上学』)ということであった。
ホメロスにおける対象は、人間の世界である。しかし単なる人問の世界ではない。それは、神々に対置せられた意味での人間の世界である。
ホメロスにおいて人間は、「不死の神々」「さきわ(幸)う神々」の意図や気まぐれに翻弄されて、死や禍や心の迷いさえも甘受しなげればならない受身の存在である。

この地上で息をし、動くかぎりのすべてのものの中で、人間ぐらい脆いものはない・・・・・。
地上の人間の心というものは、人間と神々の父〔ゼウス〕が、その日その日に下されるさまによるのだ。

(『オデッセイア』18-130高津訳 岩波書店)

 

トロイ戦争のそもそもの発端は、三人の女神(ヘラ、アテナ、アフロディテ)の美女競争であり、アフロデイテを選んだトロイ王の息子パリスが、彼女の援助によってスパルタのメネラオス王の妃ヘレナを奪ってしまったことにある。
このように、神々のドラマを、虚構としてではあるが、対置することによって、人間の行動と判断をまったく相対化してしまうところに、ギリシャ的思考の自由さと、合理的態度がみられるのである。

すべては神の意図によるのだから、「死すべき人間」「禍多き人間」の所業に不可思議さはまったくない。人間の存在をまったく完全な「神」の意図に合理化しえたところに「自由」な思考態度が可能になるのである。
しかし同時に、この自由な思考態度の裏には、人間の思考を神の思考に解消し、現実に生きる人間の主体的判断を軽視する態度(人生の重みを情緒的な深みにおいて捉えず、神の名において合理化する思考態度)が潜んでいることが忘れられてはならない。
人は、それはすべての神話的世界観においてみられることではないか、と反論されるかも知れない。しかし、私はその情緒的なレベルにおける質の違いを指摘したいのである。

さて、具体的に神々の談合の様子をみてみよう。「脚の素早い」アキレウスと「武夫(モノノフ)を殺す」ヘクトールの対決における場面で、アキレウスの優勢を見た「人間と神々の御父」ゼウスが言う。

さあ皆で、神々たちよ、よく思案してはからってくれ。あの男[ヘクトール〕 を死なず 助けたものか、それとも最早、勇士とはいえ、ぺーレウスの子のアキレウスに引き渡し、 討たせたものかを。 それに向って今度は、燦めく眼の女神アテネーがいわれるよう。  まあ、輝く雷霆(ハタタ)の、黒雲を駆る御父君が何と言われます。死ぬ筈の人 間の身 で、もう疾うから死の運命に決っているのを、復た、悪(オゾ)ましい嘆 きの「死」から、引 き放そうとお望みでしょうか。

(『イリアース』22-70 呉茂一訳 岩波書店)

そして、アキレウスは、女神アテネーの援助によって、ヘクトールの命を奪う。 
また、ホメロスにおける際立った特色の他の例は、事実の残酷なまでに冷静な抽写である。前の引用に続く所、アキレウスは青銅の鎧につつまれたヘクトールの”何処が一番突き易そうかと、美事な肌肉を眺めるうち

鎖骨が肩から咽喉を、分つところだけ露われていた、生命を失すに、最も手 速い箇 所と知られる、喉笛が。そこを目懸け、勢込んで向って来るのへ、勇ま しいアキレウス が槍を突込む、その穂先がずっぷり柔い喉を貫けて徹った。

(同上、22-320)

また、アキレウスが、倒したヘクトールを憎しみに燃えて戦車で引きづる時の描写では、・・・・。

両方の脚の後ろ方に、踵が上から足の附根へ、腱のところに穴を穿って、牛 皮づくり の細紐をそれへ結いつけ、二人乗車の後へ繋いで、頭を引き擦られる のに任せた。こう してヘクトールの頭はすっかり塵に塗れた、それを眺める母 親は、髪をむしってつややか な被布(カツギ)を遠くへかなぐり捨て、息子の姿を 見るからに、とても劇しく泣きじゃくった。 

(同上、22-290)

このような抽写は、自由な精神として、主観的な感情から独立する態度なくして容易にできるものではない。そしてこのように対象をあるがままに観照しえるのは、ギリシャ人の合理的・科学的精神として特筆さるべきものなのである。

ギリシャ人こそ、精神が自分の中に深く沈潜し、それぞれの特殊性〔情緒的 多様性!〕 に打ち勝ち、以て自分自身を解放することによって、これらのそれ ぞれの要素(ペルシア 人の光の原理、フェニキア人の勤勉と勇気、エジプト人 の内面的衝動等の特殊性)に、は じめて一貫性を与えることのできた民族だと 云わねぼならない。

(『歴史哲学』前出380頁)

また、人間の感情ないし心の動きを把える仕方も、ギリシア人に特有の、冷静な概念(言語)的把握がなされる。復讐の前夜、オデッセウスが求婚者たちに禍いをたくらみながら横になっている時のくだり、・・・・。

この悪業に胸内は煮えくり返ってうなり声をたてた。しかしかれは胸を叩い て、心臓を 叱った。「我慢しろ心よ。狂暴なキュクロープスが、遅ましい仲間 の者たちを喰ったその日 には、もっとひどいことを我慢したではたいか。もう 駄目だと思っていたおまえを、おまえの 知恵が岩屋から外に出してくれるまで、 おまえはじっと忍んだのだ。」こう自分の心を胸内で 叱りつけながら言うと、 まことに心はじっと我慢してその言葉に従った。 

(『オデッセイア」20-20)

このように対象(心)の冷静な分析と抽写をなしえるギリシャ的な思考態度には、すさまじいものがあると言わねぼならないが、このすさまじさこそ、自律的思考、合理的思考、さらに科学的思考の基礎なのである。西洋思想には、対象を分析的、概念的(反感情的)に把握しようとする態度を、自然的対象ばかりでなく、精神的対象にまで、思考主体に対してまで貫いているが、前者においては、自然科学的知識の発展が見られ、後者では形而上学・論理学の存在をもたらすのである。
特に、天文学や医学における知的発展は、他の文明社会に例のないものである。この点について、出隆の指摘を引用しておこう。

近代天文学に先駆したギリシア人の構想が、感覚の見かけの誘惑にも拘わら ず、これ に打ち勝つ理性的思惟の構想であったということ…。これは感覚に対 する理性の冒険的抗 戦であり、感覚的表象に対する理性的構想力の勝利ともい うべきであろう。      

(『ギリシアの哲学と政治』出隆 14頁 岩波書店)

