MARX,Karl., Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie. Erster Band. Buch I:Der Producktionsprocess des Kapitals. , Zweite verbesserte Auflage., O.Meissner 1872, pp.830, 8vo.

MARX,Karl.,
Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie. Erster Band. Buch I:Der Producktionsprocess des Kapitals. Hrsg. v. Friedrich ENGELS., Dritte vermehrte Auflage., O.Meissner 1883, pp. xxii+808, 8vo.

MARX,Karl., Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie. Erster Band. Buch I:Der Producktionsprocess des Kapitals. Hrsg. v. Friedrich ENGELS., Vierte durchgesehene Auflage., O.Meissner 1890, pp. xxxii+739, 8vo.

MARX,Karl., Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie. Erster Band. Buch I:Der Producktionsprocess des Kapitals. Hrsg. v. Friedrich ENGELS., Fünfte Aflage., O.Meissner 1903, pp .xxxii+789, 8vo.

 マルクス『資本論 経済学批判 第一巻 資本の生産過程』第二版(1872年刊)、第三版(1883年)、第四版(1890年)および第五版(1903年)。初版は、1867年刊。

 『資本論』第一巻は、これまで内容については取り上げず、本の入手事情を書いたままで放置しておいたので、ここで少し手を加えて改稿する(ページのタイトルも『資本論』から『資本論 第一巻』に改める)。といっても関連文書を読み始めると際限がないので、マルクスの扱う記号に関してのみ、読んで感じていたところを書いてみる。第一巻の価値論の部分から始める。関連して第二巻についても触れる。以下で邦訳からの引用は、マルクス―エンゲルス全集版による。一部解り易さを考慮して他の翻訳も利用した。

 『資本論』の「第一章 商品」では、様々な商品が等号で結ばれている。

 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態では、
  x量の商品A=y量の商品B
 B 全体的な、または展開された価値形態では、
  z量の商品A=u量の商品B または=v量の商品C または=w量の商品D または=x量の商品E または=etc
 C 一般役な価値形態では、
    
   1 着の上着  =        
   10ポンドの茶  =        
   40ポンドのコーヒー  =        
   1クォーターの小麦  =  ⎬  20エレのリンネル      
 2オンスの金  = ⎪         
   1/2トンの鉄  = ⎪         
   x量の商品A  = ⎪         
   等々の商品  = ⎭         

 のようにである。 
 これらの式をマルクスは「価値等式」(p.76)と呼んでいる。原語はWerthgleichungで価値方程式と訳してもよいだろう。方程式Gleichung(英語では、equation)の語源は、ラテン語の「等しい」とか「同等の」を意味するaequas(エクウス)のようである。マルクスはいう「リンネル=上着というのが等式の基礎である」(p.68)。これらマルクス等号の使い方には、私は馴染めない。もっとも、手近な数学書を調べた限りでは、等号の定義にはユークリッド幾何学の「合同」ほど明確な定義は見つけられなかった。

