全国初優勝
    
小森先生が綴る山城高校全国初優勝の軌跡

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           昭和23年全国優勝時福岡に於いて選手達感激の寄書き

小森正己
 全国優勝!! 私が夢に迄見たその宿願と言うより私にとっては悲願に近いものであったかも知
れない。それを成し遂げた瞬間の喜びは筆舌に書し難い。私にとってはバスケットボールと心中
する位の気概はあった。凡てを打ち込んだこの仕事の完成の喜びは唯涙であった。
 今迄の喜びも悲しみも労苦も一瞬に我が生涯の最良の日として深く胸中に刻みつけられた。あ
の11月3日11時41分30秒私は生徒達の喜びのエールの中に唯涙ぐんで立っていた。特に
労苦を共にした田伏のふるえる唇、うるんだ眼差しと握り合った手の固さが印象にはっきり残っ
ている。
 戦い終わって京三中から山城優勝迄の6年7ヶ月の歩みを振返って私は自分の篭球指導の輝か
しいが苦しかった道をこの際かへりみる一歩を思ひ立ったのである。私が味合った苦杯の幾度か
の歴史は昭和23年11月3日に輝かしい全国優勝で一段落をつけてまた山城へのスタートが始
まるわけである。
 私23歳の若さで三中に赴任した時から既に足掛け7年になるが私の記憶を呼びさまし乍ら私
と苦労を共にしてくれた、生徒達を思い出しつつ印象深いことを書き連ねてみたい。この優勝の
第1歩は昭和17年4月から始まった。勝利には恵まれなかった生徒も多数ではあるが優勝成る
の基礎と部の確立は苦労した現部員の人々の数年前から先輩の残した精神の表れと言うことが出
来る。

 昭和17年赴任の年から22年国体迄滝川弘が主将だった。どこが強いかも分らない時だっ
た。生徒の話ではニ商一商あたりが強いとのことであった。
 チームを見るとバスケットの型の表面だけは出来ている位のチームでガタガタチームであっ
た。
 一中との練習ゲームで負けた日が始めて体育館に出た日だった。私もその頃は元気だったから
翌日からユニホームになって生徒の中に飛込んだ筈である。
 技術面は兎に角として部の進みかた決定は1週間位の間に既に実践面に入っていたと思う。広
い体育館の雑巾がけが始る。ボールの管理がやかましく言われる。日記が強制される。この時の
部員に宇田、尾崎、松村の3人が印象深い。滝川は温和な人間だった故にこの3人は強力な協力
者として必要であった。わたしのバスケットに対する気狂ひじみた情熱と凄い練習計画には慣れ
ない部員には参ったと思う。スポーツを通じての人間完成と言うより、当時の思想からして天皇
帰一国家の有材の人物いう狙ひは部の主流になって強力に部生活が修練として行的練成として強
行された。前記3人以外に宮本が居た事を思い出したが彼の強いファイティングと実行力も3人
とのよきコンビネーションがとれていた。外に和泉、鰺坂等が居たが温和しいよく出来た生徒だ
った。その次の年が宇田、松村、尾崎を中心に部の確立が出来た年だった。私には、この3人の
協力がなかったら現在の部が出来上がらなかったと思う。それだけに私も3人と暗くなる体育館
で或はアパートで語り合ひ戦争になって他の学校が止め出した頃にも三中は続けてやっていた。
 この次に私は3年計画で一流チームに仕上げる計画を持っていたし実現の可能性もあった。し
かし学徒動員という国家的要請により私は半田へ動員され、体育館は工場となった。
 こうして1年半は全くバスケットから離れて工場暮しだった。
 終戦と同時ににスポーツ復興の烽火は京都バスケットボール協会の再結成に始った。三中も9
月の終りには6人位の人数でそのスタートが始り実に栄養失調的プレーが見られたのもこの頃で
あった。それから1年の間に部員も15名に増えて練習らしきものが出きるようになった。山
本、小倉が中心人物であった。毎日同じ様な基礎的練習の反芻であった。この頃は皆がバスケッ
トを好きになるように仕向けるのが第一の狙いではあったが皆熱心だったので安心をした。山本
を4月に同志社に送って新チーム編成にかかって小倉を主将に繁田、田伏、大塚、柳瀬。辻あた
りが、チームの主力であった。下級生の訓練は太田、西岡を中心に多少希望が見られた時代だ。
 第1回国体で福島に21-19と破れたが近畿予選で北野を1ゴールで破ったのは偉かった。然し
強いチームではなかった。
 京都で確実に勝てる自信の出来たのは繁田が主将のチームであった。小倉は良い素質を持って
慶応に進んだ。
 センター難時代が毎年続いて繁田がその穴埋めに懸命だったのは身長が無いだけに気の毒であ
った。昨年のチームに太田が使えなかったので岩田が起用となったが彼の黙々と努力の効果は第
3回国体の頃に表れて大塚ほどの凄みはなかったが何とかなるようになって昨年はベストエイト
に残ったのは幸福であった。そして新部員募集と新一年の強化、それに部内に強力なるマネージ
ャを必要とする結論をもって帰って来た。