十九世紀に入ってまもなく、へーゲルによって精神の自律性・観念論を説く古典哲学が完成されたが、完成と同時に宗教と政治の両面から批判が展開され解体されざるを得なかった。
しかし、西洋的な伝統的思考方法は、今もなお実存哲学や弁証法的唯物論に息づき、また間接的には、科学的知識とその応用、政治・経済・社会・文化の各領域において世界的な規模で開花・爛熟していると言いうる。
しかし他方、西洋的思考態度の限界は、虚無思想や文明自体の混乱において、特に芸術文学の面において解体的な影響を及ぼしている。
我々の課題は、こうした西洋的な思考方法を哲学思想の分野で批判的に検討しようとするものである。

人間は本来、言語を媒介として思考するかぎりにおいて合理的な動物である。しかし、思考の結果は、人間自身を非合理的行動に追い込む場合と、思考能力(知性)を自律させ、理性に高め、合理的行動を導く場合がある。
そして知性(悟性)を理性(自立的思考)に高めることによって、思考する人間の主体性を失ったのが西洋的哲学である。
また同じことであるが、より基本的には、思考する人間の主体性を犠牲にすることによって、知性を理性に高めることができたのである。
理性的な思考態度とは、対象をそれ自体として把握する認識態度である。

一般に、人間は多様な環境条件(自然的社会的な)に対して直接に結びついており、対象は常に<人間にとって>存在する。従って本来から言えば対象は常に人間の価値判断の対象として思考されるものである。実際、東洋的思考態度では、天体などの自然現象は常に生活と関連づけて思考された。
これに反して、思考が生活や価値判断から離れて、対象自体を把握しようとするのが西洋的な思考態度の特色である。
しかし、このような理性的.(自律的)思考態度は容易に獲得されたものではない。その困難・犠牲が、上に述べた思考・判断主体の捨象である。
この思考態度では、対象が人間の価値判断から離れ、考えられた合理的秩序として前提され、むしろ人間の判断や、多様な自然が、<思考された世界>に支配されるものとみなされるのである。

歴史的にみれば、<思考された世界>は"神話"の世界である。ギリシャ人にとって、一方で対象をそれ自体として認識することができる理性的態度は、他方で、<思考された世界>の中に不死の神々の実在を設定し、多様な自然や、思考主体を二次的なものとみなすことに帰結する。
このことは、思考が自律的であるためには、思考の所産(神話)を、確実た前提として規定することが必要であったということを示している。

理性的であることは、今日の我々にも困難であるように、古代人にとっては、<神>の世界を前提し、自己をまったく与えられたものと考えることなくして不可能であったろう。
従って、素朴な神話の世界像が崩壊すると、改めて、思考された世界─合理的世界の存在の確実性か問題とされ、思考や知識自体が、哲学(知恵の学)の対象とされるに到ったのである。
だから西洋哲学の課題は、一貫して知識の存在の追求であり、知識を成立させる思考(認識)の原理の追求であり、思考を成立させる言語の意味の追求──一般的に言えぼ、思考された世界の確実性が追求されたのである。

しかし実際には、個体的生命から思考が独立してありえない以上、この試みは絶望的ともいえるものであったこ とは言うまでもない。考えられた世界は、考えられたものに<すぎない>のである。
だから我々は、人間存 在として自覚し、共存して生きてゆくために、西洋思想の根源における絶望を、希望に転化させる論 理を創造しなければならないのである。

「世界は私たちには論理的なものと見える、というのは、私たちがまずもって 世界を論理化してお いたからである。」 

(二ーチェ『権力への意志』521、原佑 訳 河出書房)

ギリシア人は、理性の中に、概念の中に、現実そのものを発見したと信じていた。それに対して われわれは、理性、概念は、人間が人間の生という無限にしてきわめて錯綜した現実のまっただ 中にあって、自分自身の位置を明らかにするために用いる不可欠な道具であるというふうに考え ている。」  

(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』 神吉敬三 訳 角川書店)


西洋思想批判へ続く    Home   next   <目次へ>



思考・言語と西洋思想批判

 思考とは何か。この問については、生命の生存(個体と種の維持)という観点からは、生命細胞の基本的存在様式である刺激反応性の進化的様式として説明することができる。すなわち、思考とは、環境に対する直接的刺激反応性である反射的行動を抑制し,今まで学習し蓄積した行動様式や学習情報を駆使して、最適の行動を選択し洞察し創造することである。つまり、何らかの問題状況の情報を収集し、その問題状況を解決するための中枢神経における情報処理過程である。このような意味での思考は,人間でなくとも高等動物例えばチンパンジーでも可能である。

 人間の本質は、言語による情報の伝達、記憶、思考を行うことによって適応的に行動することである。言語的思考は、動物的思考を前提として進化的に発展したことは,前編で論証したとおりである。人間は言語的思考によって知識を蓄え宗教や哲学,そして産業技術や社会を発展させ、科学的世界観に基づいて自然に働きかけ、今日の物質文明を築いてきた。我々の高度に発達した文明社会──便利で豊かな生活は、言語的思考による創造的発展的な創意工夫の産物であるといえる。しかるに今日においても人間的思考の本質は正しく研究し理解されているとは言い難い。その証拠に非科学的な宗教(とくに創造神を絶対化している宗教)が文化や伝統の中で大きな影響力をもち、戦争やテロの口実として利用されている(植民地化されていた貧困国など)。また、哲学の世界でもカントの認識論はまだ完全には克服されていないし、フッサール現象学のように確実性を求めて自己破産を繰り返す哲学が、今日でも大きな力をもっている。

 生命存在は、個体としても種としても環境の変化や生存の競争において、常に生存の危険を伴っている。生存の欲求と意志を阻む困難と問題性は、つねにその困難や問題性の解決を必要としている。生命存在の不安定さを克服して個体を維持しようとする生存原則は、単細胞から多細胞動物の頂点に位置する人類にいたるまで変わらない。そして問題の解決は,無限の「縁起(変化と関係性)」によってもたらされる外的環境(自然)の刺激に、どのように反応・対処するかにかかっている。環境からの無限で多様な刺激をどのように認知し、適応的生存のためにどのように判断・選択し、如何に的確に反応・行動するか、つまり、動物にとって「何が(what)どう(how)あり、どのように(how)行動するか」という思考様式は、生死を左右する問題である。さらに人間においては「何が、なぜ(why)そのようにあるのか」という自然現象(因果)の根源的疑問に臨むことになる。これらの疑問に挑戦しながら、動物進化の過程で人類が獲得したのが言語的思考なのである。

 従って、「何が(主語)、どうあるか(述語)」という疑問は、「思考の形式は、主語・述語を基本とする言語表現の問題解決形式である」という命題が成立する。つまり、人間の認識における言語的疑問の解明は、文章命題によって成立すると言えるのである。