 マルクスは、上記Aの単純な価値形態の式「x量の商品A=y量の商品B」に続けて、「またはx量の商品Aはy量の商品Bに値する」(p.65)と書いている。これをマルクスの等号の定義とみれば、等号は商品の価値に関するものだと考えてよいのかもしれない。商品という言葉は商品価値と読み替えるべきか。本来は、x量の商品Aの価値=y量の商品Bの価値あるいは、商品Aの価値をwa、商品Bの価値をwとするとき、xwa = ywとでも書くべきものであるかと思える。また、商品生産社会以前の段階での「直接的生産物交換の形態は、x量の使用対象A=y量の使用対象Bである」(p.117)とも書いているが、ここでは「商品」ではなく、「使用対象」が使用対象の価値の意であろう。  同様に、第三章第一節までは、等号が使われる。ところがである、同第二節になると等号に代わって、ダッシュ(―)が現れる(p.140)
こういうわけで、商品の交換過程はつぎのような形態変換をなして行われる。
      商品―貨幣―商品
       W―G―W
 である。この過程では、「両極が等価だということは、ここではむしろ正常な経過の条件なのである」(p.197)あるいは「単純な商品流通では両方の極が[中略]どちらも商品である。それらはまた同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である」(p.195:強調記者)、また「この形態変化は少しも価値量の変化を含んではいない」(p.206)とあるように、正常交換の場合は価値量が保持されているのだから、W―G―Wは、W=G=Wと書いてもよいはずである。それを等号からダッシュに代えたのは、「第四章 貨幣の資本への転化」、との対比の必要上であろう。商品流通の直接的形態W―G―Wと並んで、「第二の独自に区分される形態、すなわち、G―W―Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣再転化」(p.192)との対比である。
 第二形態(資本としての貨幣の流通)では、価値増殖が目的であるから、もはや等号は使えない。「もし回り道をして同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換するのならば、流通過程G―W―Gはつまらない無内容なものだ[中略]その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手の中での運動とは、まったく種類の違うものである」(p.193)。W―G―Wは、欲望充足すなわち使用価値が最終目的であるのに反し、G―W―Gは交換価値が動機であり目的である。「過程G―W―Gは、その両極がどちらも貨幣なのであるから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつものである」(p.196)。もっと端的に「この過程の完全な形態は、G―W―G’であって、ここではG’=G+⊿Gである(ここでは、再び等号が現れる:記者)。この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と呼ぶ」(p.196)。
 「われわれは、[中略]剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのである」(p.205)。個々の取引では、損得はあっても、一方で剰余価値として現れるものは他方では不足価値であり、社会全体では損得はない。取引に割り込む寄生的商人によって、買手と売手双方が詐取されることはあるだろう。しかし、純粋な形態では、商品交換は等価物の交換であり、価値を増殖する手段ではない。「要するに、どんなにいいくるめようとしても、結局はやはり同じことなのである。等価物どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されとしてもやはり剰余価値は生まれない。流通または商品交換は価値を創造しないのである」(p.214)。しかし、「いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分の投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない」(p.217-218)。そして、周知のフレーズが続く、「 これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!」(p. 218)

 資本としての貨幣に価値増殖が存在するにしても、交換(売買)は売手・買い手の合意のもとに行われる。両者の意識上では、等価物の交換でない限り交換・売買を実行されない。そうすると、マルクスがいう完全な形態G―W―G’を買いと売りに分解して、買いG―WはG=Wとし、売りW―G’はW=G’としてよいだろう。となると、Wは買いと売りの間に価値増殖する他ない。買いと売りの商品Wは同一物ではあるが価値が異なるから、G―W―G’は、G=W=G’ではなく。G=W……W’=G’とでもなろう。しかしながら、マルクスにとって価値とは「一定の大きさの凝固した労働時間」とする労働価値説である。買・売の間に何ら生産的労働は投入されていないから(マルクスは商業者の労働を生産的労働と認めていない)、価値は増殖するはずはない。マルクスは、G―W―G’と書くことによって、なにがし労働投入なしの価値増殖の事実を不明瞭にしてしまったように思える。