昭和22年12月より優勝迄
 柳瀬の尽力で志賀入部、久保のマネージャへの切替へそれは全く今度の優勝の人を得たきっか
けと言える。
 また太田、中井、西岡、山村の新チームへの参加、部のスケールがぐっと大きくなった。チャ
ンス来る!! 来年国体準決勝迄は確実の自信がついた。繁田、大塚の進学は一応こたえたが新人
起用のチャンス思いきって志賀をポストへ岩田、太田、田伏、柳瀬と考えた。志賀に対する練習
は特に慎重に又本人も熱心だった。責任を以て精進の進歩は素晴らしい上達だった。何とか穴埋
めになると感じていた。この頃に中井の進境が又目覚ましかった。ジマニヤー大会では素晴らし
い素質を見せた柳瀬より積極性があるから田伏にリードさせてやらせてやろうと思って思いきっ
て起用、山村のフォワードも強くなっている。西岡のフットワークとパスの器用さも買える。米
田も幅が出て来てシュートも仲々よい。皆が揃って上手になる。岩田のタイミングの早いシュー
トも身について来てF陣は強化された。
 田伏はキープの強さとウナギの様な身のこなしに老練さが加わる。大体4月頃には志賀が曲が
りなりにもセンターのプレーができるようになって来た。私は技術的の向上と共に久保の献身的
なマネージャぶりで部内に和気溢れこのチームワークの完全を喜んだ。
 2年生辻、松尾、柳瀬、岡本等のベンチ組も献身的であった。太田休部状態の時には、山村、
西岡、辻、松尾とFに起用を計った。然し矢張り太田のFは岩田とは良いコンビだったと思う、柳
瀬の身体的不調、中井の位置確立、山村をG陣へ転用、8月の遠征は色々批判もあろうが、山城
優勝へのきっかけであった。素晴らしい攻防力だった。チームワークもこの時確立された。近畿
大会に北野に1敗したが勝てる自信がついたと思った丈で別に恐ろしい相手と思わなかった。近
畿大会を底として練習のピッチを上げた。予選は問題外にして十日終りへのコンディション作り
に専念した。ファストブレーク丈は未完成で出発した。そして強力なるチームディフェンスに助
けられて優勝してしまった。こう書いてくると何でもない様だがそれは優勝迄の時間的経過に過
ぎない。その間特にこの1年の間にとった努力と精進は全く凄いものだ、これは部員の凡ての者
の強力そして先輩の後援と指導の結晶である。その外に私は幸村校長の私並びに生徒達に対する
精神的援助の賜物だと思う。

幸村先生へ
 私は涙を見せまいと思ひつつ京都に帰った途端に先生の手を握って泣いてしまった。一体この
心理状態をどう説明してよいのか分らないが、全く親爺に対する感情そして先生を見た瞬間の心
のゆるみと先生が一番喜んで下さったと言う気持ちそして心配も!この錯綜した気持ちは私の涙
を理論づけてくれるであろうか、生徒も幸村先生に喜んで貰えると校長と生徒という様子はなれ
て考へられる心理ではなかった。先生に丈はすぐ寄せ書きもしたし冗談も言へたのである。
 私が山城の教員である以上校長に対して信頼を持って居た事は当然だが、三代の校長のことを
我等が親爺としての親愛感をもった事は初めてであった。
 温かい気持ちの校長だった。かって二宮文エ衛門先生を訪問に私は病床の先生から"温い気持ち
の人となる事だ人間味のある先生になれ"と激励された事が印象深い、この言葉そのままの校長で
あった。随分たしなめられたけれども幸村先生の温い思い遣りに感激して、私はバスケットボー
ルにも精進出来た。
 私は今回の栄誉の蔭の力として幸村先生は忘れ得ぬ人の一人である、本当に有難いことだと心
から感謝している。多くを幸村先生について語る事は私の筆では出来ないが良き"親爺"として"厳
しい校長"として今後の私の成長を見守って頂きたいとお願い致したい。