 我々にとっての「西洋思想批判の核心」は,言語とそれらによって構成し確立された知識(観念や思想──ギリシア神話・聖書等々から近代哲学・科学・文学に到るまで)を「与えられたもの」として捉えるか,それとも,生命たる人間が進化の過程において「獲得し創造したもの」として捉えるかの違いにある。西洋思想批判と言えば、東洋思想を対置するのが通常であり、西洋の合理主義的ロゴス的世界観と東洋の融合主義的主客合一的世界観の対立を想起するのが一般的である。しかし、ここで我々の言う「核心」とは、合理主義批判を含むが、それだけでなく「生命言語論」に基づく西洋的没主体性批判である。この場合の主体性とは、心理学における欲求・感情論すなわち動因論を、言語論の基底におく考え方で、思考や発話等の言語過程には不断に情緒的動因が相互に影響を及ぼしているという考え方である。それに対して、没主体性とは、言語的思考や発話の過程で、言語的論理(分析)が、動因としての欲求や感情から独立して機能する(論理主義)というものである。つまり、前者(東洋的主体性)とは、欲求・感情に従順に言語表現が行われるが、後者(西洋的没主体性)とは言語表現(論理、分析)が優先して欲求・感情を増幅しまたは抑制するということである。後者の例としては、哲学や思想における論理や理性(言語的合理化)の重視、自我の言語的定義(デカルト)、言語による感情や行動の支配、文学等の感情・行動描写における欲求・感情の主語化、神々による運命や行動支配、そして受動態(中動態、再帰形)がある。その分析については別項にゆずるがいくつか例示しておこう。

【例1】 「(始源的な原因・原理の一つ=四原因のうちの形相因)は、物事の実体(ウーシア)であり、何であるか(本質=ト・テイ・エーン・エイナイ)である。けだし、そのものが何のゆえにそうあるかは結局それの[何であるかを言い表す]説明方式(ロゴス=論理・説明・合理化)に帰せられ、そしてその何のゆえにと問い求められている当の何は窮極においてはそれの原因であり原理(アルケー)であるからである。」
(アリストテレス『形而上学』第一巻第三章出 隆訳改 下線は引用者)

・アリストテレスは、哲学発祥の地古代ギリシャにおいて、最も実証的に世界の存在構造とそれを認識しロゴス化する論理構造を根源的に探求した人類史上最高の哲学者であった。しかし「言語とは何か」の解明がすすんだ今日では、上記のようにロゴスを存在と見なす見解は科学的検証のもとに否定される。物事の実体は、言語によって成立するロゴスそのものではなく、ロゴスで表現・説明し尽くせないものである。

【例2】「いとこよ。・・・・だが、じつはこの牢獄がわたしに声を立てさせたのではない。わたしはたったいま、わたしの目をとおして心の中に傷をうけたのだ。それがわたしの死の原因となることだろう。むこうの庭の中をあちこち逍遙している人が見えるか、あの貴婦人の美しさがわたしの叫ぴ声や嘆きのすぺての原因なんだ。わたしは彼女が人間の女性なのか、女神なのかわからない。だが確かにあれはヴイーナスだと思うね。」
(チョーサー,J.『カンタベリー物語:騎士の物語』桝井迪夫訳p69-70)
'' Cosyn, ・・・・ ; This prison caused me nat for to crye, / But I was hurt right now thurghout myn eye/ Into myn herte, that wol my bane be./ The fairnesse of that lady that I see/ Yond in the gardyn romen to and fro/ Is cause of al my criyng and my wo./ I noot wher she be womman or goddesse,/ But Venus is it, soothly as I gesse. ''
(Chaucer,J. The Canterbury tales ; Knight's Tale)

・『カンタベリー物語』は、14世紀にイギリスの詩人、チョーサー(1343頃-1400)によって書かれた物語集である。原文は中世英語(Middle English)で書かれているが、その表現方式は現代英語にも通じている。後にも述べることであるが、西洋語の特徴の一つとして。発話(文)における主語が明確であるとともに、主体(人格的発話主体)の判断・動作(動詞)自体は第三者的であるということである。第三者的というのは、他動詞受動態または使役動詞を使用することによって、主体(主語ではない)が何ものか(第三者)に動因・判断を委ねることが多いということである。This prison caused me(主体) nat for to crye.(この牢獄が私に叫ばせたのではない。→私はこの牢獄のために叫んだのではない。)やAnger caused her(主体) to leave the room.(怒りが彼女に部屋を出て行かせた。→彼女は怒りのために[怒って]部屋を出て行った)の場合、文の主語(対象)は判断や動作の人格的主体ではない。まず判断や動作(他動詞)が先にあって、認識・判断の主体(発話主体)は他動詞に、受動的・使役的に支配されるのである(他動詞中心主義)。I was hurt(私は傷つけられた。→私は傷ついた。)の場合も、「私(I)は(すでに)傷ついたもの(hurt;過去分詞)として存在する(be)」ので、主体である(主語でもある)「私」は、第三者(貴婦人の美しさ)によって傷つけられているのである。このことは発話中にも次のように明言されている。The fairnesse of that lady・・・ Is cause of al my criyng and my wo. つまり、私が傷ついたのは、私自身の主体的な判断というより、その判断を主体(私)にとらせた「婦人の美しさ」に原因があるというのである。これを単なる文学的修辞ないし表現上の慣習と見なすことはできるが、そのこと(没主体性)自体が西洋的思考様式の特徴なのである。

【例3】「おれは人類全体に与えられたすべてのものを、内部の自己で味わいつくすのだ。
おれはおれの精神で、最も高いものと、最も深いものをつかむ。
おれはおれの胸のなかにあらゆる幸福とあらゆる悲嘆をつみかさねる。
そして、おれの自我を人類の自我にまで押しひろげ、ついには人類そのものといっしょに滅びてみよう。」
(ゲーテ『ファウスト』大山定一訳)

・無限の知識欲を満たしきれず人生に失望していたファウスト博士は、悪魔メフィストフェレスに誘惑され、自らも存在の限界を究めようと契約を結ぶ。上記の文は、自己を越え神も悪魔も恐れないファウストの決意を述べるが、この文には感情を赤裸々に表現する西洋的自己表出の精神があふれている。しかし、しかし彼は、欲求と感情のままに生きることを追求したが、現世において永遠の魂の救済を得ることはなかった。人類の自我と西洋の自我とはその質が異なっていることを知らなかった。ファウストはその意味でも悲劇の人であった。