 商人資本(「いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者」:p.217)あるいは高利資本に、なぜ剰余価値が生ずるかについては明確な説明がない。「第四章第二節 一般定式の矛盾」では、なんらかの特権によって、すべての売手が例えば自分の商品価値よりも10%値上げで売れると仮定すれば、彼らは価値どおりに売り合うのと同じであると記されているだけである。ここでは、ひとまず、剰余価値にも利潤と同様に均等化作用が働くと仮定されているのであろう。そして、この節は上記のロードス島の警句で終わる。
 「商人資本、もっとも古代から存在する資本、G―W―Gという流通過程によって存立する資本について、マルクスは、ほとんど考察していない。「貨幣の資本への転化」についてのべるとき、彼は商人資本を軽視したのは、彼にとって、産業資本の秘密について語ることが大切」(柄谷、1990、p.61)であったからである。
 商人資本の剰余価値については、概説書には詳しい記述はない。例えば、宇野弘蔵『価値論』では、「社会的にいって流通過程自身が価値増殖の源泉たりえないことは、双方にとってみれば何らの価値増加をきたしていないことによって明らかであるが、実際上は、資本がかかる方法によってその価値増殖を続けてきたことを否定することはできない」(宇野、1973、p.333)あるいは「G-W-G’の形式ではGがいかにしてG’となり、剰余価値を付加するかを明らかにしなかった」(宇野、1973、p.338)のごとくである。
 ただ、柄谷行人は『マルクスその可能性の中心』で、互いに隔たった地域(価値システム)間の中間にのみ商人資本は存在するとしている。「G-WあるいはW-G’のいずれをみても、剰余価値の発生する余地はない。[中略]鍵は、W-GとG-W’(G-WとW-G’の誤りか:記者)が時間的・場所的に切はなされているということにしかありえないのである」「簡単に言えば、商人資本は、ある地域で安く買ったものを、別の地域で高く売ることによって成立している」(柄谷、1990、p.55)。同一のシステム内では、流通過程から剰余価値は生まれない。空間的に異なる価値体系の差額から剰余価値は生じるとする。いってみれば、前半のG-Wはある地域での等価交換(G=W)であり、後半のW-G’は別地域の等価交換(W=G’)である。この間、同一商品Wは価値体系の相違する商圏を移動することにより増価することになろうか。これなら、投下労働量が不変でも価値増殖することは理解できる。ちなみに、柄谷は産業資本も労働生産性を向上させることで、時間的に異なる価格体系を創出し、剰余価値を生むとしている。私は、労働生産性とは関係なく時間的な差異が剰余価値の源泉のような気がするが、勉強がたりないので、ここでは触れない。
 『資本論』第一巻においては、商業(流通)資本の剰余価値について、マルクスが重要だと考えた産業資本段階においても、その由来について説明はない。[商業資本の剰余価値が産業資本から派生したものであることの説明は第三巻(第17章 商業利潤:「付論」で後述)において述べられている]。その後は、「第五章 労働過程と価値増殖過程」となり、産業資本の下での、労働力の売買による剰余価値発生の説明となる。

 マルクスの記号をめぐる与太話はまだ続く。
 次に、資本の循環過程であるダッシュ記号が現れるのは、第二巻の冒頭である。「そこで、貨幣資本の循環を表す定式は次のようになる。G ― W … P … W’― G’。ここで点線は流通過程が中断されることを示し、W’とG’は剰余価値によって増大したWとGをあらわしている」(Ⅱ、p.35-36)。ここでは、Pの説明はない。生産過程の意味にも思えるが、少し後のページで、「彼(資本家のこと:記者)が貨幣形態で前貸しした価値は、今では剰余価値(商品の姿での)を生む価値として実現されることを可能とする現物形態を持っているのである。言い換えれば、その価値は、価値と剰余価値をつくりだすものとして機能する能力をもっている生産資本という状態または形態にあるのである。この形態にある資本をPと呼ぶことにしよう」(Ⅱ、p.38:強調原文)とあるから、先ほどのPは生産資本と考えるのがよいのだろう。そして、上記の二つの引用文の中間には次のような一文もある。「労働力をAとし、生産手段Pmをとすれば、買われる商品総額W = A + Pmであり、もっと簡単にあらわせばW\Pm(/ A) である」(Ⅱ、p.37)。とすれば、お馴染みの資本循環を表す式(?)
  G ― W\Pm(/ A) … P … W’― G’
 (Ⅱ、p.65)は、GでWを買い、Wは生産資本Pとのことだから、等号を使えば
  G = W\Pm(/ A) = P … W’― G’
 と書き換えることできる。Pは「価値と剰余価値をつくりだすものとして機能する能力をもっている」とされているから、剰余価値を生じる前の状態だからである。さらには、上式の…部分で剰余価値が生まれることから。
 G = W\Pm(/ A) = P … P’\Pm(/ A')= W’= G’
 と書いても、よいのかもしれない。
 ただし、W(P)段階のAは、可変資本vのみからなり、W‘(P’)段階のA’は可変資本vと剰余価値mからなる。…の箇所で価値が増殖する。
 マルクスは、「生産資本は、それが機能しているあいだに、それ自身の諸成分を消費してそれらの成分をさらに価値の高い生産物量に転換する。[中略]生産物はただ商品であるだけでなく、剰余価値という実を結んだ商品である。その価値は、P+Mであり、その生産に消費された生産資本の価値Pと、この生産資本によって生み出された剰余価値Mとの和に等しい」(Ⅱ、p.50:一部訳を改変)とする。ここでは、生産資本P(=不変資本c +可変資本v)とmに区分されているから、商品の価値を直ちに
 c+v+m=W(W‘)
 と定式化することができる。マルクスはこの式を使って、その後の再生産表式分析へと展開してゆく。