協会関係の皆様へ
 藤野会長初め皆様の御好意あっての優勝であって、小森個人、山城一校の力ではこの偉業はな
しとげられなかったことを知る私は皆様の御寛量を特に感謝致したい。
 遊津先生は私を今日あらしめて頂いた指導者であるし、本当に喜んで頂けた事を私は全く感謝
している。
 同僚として西村、青野、中沢の三氏には特に現地での御世話をして頂いた丈に特に感銘深いも
のがある。この時程、チームワークの妙を発揮して頂いた協会の活躍はなかったと一員として本
当に感謝している。その外に蔭になって何かと世話して頂いた松下さんには、私達が本当に感謝
している。
 京都クラブの皆さん、女子クラブの皆さん、そして特に共に技を磨き指導に当って下さった同
志社大学の部員の方々には、何かにつけ、世話になり、はげまされて来た事は全く強力な援助が
今回の栄誉を勝ち得た協会の蔭にかくれた力であることを私は強く感ずるものである。
 私も微力ながら協会発展に協力しているけれどもそれ以上の援助を得た事を私は何等かの努力
を以て報いたいと念願しているのである。更によき一員として私は私の道を進め協会の発展に寄
興せん事を誓うものである。
 私は山城の仲の良かった堀川女子高校の皆さんの温かい心尽しに部員が喜んでいた事をここに
書かせてもらっても良いと思う、色々の噂を生んだが皆さんと私の部員は高橋先生、芝原コーチ
と私の間に密接なる連絡もあり明るいでしい方向で相互に敬愛し合った仲の良いグループであっ
た事を信じている。優しい心尽くしが私は本当に嬉しかった。一緒に行けなかった丈に残念でも
あったが、印象深い堀川の部員の方々ばかりであった。幾つかのエピソードもあるが私はこの栄
誉の蔭に美しい一駒として私の思ひ出に刻み付けて置きたいと思っている。
 現地で直接応援して頂いた二条の部員の方々にも心から感謝している郷土の有難さを泌々感じ
たのもこの時である。放送局に勤務されている、二条の先輩、藤田くんにも録音板の事で特に御
好意を配して頂いたことを有難く感謝している。

先輩諸兄へ
 私の着任して以来の私の直接の教へ子の皆さんは、実際指導面に携わっての援助も有りがたか
った。その他に物質的にも精神にもよく後輩を凡ゆる面で御指導援助して頂いて本当に嬉しかっ
た。又大先輩の竹上、上羽その他の方々には直接プレイは見て頂かなかったが、その立場で特に
遠征に際して莫大な援助を頂いた事は、部長の私としては、どんなに心強かったかも分らない。
温い血の繋がりが後輩の勝利への活力源であった事に感銘を感ずる。
 清水先輩には部員が身体上の事で相談にも乗って頂いたし蔭になって援助して頂いた多くの事
柄を想い出して本当にこんなに後輩の為に尽して頂いた先輩を得た丈でも私は泌々と私の幸福さ
を感ずるのである。
 中継放送を聞いて涙を流して喜んで下さった先輩もある。私達も涙を流して喜んでいたあの気
持ちが遠い距離感をなくして同じ気持ちで喜んで頂けた事が何より嬉しい。
 今後、京三中の替身である山城を又可愛がってやって頂きたいと念じつつ深い感謝の気持ちと
したい。

部員諸君へ
 田伏を中心として本年度活躍した諸君又その蔭の多くの部員、本当に有難う。こんな立派な部
があったらうか私の努力は私自信まだ足りない気持ちだったのにこんなに良い成績を得てくれて
本当にうれしい。
 私の短気さをよくカバーして一身同体となって良くやってくれた。私との血のつながりに於て
私の思っている通り又自覚した方向をこのまま実によくやってくれた。個々人に賞めてあげた
い。でも矢張り部をほめてやりたい、皆の協力の力だから、バスケットはチームプレイであり私
達はチームの力で勝ったから。
 "勝って驕らず"という言葉は今味って見たい謙虚な気持ち、随分私は君たちにも言ったが、喜
ぶという気持ちが驕りにならない様に私は望んでいる。心のゆるみ、それは大きな仕事の後だっ
たから、あったかもしれないけれど勝利者のスポーツマンシップの一つは謙虚さである。ここで
一つ勉強をして貰へば本当に有難いバスケットの優勝が君達を一段階飛躍させた逞しい明るい人
間に向上した明朗闊達な人にしたと思う。国体優勝が一つの契機となって人間的向上が得られた
とすればバスケットに精進した価値は充分達せられたと思う。
 私のバスケットが常に勝利に伴う人格的向上を狙っていることを知っている君達は更に大成の
為に努力を惜しんではならない。

  ●小森先生とメンバー

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