【例4】「あの子は、ちょっとしずんだ。でもまた、こえをふりしぼった。
『すてきなこと、だよね。ぼくも、星をながめるよ。星はみんな、さびたくるくるのついた井戸なんだ。星はみんな、ぼくに、のむものをそそいでくれる……』
ぼくは、なにもいわない。
『すっごくたのしい! きみには5おくのすずがあって、ぼくには5おくの水くみ場がある……』
そしてその子も、なにもいわない。だって、ないていたんだから……」
(サン=テグジュペリ『あのときの王子くん(別名「星の王子さま」)』大久保ゆう訳)
Il se decouragea un peu. Mais il fit encore un effort:
? Ce sera gentil, tu sais. Moi aussi je regarderai les etoiles. Toutes les etoiles seront des puits avec une poulie rouillee. Toute les etoiles me verseront a boire . . .
Moi je me taisais.
? Ce sera tellement amusant! Tu auras cinq-cents millions de grelots, j'aurai cinq cent millions de fontaines . . .
Et il se tut aussi, parce qu'il pleurait . . ..
(LE PETIT PRINCE Antoine de Saint-Exupery)

・ヨーロッパ語の特徴の一つに再帰動詞(フランス語では主に代名動詞という)がある。再帰動詞は、意味上の動作主(主語)と被動者(目的語)が同じであるような構成をとって自動詞的意味をもたせる他動詞である。自己を目的化して強調すると同時に、動作主としての自己(主語subject)を分析的に被動作の自己(対象化され動作された自己、見られた自己=目的語object)に区別する。自己を動作主体と被動作客体として区別し、他動詞によって自己の存在を位置づける(再帰させる)過程が無意識的に含まれているのである(フランス語では再帰的意味から派生して、相互性、受動性を持たせることがある)。

 上記の引用で、①Il se decourageaや②je me taisais.やil se tut の動詞は、それぞれ他動詞decourager(・・・を失望させる;単純過去), taire(・・・を言わぬ;taisais半過去,tut単純過去), である。①については、対象(目的格)としての彼(se)を落胆させたのが、動作主(主格)としての彼(Il)であるから、文体上は主格に主導権があるように見えるが、対象化(分析、言語化、合理化)することなしに自己の動作や存在を確認できないことが「没主体性」の意味なのである。東洋的に言えば、言葉なくして、分析なくしても主体は厳に存在している(無名天地之始、不立文字)。英語においてもHe was discouraged (彼は落胆させられた→落胆した)と、受動態の表現をとる(言語化する)ことによって、すなわち、動作主(subject)を対象(客体object)化することによって自らの動作を明らかに(合理化)しているのである。②の例(je me taisais.)についても同様に、私(me)について言わない(隠す)ことは、私(me)を対象化することによって、動作主としての私(Je)が、自己の動作を分析的に確認(合理化)しているのである。自己を含む対象を言語的に分析し合理化することによって、動作主の存在や動作を確認すること、これが西洋的言語表現、すなわち、認識と思考の様式であり、存在を規定する様式なのである。そして、西洋的思考様式の功罪を論じて人類のあるべき思考等式を創造しようとするのが本書の究極の目的である。

 言語は,個人にとって歴史的社会的な「所与」ないし「前提」であるが,同時に、諸個人の経験的知識の拡大に伴う創造的所産でもある。我々は言語とその意味を前提として与えられ獲得するが,同時に新たな意味を付加・創造している。それによってさらに、今までにない言語記号とその意味を創造し獲得していく。これが言語の表現形式(語彙と文法)の多様性の根源なのである。

<認識と知識の根源は何か──アリストテレス『形而上学』>

 プラトンは言葉(ものの名前、名詞)や知識について哲学の対象にした。しかし、生成、変化、消滅する物質界に対して、人間の言葉を含む観念によって構成される完全な実在(イデア)を想定することによって、ロゴス(言論・言語表現)を相対化し、知識の構成要素となる「言語と思考の本質」への認識論的関心が及ばなかった。それに対しアリストテレスは、人間は効用を離れて知ること(認識)それ自体を求め、最も重要な認識は第一の原因や原理を対象とするものであると考えた。その結果、質料(ヒュレー)因、形相(エイドス)因、始動因、目的因の四原因を抽出した。中でも重要なものは質料因と形相因である。前者は質料(物質matter)を有する自然的対象(経験的実在)そのものであり、後者は言語的疑問(what,why)への究極的解答である原因・原理(本質essence)である。彼は形相因について次のように説明している。

「そのうち[始源的四原因]の一つ[形相因]は物事の実体(ウーシア)であり何であるか(ト・ティ・エーン・エイナイ)である。けだし、そのものが何のゆえにそうあるかは結局それの説明方式(ロゴス)に帰せられ、そしてその何のゆえにと問い求められている当の何は、窮極においてはそれの原因であり原理であるからである。」
(『形而上学』上p31一部改変)

(注:「何であるか(ト・ティ・エーン・エイナイ)」は、ラテン語訳では、quod quid erat esse 。『形而上学』の訳者出隆によれば翻訳困難といわれる。英訳、仏訳、独訳ではともに「本質」を意味するthe substance,i.e.the essence(英語), la substance formelle ou quiddite(仏語), das Wesen und das Sosein(独語)である。しかしアリストテレスの「何であるか(ト・ティ・エーン・エイナイ)」は、単に「本質」という訳語で解決できない重要な問題をはらんでいる。注を下記に続ける。)

 引用文中の「説明方式」は、訳者の出隆氏が苦労されて(『形而上学』注参照)ギリシア語の「ロゴス」を翻訳されたものであるが、「ロゴス」のままか「言語表現=言表」のほうがいいのではないか。ロゴスは、本来は言葉(や言葉で表す理法、計算)を意味するが、その理解困難性のために多義的な概念となり、言語や言語によって論理化・合理化(意味づけ)された内容、その内容の真理性や論理化する理性、言語表現や説明方式等を意味するとされている。しかし、語彙(単語)としてだけ考えると、現代的常識とは根本的に違いがある。現代では、ソシュール以来の常識として、言語(語)を言語記号(能記signifiant)と意味概念(所記ignifie)に分けるが、ギリシアにおいては言語表現された内容(語や命題=観念的存在)を「存在自体」と考える違いがある。言語表現には対象を再構成(命題化)するために思考(認識)が必要であるが、それが引用文中の「形相因」によく現れている。すなわち、対象(物事)の原因や原理は、まず対象の実体を「何であるか」の解明によって確定し、次いで「何のゆえにそうあるか」と原因を探索する。つまり「何」の解明の結果は、人間の思考(認識)の結果であるにもかかわらず、「有限な人間の認識」という前提が抜け落ちて、認識結果だけが「究極の」「絶対的な」存在、すなわち「ロゴス」という命題になるのである。本来なら命題の基本は「何がどうあるか」という言語表現にすぎないのであるが、彼は単なる言語表現よりも「存在そのものの原理(ロゴス)」とみなしたために形相因としたのである。そもそも原理を求めるアリストテレスには「単なる言語表現」という発想がなく、命題(ロゴス)とは実在を反映する確実な存在でなければならないのである。次に他の三原因を見てみよう。

