待望の喜び


山城高校バスケットボール部監督
細川 磐

 東北の都、仙台のレジャーセンターで行われたインターハイ決勝戦直後の場面は強く脳に焼きつけられており、いつでもそれに血をかよわせることができる。
 試合終了のピストルがなった瞬間、我を忘れて飛び上がっていた--苦勝の喜びは如何に大きかったか。その上ブロック大会や京都選手権で優勝しても全然喜んでもらえなかった先輩、小森先生に抱きかかえられて喜んでもらえたときは、全身の緊張も一時にゆるみ、待望の喜びにむせていた。
 閉会式のとき、場内はまだ興奮からさめていなかったが漸く我に返り、山城バスケット部の暗黒時代が自然の内に想い出された。私が山城の体育館に生れたのは、昭和二十九年の四月八日である。まるで先輩、小森先生が宇多野の病院に入院されたのは、お産のためであったような錯覚をおこす。その年はまだ長い伝統の軌道に乗っており、インターハイには辛うじて出場した。いよいよシーズンが終わって、ファンダメンタルに専念するつもりで男・女同じ練習、今と同じ走って又、走る練習ばかりさせた。男子は文句を云いながらも何とか練習を続けていたが、女子は一人休み二人休み、コートサイドで見ているものの方が多くなった。そして男子と同じ練習など出来ないといって、女子の練習からはボイコットされたみじめな場面も想い出された。
 昭和三十年はまさに山城バスケット部の暗黒時代、京都の選手権もとることが出来なかった。「馬車うまのように走るタマ入れでは勝てる筈がない。」などの悪評をうけながらも一生懸命やった。この年の卒業生は現在の喜びを得るのに、なくてはならない苦労をしたのである。
 翌年三十一年はまだ、インターハイや国体に出場することは出来なかったが、チーム力はかなり強くなって神戸の王子体育館で行われた第十一回西日本高校選手権には、試合ごとに上達して優勝を遂げた。
 ファンファーレが高く鳴り響き、表彰台では、西口、朱がいかにもうれしそうな表情で高松宮賜杯を抱いている。夢にまで見たこの場面、現実でないようなおもいがした。
 長かった暗黒時代を経て、去年はインターハイに、堂々と出場しベスト8に残り、大いに自信をつけた。そのため、国体ブロック予選までは軽かった。本大会では、優勝した浦和商業に最後まで食いついていたが反則負けした。このように古い伝統の軌道に乗り出していたのである。又、地味な仕事を好んで行った宮田の存在はチームの組織を一層堅くさせ、優勝の原動力となった。
 これからもこれ以上の充実したチームが出来ることを望んでいる。縁の下の力になる良い部員は、全部員の堅い団結の中に生れてくるものである。
 卒業して行く西口、朱、笠原、塩谷、宮田等は、晴の舞台に出場できなかった山本を励まし、クサリのような堅い団結を守り、後輩の指導に当ってくれるであろう。