 しかし、商品価値の定式化には別の方法がある。上式の後半部分の等号P’\Pm(/ A')= W’に注目してみる。上掲の引用部分に続いてマルクスは、次の具体例をあげている。「この商品が10,0000ポンド(重さの単位:記者)の糸であり、その生産に372ポンド・スターリングという価値の生産手段と50ポンド・スターリングという価値の労働力とが消費されたと仮定しよう。この紡績過程で、紡績工たちは、彼らの労働によって消費された生産手段の価値額372ポンド・スターリングを糸に移すと同時に、彼らの労働支出に応じてたとえば128ポンド・スターリングという新価値をつくりだした」(Ⅱ、p.50-51)。ここでは、商品価値は、生産手段(不変資本)の価値cと労働支出から構成されているといっている。この方向に従えば、価値とは「一定の大きさの凝固した労働時間」であるとの価値の定義どおり、商品(財)の価値を生産手段の価値(それ自体が凝固した労働時間)と直接労働との合計と定式化できる。
 いま、生産財がk 個、消費財がl 個あるとする。第i 種類の生産物を1単位生産するのに必要な、第j 財の必要量をaij とし直接必用労働時間をτiとする。また、第i 財の価値をti とする。第i 財の価値は、
   
 で表せる。未知数と式の数が共にl 個で、連立方程式によってti が求められる。ここで、糸を生産物1とすると、糸の価値は、 
       
 となる。上述の具体例でいえば、左辺第1項が372ポンド、第2項が128ポンドで、右辺が500ポンドである(ここではマルクスに従って価値がポンドで表示)。なお、第2項が「可変価値+剰余価値」である。 
 最近のマルクス経済学の数理的発展はこの定式化によるものである。置塩や森嶋の作物もこの定式化によるものである。この定式化は大きなブレークスルーだと私には思える。労働時間を価値単位とする発想である。それにより、価値論と一般均衡理論を結合することが可能となり、その後の発展に寄与した。誰が、この定式化を思いついたのであろうか。以前、ボルトケヴィッチ「マルクス体系における価値計算と価格計算」の項を書いたときは、その発明者をツガン=バラノフスキー(『マルクス主義の理論的基礎』1905)と考えた(注)のだが、どうやら ドミトリエフ(1904)に優先権があるらしい。
 ドミトリエフの定式化を紹介しよう。「商品Aの一単位生産に直接的および間接的に消費される労働量の合計をNA(原文ではN )とする。生産に消費された直接的労働消費量をnA とする。数種のK1 K2K3 …なる「技術資本」がその生産に使用されているとする。そして、生産に資本K1 の1/m1 が消費され、資本K2 の1/m2 が消費され…資本KM の1/mM が消費されるとする。さらには、資本K1 の生産に直接・間接に消費される労働量をN1 、資本K2 の生産に消費されるそれをN2…資本KM の生産に消費されるそれをNM とすると、この場合、商品A一単位の生産に消費される労働の総量は次の式になるであろう。
  Na = na + 1/m1N1 … 1/mMNM
 ここで、na およびm1m2 mM は、生産物Aの生産条件により所与であるから、N1 N2、… NM が未知数である」(Dmitriev、1974、p.44)。現在では価値ti とされるところが、i 財生産に必要な総労働量Na とされている。
 馴染みの記号を使用すれば、
  ti = τi + a1t1 + … + antn
 のことである。