「つぎにいま一つ[質料因]は、ものの質料(ヒュレー)であり基体である。そして第三[始動因]は、物事の運動がそれから始まるその始まり(アルケー)であり、そして第四[目的因]は、第三のとは反対の端にある原因で、物事が「それのためにであるそれ」すなわち「善(アガトン)」である。というのは善は物事の生成や運動のすべてが目ざすところの終わり(テロス)[すなわち目的]だからである。」(同上p31)

 彼は経験的科学的思考を重視したため、質料に関しては単に個々の材料(素材)を質料因と考える。彼の例(同上p84)では、家を建築する場合の土や石がこれに当たる。そしてその家のできる運動の出発点(始動因)は技術であり建築家とされ、その運動が「何のためにか」というその終わり(目的因)は、できあがった家の働きであり、その形相因は家の「何であるか(本質)」を表すロゴス(言表、設計図)ということにされる。質料因は、対象の静的な側面を捉え、「基体」の意味(ラテン語訳substratum,subiectumは主語を意味する:出隆訳注参照)で示されるように、ロゴス(命題)的には名詞・主語の役割を果たしている。つまり、質料的存在は原因(主語)として規定されても、質料自体が運動をする(または活用される)ためには人間の認識的関与(述語)が必要とされる。だから始動因では人間的行動(技術や知識を使った運動・行動)が介在し、対象の意味づけとしての目的的認識(原因・原理)が加えられる。いずれも人間のロゴス的認識(思考)や関心・意図が必要とされている。基本的に対象の存在を規定する原因・原理は、認識され言語による限定が必要であって、しかも人間(アリストテレス)にとっては、言語による対象の認識(構造化、目的化、合理化、意味づけ、原理化)の過程は渾然一体としていて、分離されていないのである。彼にとって存在(物事の生成や運動のすべて)とは、ロゴスによって説明される始まり(原因)や終わり(目的、結果)を持つ合理的なものでなければならないのである。

 アリストテレスの主張は、思惟することによって命題が成立すること、その命題がロゴスであること、存在(あること)はロゴスを伴うことであるから、西洋合理主義哲学の祖であるパルメニデス(BC5C前半)の「思惟することと有ることとは同じである」(『初期ギリシア哲学者断片集』p39)と述べたことに共通している。そして、思惟の対象が思惟自体である「理論的認識の場合には、その説明方式[ロゴス]が、すなわちその思惟が、その対象そのものではないか。そうだとすれば、およそ質料をもたない物事についての場合には、理性(ヌース)で思惟されるものと思惟する理性とは、互いに他ではなくて、同じものでありその思惟は思惟されるものと一つであろう。」(『形而上学』下p163)ということになり、不動の動者とされる神の思惟が想定されるのである。

 以上のように生命言語論的にアリストテレス的な認識と言語の関係を分析すれば、認識や論理(命題)における言語の役割が明晰にされていないことが分かる。言語は記号であり表現の手段なのであるが、彼にあっては言語的に表現されたロゴスこそが原因や原理を含む存在であるため、「何であるか」「何のゆえにそうあるか」のような論理的疑問(原理や原因、本質)の解明、すなわち命題(論理、合理化)が成立しなければ納得も安心もできないのである。また一度論理的に命題化された理論(原理原則)に拘泥し、理論や知識、そしてそれらを構成し構造化するする言語そのものを相対化することができないのである。人間は言語をもつがゆえに、世界への知的好奇心によって世界と自己を意味づけ合理化し知識化する動物なのであるが、その結果を絶対化し永遠不滅であると合理化することには慎重でなければならないのである。今日の常識的見解(量子力学=質料・物質は状態の現れ)や東洋的発想(無、縁起)においては、自然的存在(生命を除く)は、因果関係や目的(結末)の確定は条件付きでなければ認めることはできないのである(ビッグバン仮説は究極理論ではない)。

注、承前:

 さて物事の究極的な原因・原理を追究することで、何が問題となるのであろうか。我々は通常の科学的認識において、原因・原理というと客観的な基準を設けて対象それ自体を理論化していると思っている。ところが究極の原因となると、その「究極(ultimate)」ということ自体を問題にしなければならない。例えば、上記文中の家の建築の場合「形相因」を「家の観念」とすればその観念の原因(言語的構成・思考)までも追求できる。しかし、自然現象で「なぜリンゴが落ちるのか」を追究すると、引力という概念がない場合、重さがあるから重い物体は早く落ちるとされて、「重さとは何か」までは考えもつかない。だから天動説や自然発生説等は、実証性よりも論理性が重視され、科学的精神の萌芽はあるものの彼の権威のもとで、当然のこととされたのである。そこでここでの問題は、アリストテレスや西洋哲学が論理性をどのように捉えたかということになる。
 まず「何であるか(ト・ティ・エーン・エイナイ to ti ?n einai )」について、以下のような翻訳例をあげておこう。

①ラテン語訳<esse substantiam, et quod quid erat esse (nam ipsum quare primum, refertur ad rationem  ultimam , causa autem et principium est ipsum quare primum)>

②英語訳(Tredennick)<the essence or essential nature of the thing (since the ” reason why” of a thing  is ultimately reducible to its formula, and the ultimate ”reason why ” is a cause and principle)>

③英語訳(Ross)<the substance, i.e. the essence(for the 'why' is referred finally to the formula, and the  ultimate 'why' is a cause and principle)>

④仏語訳(Tricot)<la substance formelle ou quiddite(en effet, la raison d'etre d,une chose se ramene en  definitive a la notion de cette chose, et la raison d'etre premiere est cause et principe)>

⑤独語訳(Bonitz)<das Wesen (Wesenheit) und das Sosein ist (denn das Warum wird zuletzt auf  den Begriff der Sache zuruckgefuhrt, Ursache aber und Prinzip ist das erste Warum)>

⑥日本語訳(岩崎勉)<(我々が原因と呼ぶその一つのものは)実体(ウーシア)や本質(テイ・エーン・エイナイ)[形相因]である。(そのゆえは、なぜということ(ト・ディア・テイ))は結局概念(ロゴス)に還元され得るが、究極のなぜということは原因であり原理であるからである。)>

 ①ラテン語訳はギリシア語原文(το τι ην ειναι)に近い逐語訳となっている。それで解釈すると(ギリシア語による本格的な解明は専門家に任せなければならない)quod quid erat esse は、英語では、that what was to be であり「在ったところのものであること」(岩崎訳注)と翻訳できる。しかし岩崎訳「本質」や訳注だと疑問代名詞quid / what が生かせない。「何」を主語にすれば「何が在るべきものであったか」となり、次の質料を基体(主語)と考えるアリストテレスの意図にも合致する。なぜこのことが重要であるのかと言えば、生命言語論で言う命題(文:主語・述語)の生成(創造)の根源は、認知と行動の基本原理である「疑問・解明形式」であるからである。ただ、問題はなぜアリストテレスがなぜ時制を過去形ην / erat / was にしたかということである。おそらく命題・文の始まり(基体)であり、叙述(述語)に対して、時間的・順序的(論理的)に過去になるからだろうか。
 また、岩崎訳の「なぜということは結局概念に還元され得る」とは、whatやwhyの答が命題(主語・述語)として表現されるからである。だが、それぞれの言語の翻訳で、ロゴスλ?γο?(ラティオratio)を、formula(英:基準・方式)、notion(仏:概念)、Begriff(独:概念)、概念(日)としているのは、ロゴスの意味を理解し、ロゴスから言語表出の役割を分離しているのかは疑わしい。ギリシア的ロゴスと概念とは、表現対象の広がり(ロゴス・命題>概念)において違いがあるからである。ロゴスは言葉を基本として論理的命題や原理を表すが、概念は、観念的意味・内容を示すにすぎないからである。また英語訳のformula は、形式的な面が強く言葉の意味的側面が欠落している。ロゴスは記号・形式と意味・内容が統一されているはずであるが、formulaであれnotionであれロゴスの本意(ロゴス性)を表すものではない。翻訳は原著の内容理解が前提となる困難な作業であり、訳者には感謝しなければならないが、アリストテレスやギリシア思想理解の根源におけるロゴス性の欠如は、アリストテレスの意図と言語の本質の無理解に起因しているのである。

<中世普遍論争について>

 思考と言語の問題を西洋哲学的な論争として考察してみると、いわゆる「普遍論争」といわれる唯名論(nominalism )と実在論(realism)の対立の問題につながっている。つまり我々が知覚的に確認しうる具体的特殊的な対象(これ,それ,この花,この木、ソクラテス、プラトンなどの個物)の名称(固有名詞)については問題ないのであるが,類や種の名称(花,木,犬、人間、動物などの一般・抽象名詞:種や類)が表現する抽象的観念的な意味・概念(普遍概念)が実在するか否かが問題とされたのである。我々の立場からは,普遍を表現する名称,すなわち花,木,犬、人間等の一般的な名称は,具体的で多様な対象を一般的抽象的にした観念に対する名称(すなわち言語記号)なのであり,その観念とは諸個人の了解している社会的平均的な共通の意味内容(辞書的・定義的意味内容)なのである。つまり,一般名詞(語彙)の意味概念(所記シニフィエ)は,実在するとしても諸個人の記憶における(心の)観念として存在するのであり,諸個人を越え,諸個人の観念を支配する完全な意味概念として心の外に存在するのではないのである。そしてこの意味での言葉の解釈は,いわゆるイギリス経験論の立場に属している。

「言葉は直接には人々の観念の記号であり,それによって,人々が自分たちの想念を伝達し,自分自身の胸のうちにもつ思想・想像(ないし構想)を相互に表現し合う道具であるから,絶えず使われると,一定の音[すなわち言葉]とその表す観念との間に強い結合ができて,名まえ[ないし言葉]を聞くと一定の観念が即座に,すなわち,その観念を生む適性のある事物自身が現実に感官を感発したとするときとほとんど同じくらい即座に,喚起されるという点である。」
  (ロック.J「人間知性論(三)」大槻春彦訳 岩波書店 1976 p88ー9)

 したがって,言葉の意味する概念内容に関する限り,諸個人の経験を越えることはできない。つまり結論的にはこの「普遍論争」に関する限り経験論につながる唯名論に軍配を挙げざるを得ないのである。唯物論における観念論の批判もこのようなものである。
しかし,ギリシアのプラトン以来の伝統的観念論の見解からは,そのような観念は諸個人の観念を越えて、言わば先天的にイデアとして実在しているとされる。つまり、生成消滅する現象界と諸個人を越えて花なら花の理想的なイデア界があり,木なら木の理想的・普遍的なイデアがある。そして諸個人の経験的に獲得された観念(意味・概念内容)におけるイデアも、この普遍的なイデアが支配していると考えるのが観念論(イデア論)の特徴なのである。これは中世においては「実在論」と呼ばれた。実在論は実念(概念実在)論とも訳されるが,何が実在(リアル)であるのか,何が確実な存在であるのか,と問うとき、多くの哲学者にとっては普遍的なもの,考えられたもの,観念的なものは精神的存在である人間にとって当然の前提とされねばならなかった。なぜなら言葉(ロゴス)とその意味・内容(概念)は、神の声または現実的な精神的存在(呪術的、観念的、宗教的世界)として人間に与えられたものであるからである。西洋的合理性とは、聖書の「初めに言葉(ロゴス)があった」(『ヨハネ福音書』)に見られる,神と神の創造した世界をロゴス的に合理化するギリシア的発想の所産なのである。

これに対し,唯名論者はアリストテレスの系統を引き(経験を重視したのでそのようにいわれるがアリストテレスは経験論者ではなく,言葉を相対化することもできなかった)、一般的な対象の名称(種や類の概念)を単なる記号(言葉)としての名称にすぎず,心の外の実在性を否定した。この両者の対立は、言語とその意味する概念をどのように理解するかという問題であり、現代の言語哲学(認識・思考における言語の役割を追求)の混乱に引き継がれている。カントは,大陸合理論とイギリス経験論の統一という形でこれらを統一しようとしたが,次章で詳述するように,言語を相対化することができず完全に失敗してしまった。そして現象学のフッサールはカントの限界を越えようとしたが、言語の問題性には気づきながら、やはり合理主義の限界を克服することができずに挫折してしまった。その意味では、現代哲学においても普遍論争は継続しており、我々の生命言語論によってその対立は始めて終焉を迎えるのである。

 普遍論争は複雑であり、個物(固有名詞で表現)と普遍(一般・抽象名詞の概念)の関係をどのように捉えるかの立場の違いで、「実在論─普遍は個物の前、概念論─普遍は個物の内、唯名論─普遍は個物の後」の三種に分ける(『普遍論争』山内志朗)。また実在論は、中世哲学史家コブルストン, F.も指摘するように、次に例示するアンセルムスなどは超実在論と呼ばれている。しかし本論では簡便化のために、アンセルムス(Anselmus 1033-1109)を代表とする実在論とオッカム(Ockham, W. 1285-1347)を代表とする唯名論についてみてみよう。
まずアンセルムスの概念実在論は、言語論理から説明するよりも、プラトンのイデア論と『聖書』の『創世記』『ヨハネ福音書』に依拠しており、神の存在を前提(原因)とする比較的単純明解な発想でわかりやすい。アンセルムスが神への信仰を理解するために人々に語りかけた書から引用してみよう。