 さて、森嶋通夫は『マルクスの経済学』のなかで、上で述べたような支出された労働の凝固されたものが価値であるとするのを価値の第一の定義とする。そして、マルクスは価値を「生産に社会的に必要な労働時間」ともしていて、これを価値の第二の定義とする。その上で、森嶋は同書第1章で、両者の定義が同一であることの証明を行っている。それは、資本財と賃金財(奢侈品)のセクターに分けた多部門モデルで、行列式を使っての証明である。私には難しいので、もっと簡単に2部門モデル(根岸、1997、p.97を参照した)で証明できないかと、出来の良くない頭を絞ってみた。以下に書いてみる。多分、誤っていないと思いながら。

 2部門モデルで、xiyiaij をそれぞれ第i 財(i =1,2)の粗(総)産出量、純産出量、第i 財生産における第j 財(j =1,2)の投入係数とする。ここで、生産量にかかわらず投入係数は一定であるとすると、
投入―算出関係は、
  x1 = a11x1 + a21 x2 + y1   (1)
  x2 = a12 x1 + a22 x2 + y2     (2)
 となる。さて、tiτi を第i 財の価値と第i 財生産における直接労働投入係数(これも生産量にかかわらず一定とする)とすれば、上式の双対体系として
  t1 = a11 t1 + a12 t2 + τ1    (3)
  t2 = a21 t1 + a22 t2 + τ2    (4)
 が得られる。
 (3)、(4)式が通常の(第一の)労働価値説の(生産に投下された総労働量)定義式である。森嶋通夫は、第1財の純産出量1を生産するには第1財のx1 と第2財のx2 粗産出量が必用な時、第1財の労働価値の第二の定義(生産に社会的に必要な労働時間)式として、
  μ1 = τ1x1 + τ2x2
 をあげている(森嶋、1974,p.15、記号は変更)。
 第1財の純生産物を1単位得るための生産の各部門に与える波及効果を見るには、(1)式のy1=1、y2=0とおいて、粗産出量x1x2を求めればよい。よって、
  x1 = a11 x1 + a21 x2 + 1   (5)
  x2 = a12 x1 + a22 x2 + 0    (6)
 となる。
 いま、(3)にx1を乗じ、(4)にx2を乗じ、それぞれの左辺と右辺を加えて、整理すると、
  t1 x1 + t2 x2 – (a11 x1 + a21 x2) t1 –(a12 x1 + a22 x2) t2 = τ1x1 + τ2x2   (7)
 となる。1番目のかっこ内は(5)式からx1 -1 に等しく、2番目のかっこ内は(6)式からx2 に等しいので、置き換えると、
  t1 x1 + t2 x2 – (x1 -1) t1x2 t2 = τ1x1 + τ2x2
  t1 = τ1x1 + τ2x2    (8)
 となる。第1財の第一の定義と第二の定義が一致した。
 第2財の価値を求めるのには、(5)、(6)式が
  x1 = a11 x1 + a21 x2 + 0   (9)
  x2 = a12 x1 + a22 x2 + 1    (10)
 となる場合であるから、(7)式は
  t1 x1 + t2 x2x1 t1 –(x2 -1) t2 = τ1x1 + τ2x2
  t2 = τ1x1 + τ2x2      (11)
 となる。第2財についても、第一の定義と第二の定義が一致した。ちなみに、(8)と(11)の粗生産量x1x2 は異なっている。

  ((付論:第三巻における商業利潤の由来))
 産業資本が担う流通過程で使用する資本も「生産と同様に再生産過程の一段階をなしていているのだから、流通過程で独立に機能する資本もいろいろな生産部門で機能する資本と同様に年間平均利潤をあげなければならない」しかし、「商人資本そのものは剰余価値を生まないのだから、平均利潤の形でその手に落ちる剰余利潤は、明らかに生産的資本全体が生み出した剰余価値の一部である」(Ⅲa、p.353)としている。マルクスは、剰余価値の定義を流通(商品取引)の段階で定義したにもかかわらず、ここでは、流通は剰余価値を生まないと明確に書いている。
 経済の発展により分業化が進み、生産者が商品を直接売買した状態から、商人が売買機能を分離・独立して担う状況が生まれてくる。産業資本家は流通では、それまでに生産された剰余価値または利潤を実現するだけなのに反し、商人は流通で、しかも流通によってのみ、利益を実現し、創り出さねばならない。商人資本は、利潤・剰余価値の配分には参加するが、利潤の生産には参加しない資本である。マルクスの例をあげる。
ある商品の生産状況を産業単位で見ると、
  720c(不変資本)+180v(可変資本)+180m(剰余価値)=1080
 とする(剰余価値率100%、数字は価値=生産価格とする、したがって剰余価値=利潤)。利潤率は180/900=20%である。
 ここに900(720+180)の産業資本に100の商人資本が参加するとする。マルクスは、「商人資本では、われわれが問題にするのは、利潤の分配には参加するがその生産には参加しない資本である」(Ⅲa、p.356)と書いている。この商人資本は売買の仲介をするだけで、剰余価値(利潤)を生まない。ただ、使用資本に対する利潤は要求する。全資本1000の1/10である商人資本は、その働きに対し全利潤の1/10である18を要求する。商人資本の利益率は18%(18/100)である。こうして、産業資本の取り分は162(180-18)となり、その利潤率も18%(162/900)である。産業資本に比して商人資本が増加すれば、利潤率は低下する。このとき、産業資本家から商人への売渡し価格ないし価値は720+180+162=1062(使用資本+利潤)である。それを、商人は自分の資本100に対する利潤18を加えて消費者に1080で売却する。
 商人が利潤を手にするのは、「商品をその価値よりも安く、またはその生産物価格より安く、産業資本家から買ったからにほかならない」(Ⅲa、p.357)。生産価格(産業資本家が直接消費者との売買に携わらないで、商人に売り渡す価格)は、現実の生産価格よりも低い。産業資本の商品売渡価格では剰余価値・利潤の全部が実現されていないからこそ、商業資本の利潤の実現が可能なわけである。「商人が自分の利潤を得るために価格につけ加えるものは、ただ、商品価値のうち生産的資本が商品の生産価格の計算に入れないで除いておいた部分に等しいだけだということである」(Ⅲa、p.360)。商人資本は、剰余価値の生産には参加しないけれど、剰余価値の平均利潤への均等化には参加するのである。

 書籍収集も長年継続すると(といっても最近はほとんど購入はない)、さすがに諸版を収蔵するようになる。現在は、三版と四版を2冊づつ持っている。初版はさすが1,000万円以上の値段がついているので、余程の幸運で掘り出しものに遭遇する他は、個人での私蔵は困難だろう。
 (注)ツガンの『マルクス主義の理論的基礎』(1905)における価値
 ツガンは価値を直接に求めるのではなく、価格から価値を求めた。
第Ⅰ部門(生産財部門)で、150千人の労働者が1年中(直接)労働に従事していると仮定する。第Ⅰ部門では、180(百万マルク)の価格の生産手段の助けにより、150千人の労働者が300の価格の商品を生産する。この生産量の価値を労働年で表してX(千人単位とする)とすると、(生産手段である)Ⅰの商品を生産するために投入された生産手段の価値は、180/300・Xとなる。従って次式が成立するとして定式化した。
   180/300・X + 150 = X
 よって、X = 375


(参考文献) 