「人間が創造されたその目的を喪失したとき、その運命はどれはど惨めなものであったことか。この堕落はどのように苦悩に満ち、恐ろしいものか。おお、人間は何を喪失し、何を見出したか、何が失われ、何が遺ったか。人間創造の目的である至福を失い、創造の目指していない悲惨を見出した。幸福であるために欠かせないものが失われそれ自体では悲惨以外の何ものでもないものが遺された。」
(『プロスロギオン』邦訳p187)

 彼が言うのは、いわゆる原罪による楽園追放(『創世記』)が人間の苦悩の根源であり、その苦悩からの救済は、神の存在の認識を必要とする。「神は、それより偉大なものは考えられないもの」(同上p192)だから神の存在証明をすれば、すべてを神の名において解釈・合理化でき、また救いと永遠の幸福を得ることが可能になる。神の存在を知らない「愚か者」に救いはない。では「愚か者」はなぜ神の存在を考えることができないのか。彼は次のように言う。

「ものについて考えるといっても、そのものを意味する言葉を考えるときと、そのものであるもの自体を理解するときとでは違う。前者の方法によると神は存在しないと考えられうるが、後者の方法ではまったく不可能である。」
(同上p192下線と強調は引用者)

 つまり、「愚か者」は、言葉を表層的(唯名論的)にしか考えないが、そうすると神の存在を考えることができなくなることを指摘しているのである。これは彼が神の存在に対する疑いとその克服の中から結論づけた深い洞察にもとづいている。なぜか、つまり言語について論じることは、『旧約聖書』では神の言葉の根拠が明確ではないために、一歩誤ると神の存在を否定することにつながる。そのため、ギリシア語新約聖書『ヨハネ福音書』の冒頭において「初めに言(コトバ、ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と付加されたことを見抜いていたのである。アウグスティヌス(Augustinus, A. 354-430)は、『ヨハネ福音書講解説教』において、「神と共にあったというその言(コトバ)はいったい何あろうか。それは、響いて過ぎ去って行ったとわたしたちが言うことばではないのか。すると、神の言も響いてのちに終るのだろうか」(p17)と、言葉の危うさについて述べている(注1)。だからアウグスティヌスと同じように、言葉で表現される神(Deus)の存在への危うさを感じたことのあるアンセルムスにとっては、言葉によって示される普遍概念の実在は前提とされなければならなかった。上記引用の「そのものであるもの自体を理解する」とは言葉によって理解するのではなく、信仰そのものによって神の存在を理解することであった。

 これに対し、唯名論者オッカムは、彼の主著『大論理学』において言葉をかなり重層的に分析し、外的に表示される言葉(音声語、文字語)と内的にイメージ構成(思考)される言葉(観念語)に分類している。前者は人為的(社会的)約束にもとづいて表出されるが、後者は心(精神、観念、表象)のなかで主観的に機能している。今日的には外言(発言)と内言(思考)の区別に該当するが、そのように捉えたのではなく、後者を「心の中に実在する概念的存在」として捉えるために分類したのである。次の説明は、当時の普遍論争を理解しやすくしているとともに、今日的に見ても普遍概念としての捉え方として正しいものである。

「どんな普遍も単一な個別的なものであり,それが普遍であるのは,それが多くのものの記号であり,多くのものを表示する働きをするからである。・・・・・・・普遍は,心の中の,多くのものに述語づけられる本性を有する一つの個別的な観念である。その観念が,多くのものに述語づけられ,自らをではなく,多くのものを代示する本性を有するが故に『普遍』と呼ばれ,しかるに,その観念が知性のうちに実在的な仕方で存在する一つの形相であるが故に『個』と呼ばれる。」
(『大論理学』邦訳p51下線は引用者)

この意味は、「ソクラテスは人間である」の「人間」が普遍概念であり、プラトン等すべての「人間」にも当てはまる一つの形相(idea, form:概念を示す形式原理、原型)であるために「個」と呼ばれるのである。この点では唯名論者であるオッカムが、普遍概念は、知性の内の観念であり、名辞として多くの個物を「ソクラテス(プラトン等の個物)は人間である」のように「述語づけ」、「人間は走る(話す、等)」のように「代示(suppositio 前に置く)」していると述べており、正しい指摘である。しかし、問題は、次の引用で示される<普遍を規定する個物の共通本性>が、心の内のみに実在するのか、それとも心の外にも実在するのかである。彼は明確に「普遍は心の外のものではない」と述べ、実在論者スコトゥス(Duns Scotus, J. 1266? - 1308)の<個体化原理によって個物に普遍の共通性が実在する>(注2)という主張を批判する。

「同一の被造物(res creata 個物)に、相反する事柄が適合することはありえない。しかるに,共通[普遍を規定する個物の共通本性]と固有[個物の差異]は相反する事柄である。それゆえ,同一のものが共通であり,かつ固有であることはない。だが,もし個体的差異と共通本性が同一のものであるとしたら,こうしたこと[ありえないこと]が帰結することになるであろう。」
(同上p57[ ]内と下線は引用者)

 つまり、今日的に見れば、普遍(例:「人間」という種概念の示す人間本性・意味)は、心の外にある個物に実在する共通の本性(例:人間にとっての言葉)を、心(知性や言語化能力)が<主体的に>抽象することによって、心の中に観念・表象として成立したものである。しかしオッカムは、普遍(意味内容・所記)と普遍概念(記号・能記と意味内容・所記)の区別が不明確であるばかりでなく、普遍の具体的内容(共通本性としての二本足歩行や言語・知性)の検討が不十分なために、普遍的共通本性を諸個物から抽象する過程を剃刀でそぎ落としてしまった(オッカムの剃刀!)。さらに個物に実在する人間の共通本性と諸個性(固有:老人ソクラテスと若者プラトン等)を混同し、同じ次元で実在論(スコトゥスの個体化原理)を批判するのである。『大論理学』の邦訳註解者である渋谷氏も「オッカムの議論は存在のレベルを混同する誤りを犯している」(同上p181)と解説するように、スコトゥスを正当に理解しているとは言えない。また、なぜ普遍論争が起こるのかも理解しようとせずに決めつけるのである。オッカムは普遍概念の観念性を正しく見抜いた。にもかかわらず、普遍の共通本性が諸個物に個体化(実在化)するというスコトゥスの個体化原理批判という観点からそぎ落としてしまったために、普遍概念が多くの諸個物の共通性から抽象することによって成立しているという過程を、逆に見逃してしまった。オッカムの唯名論が、近代の経験論と直接に結合しない理由が、このように普遍の観念性を前提として、諸個物の認識から出発していないというところにあるのである。