1.宇佐美誠次郎・宇高基輔・島泰彦編 『マルクス経済学講座1』 有斐閣、1964年
2.宇野弘蔵 『宇野弘蔵著作集 第三巻 価値論』 岩波書店、1973年
3.置塩信雄 「交換論について」 国民経済雑誌、89(4)、1954、p.24-38
4.置塩信雄 『マルクス経済学 価値と価格の理論』 筑摩書房、1977年
5.置塩信雄 『資本制の基礎理論 増訂版』 創文社、1978年
6.柄谷行人 『マルクスその可能性の中心』 講談社学術文庫、1990年
7.根岸隆 『経済学の歴史 [第2版]』 東洋経済新報社、1997年
8.ハワード、M. C. キング、J.E. 振津純雄訳 『マルクス経済学の歴史(上) ―1883-1929年― 』 ナカニシヤ出版、1997年
9.マルクス 岡崎次郎訳 『資本論』 マルクス=エンゲルス全集 (第23巻a、24巻、25巻a:それぞれIa、Ⅱ、Ⅲaで表示) 大月書店、1965年他
10.ミーク、L.ロルンド 水田洋・宮本義男訳 『労働価値論史研究』 日本評論新社、1957年
11.森嶋通夫 『産業連関論入門』 創文社1956年
12.森嶋通夫 高須賀義博訳 『マルクスの経済学』 東洋経済新報社、1974年
13.西淳 「価値概念についての一考察」『季刊経済理論』58(2)、2021、p.76 ―82.



『資本論 第一巻』第二版、第三版、第四版及び第五版の諸本


第一巻第二版標題紙(拡大可能)


第一巻第三版標題紙(拡大可能)


第一巻第四版標題紙(拡大可能)


第一巻第五版標題紙(拡大可能)


   [以下に改稿前の入手経緯の記事を残しておく。写真は重複する分を省略:2005/7/17記載]
 大物掘り出しの具体例として、古書愛好家のために入手時の経緯を少し詳しく書いておこう。
 このような古典を検索する時には普段、雑本がぞろぞろ出てこないように最低価格の足切りを行うのだが、たまたま、価格の制限なしで検索していたら変な本が目に留まった。発行が1800年台の資本論1巻と2巻である。説明文もいい加減で1・2巻とも同じ内容である。よく確かめもせずに、先に作成した方をそのまま「コピーアンドペースト」したのだろう。Antiquariatなどは付いておらず、書店名からはただのセコハン屋と伺えた。説明には、発行所・発行年とページ数だけしか書いてないが、確認すると第2巻の方は「初版」にピッタリである。こんな店に「お宝」が気付かれずに眠っていることがあるのではないかと、空振りを覚悟で第2巻のみとりあえず発注。カスを掴んでも、許せる値段だ。
 次に、書店に1・2巻の発行年に間違いがないかメールを送る。こんな小さな(と思われる)店では、めったに返事はこないと思いながら、翻訳ソフトの力を借りて、英文に独文を貼り付けたメールを作成する。古本好きならわかってもらえると思うが、正面から初版かと聞くと本の価値を、気付かれて,「昨日電話があり、売れました」とやられるのではないかとの心配がある。売り惜しみか、本当に目敏い人に先を越されたのか解らないが何回もこんな経験をしているので、単に発行年をさりげなく確認する風をよそおう。といっても、それほどの語学力がないから、ただ発行年のみを聞いただけのことである。
 意外にも(?)すぐに返事は来た。若い書店主らしく!マークを何重にもふんだんに使って。おれも英語にトライすると、英文も付けてくれた。それによると、第1巻は“Produce in 1883”とのことである。第三版の発行年ではないか。すぐに、これも発注。
 本が着くまでは半信半疑であったが、航空便で送ってくれた小包を開封すると、まさに期待どおり。コンデションも非常によく、本の中身にはしみ・かび等も見られないし、Ex-libraryでもない。
 古びてはいるが、背皮装で、マーブル小口である。大事にされていた本に違いない

 

(2005/7/17記、2026/6/8改稿)

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