 普遍論争とは、普遍概念(種や類の名辞)が心(観念)から独立して、対象(個物)それ自体に外的実在性(生得性・先在性)をもつかどうかを問うものである。言語哲学的に言えば、概念すなわち「言語の意味」とは何かを問うものである。概念(concept, Begriff)という用語は、言語の指示する意味・内容的側面(所記)を重視し、記号的側面(能記)を背景に退けた用語であるが、極めて西洋的認識傾向を反映したものと言える。つまり、西洋では、伝達手段としての言葉(パロール、音声記号)と、言葉の意味を認識し存在を規定する(考える、理解するconcieve, begreifen)概念は、言語記号化された概念を「存在そのもの」であると無意識的に考えていたため、言葉を対象化して相対的に捉えることは困難であった(科学的知識の発達していない時代にあっては、どの地域にあってもやむを得ないことではあるが、西洋におけるロゴス重視の傾向が生じる背景については次章で説明する)。

 アウグスティヌスは、「音声となって響くことばは過ぎ去って行く」が、言葉の本質(意味・概念・観念)は心にとどまると述べた。これはプラトンの言うイデア(観念)の実在に他ならない。「初めにロゴスがあった」というロゴスも、単なる伝達手段としての神の言葉ではなく、道理や原理を含む概念としてのギリシア語のロゴス(λ?γο?, logos )だった。中世の普遍論争は、「過ぎ去っていく言葉」が対象(個物)自体に属するものか(実在論)、それとも観念(心・精神)の中にとどまり名辞(記号)として対象を表示(または代示)するもの(唯名論)なのかをめぐる争いであった。いずれの立場においても共通しているのは、主体の言語認識過程を十分吟味しない主体性を欠いた議論であったことが西洋的限界を示していると言えるのである。

(注1) アウグスティヌスは、上記の引用の後で次のように述べている。

「ことばは毎日口にされると安価なものとなる。つまり音声となり過ぎ去ることによって安価なものとなり、ただのことばにすぎないと思われてくる。ことばは人間自身の中にもあり、これは口から出る音声と違って、内にとどまるものである。真に霊的に語られることばがあるが、これは人が音声から理解するとしても、音声自身ではない。Deus(神)とわたしが言うとき、わたしはことばを告げる。これは何と短いことばだろう。四文字と二音節だけである。いったい、この四文字・二音節の全体が神なのだろうか。それとも、これが取るにたらぬものであればあるだけ、それによってそ理解されるものは貴重であるということだろうか。・・・・・・・・ 生きていて、永遠にあり、全能で、無限で、至る所に現在し、至る所で全体であって決して閉じ込められることのない実体を考えるとき、あなたの心の中にあるそれはいったい何であろうか。あなたがこれらの諸性質を考えるとき、それはあなたの心の中にある神についてのことばなのでる。だがそれは四文字と二音節からななる音声なのだろうか。およそ語られそして過ぎ去って行くものは音声であり、文字であり、音節である。音声となって響くことばは過ぎ去って行く。しかし、音声によって意味され、語った人の思考の中にあり、聞いた人の理性の中にあるものは、音声が過ぎ去って行くときもとどまっているのである。」
(同上p17-18下線は引用者)

 彼は音声記号としての言葉Deusとその記号の意味する内容(霊性)の乖離をどのように解決したのであろうか。彼は、口から出る言葉の音声としては過ぎ去るものであり、ただの言葉であるが、人間自身の心の中にあるもの(思考や理性、概念や観念)は、「神についての言葉」であるとする。ここで問題なのは、「霊的に語られることば(概念の霊性)」に言及していることである。概念の霊性とは、永遠・全能・無限等の諸性質をもつ実体としての神(という言葉・概念)に対する信仰を心の中にもたらすのである。一方で言葉が過ぎ去ることによって安価なものであるだけ、他方でその言葉によって理解されるものは貴重になるのである。言葉が神によって創られたものでなく、言葉そのものが神であることの意義は、普遍論争を越える神学上の問題であるが、このような記述が必要であるほどにギリシア哲学的発想が『ヨハネによる福音書』に影響を及ぼしていることに、アウグスティヌスは気づいていたであろうか。

(注2) 『大論理学』の翻訳註解者渋谷氏による「個物の個体化の原理」の説明は次のようなものである。

「スコトゥスは、『多くの事物(例えば,ソクラテスとプラトン)に共通な本性が外界に存在する』ことを主張して,次のように述ぺる。ソクラテスとプラトンは,ともに人間性という普遍的な共通本性を持つ点では一致している。しかし,それぞれ別な個物(この人間とあの人間)であるという点では異なっている。では,ソクラテスを,プラトンではなく,まさにソクラテスたらしめているものとは一体何であろうか。あるいは、この石がまさに或る一つの不可分な物であり、あの石から区別される根拠とは一体何であろうか。・・・・・・・・スコトゥスによれば,事物はそれ自体の本性(人間であること,石であること)によって個物たるのではなく,その普遍的な共通本性をこのもの,この個体へと特定化する個体的差異(このもの性)が共通本性に付加されなくてはならぬ。このスコトゥスの言う個体化の原理は、或る特定の質料やその他の付帯的な性質ではなく,個物に本質的に内在している原理でなければならぬ。」
(同上p178一部略、下線は引用者)

 読者は了解されるであろうが、下線部の「普遍的な共通本性」は、オッカムにおける普遍と同じくイデア的な存在である。両者の違いは、スコトゥスにおいては普遍が心の外の個物(事物)に実在し、オッカムにおいては普遍は観念の中にあって、個物を規定するのは名辞にすぎないとするものである。両者の対立は「普遍」の捉え方の違いにある。スコトゥスは演繹的方法によって普遍を個物に実在させようとし、オッカムは帰納的に普遍を抽象化して観念存在にとどめようとしている。この対立は、生命言語説で解明しているように、<言語記号を用いた認識主体の概念構成(創造)能力>を想定することによって解決する。すべての言語・概念は、想像的対象も含む具体的対象からの記号化である。だから普遍概念だけでなく、概念(言語記号によって意味される内容)は、すべて常に、経験的事実にもとづいて検証されなければならないのである。つまり「人間性という普遍的な共通本性」「人間存在とは何か」の解明が必要だったのである。それはまさに彼らが問題とした「普遍」すなわち「言語とは何か」に答えることである。


続き:西洋思想批判   Home  さらに詳しくは『人間存在論』を参照


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