禅寺で修行するの巻
禅寺といえば僧の修行の場であることはもちろん、たまにスポーツ選手がこもって精神統一しているなどと話題になることもあるし、なぜか欧米人にも関心が高い精神修養の場です。 さて、ウッキーは自ら好んで修行したかったわけではありませんが、自宅が曹洞宗末寺の檀家である関係から、図らずも曹洞宗大本山永平寺へ、一泊二日の参禅に出かけることになってしまいました。 修行というより、檀家代表で大本山へ詣でてお札をいただいてくるという趣旨で、100人余りの団体参拝の一員になりました。 では、ウッキーが経験した修行もどきを含めて、永平寺のことを紹介しましょう。 目指すは永平寺!
永平寺は道元が開いた曹洞宗の大本山で、福井県北部の永平寺町にあります。 開祖道元は、1223年24才で中国(当時は宋)へ渡り、修行を積み仏教の神髄を体得します。 その後、京都に戻って我が国初の僧堂を開いて、本格的に禅の教えを説き始めますが、道元の台頭をけむたがる仏教界からの圧迫(天台宗との確執らしいです)があったりして、このままでは満足のいく説法を続けられないと思うようになります。 さらに、師匠の「国王大臣に近づかず深山幽谷(しんざんゆうこく)にあって一人でもいいから、正しい仏法を受け継ぐ人を育成するように」との言葉を思いだした道元は、意を決して都を離れ、越前(福井)へ移ることにしました。 そして、43才の時に今の永平寺がある場所に大仏寺を開きました。 1244年、大仏寺法堂(はっとう)と僧堂が完成して、開堂供養が営まれ、2年後に永平寺と改称されて現在に至りました。
永平寺は年末のテレビ番組「行く年、来る年」なんかで、よく放送されるし、知名度は全国的にも高いのだろうと思います。 ウッキーは、今までに2回訪れたことがあって、これが3回目です。写真は、道元が晩年病に倒れて、療養の為に生まれ育った京都へ戻る時に、永平寺から同行してきた弟子達と別れを惜しんだ場所を記念して、滋賀県の木の芽峠(きのめとうげ 標高628m)に建てられた碑です。 ここで道元は「草の葉に 首途(かどで)せる身の木部山(きのめやま) 雲に道ある心地こそすれ」という歌を詠みました。 京都で没するわずか20日前でした。
木ノ芽峠は平安時代に開かれた古道で、越前へ通じる最短路なので、で道元以外にも親鸞、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉、芭蕉などが通ったという記録があるようです。 また、戦国時代には、いくつもの城が築かれ戦場になりました。
永平寺を紹介します
永平寺を訪れた2日目の早朝、雲水さんに寺の中を案内していただきました。その時に撮った写真を紹介しましょう。
承陽殿(じょうようでん)といって、道元の遺骨が眠る場所です。 左が入り口の承陽門、、右が承陽殿の内部ですが、まだ日が登り切らない頃だったので、写真も暗くて見づらくなりました。
左が法堂(はっとう)といい、住職が説法する道場で、朝の読経や各種の儀式が行われます。 左から2番目は仏殿といって、一般のお寺でいう本堂にあたります。 3番目はその内部です。 一番右は鐘楼堂。 大晦日のテレビでお目にかかる鐘です。 一回撞くと余韻が約3分間残るんだそうです。
左は中雀門(ちゅうじゃくもん)という、山門と仏殿の間にある綺麗な門。 2番目は祠堂殿(しどうでん)という一般檀家の位牌を安置するところ。 3番目は唐門(からもん)といって、山門へ至る手前の門です。
この写真は傘松閣(きんしょうかく)という160畳ある大広間の天井画です。 全部で330枚の絵があり、別名「絵天井の大広間」と呼ばれます。 かなり暗かったので、うまく撮れなかった。 残念。
曹洞宗の大本山って?
ウッキーは、お坊さんではありませんから曹洞宗を詳しく知っていたわけではありませんが、曹洞宗の大本山が永平寺と総持寺(当初能登にあり、明治時代に横浜市鶴見に移設)の2カ所あることは知っていました。
大本山ってその宗派の頂点のお寺だから、ふつうに考えれば1カ所だけだと思いますよね。 曹洞宗では最初に宗派を興したのは永平寺を開いた道元(1200〜1253)ですが、その後人材を育成し、民衆に広めたのは瑩山(けいざん 1268〜1325)という僧で、その瑩山が能登に開設したのが総持寺(今は祖院と呼ばれる)です。 総持寺は1898年に火災に遭い、のちに現在の神奈川県横浜市鶴見に移転しました。 鶴見の総持寺は禅の国際化に向けて、世界に開かれた禅苑として重要な役割を果たしています。
こんな経緯から、曹洞宗の興隆に大きな足跡を残した道元を「高祖(こうそ)」、瑩山を「太祖(たいそ)」と尊称して、それぞれが開いたお寺を両方とも大本山としているのだそうです。
只管打座(しかんたざ) ??
この言葉の意味は「ただひたすら坐禅に徹する。坐禅になりきる。」という無心の境地ことで、曹洞宗の教義の旗印です。
今からおよそ1500年前にインドから中国へ渡った達磨大師(だるまだいし)は坐禅を実践し、それが後に中国で坐禅を根本とする一宗へと発展しました。 これが禅宗です。 道元は、この仏法を日本にもたらし、只管打坐(しかんたざ)を説きました。
坐禅をして悟りを得たいとか、心を落ち着けたいということすら否定して、ただひたすら坐禅をする、ひたすら坐るところに悟りがあると説くのです。
ウッキー修行する
永平寺で自ら体験してきた、修行の一端を紹介しましょう。
起床は早朝3時半。 身支度を整えて説法を聞いた後、5時半頃、まだ日が昇りきらないうちに、朝課諷経(ちょうかふぎん)という朝の読経が、法堂の三百八十畳もある大広間で始まります。 黒衣の姿の雲水さんやお坊さん達、200名余りが一斉によむお経と、木魚の重低音の音が堂内にこだまします。 雲水さんのほとんどは、仏教系の大学を卒業したばかりの青年達だそうです。 僧が列を作って、規律正しく歩きながら読経を続ける様を見ていると、荘厳で緊張感があります。 キビキビした動きと真剣な顔つきが、大変印象に残りました。 写真はその朝課の始まりの様子を撮ったのですが、残念ながら大変暗くてうまく写っていません。
座禅も体験しました。 坐禅用の丸い座布団をしていて、わずか30分でしたが、それでも足がしびれて感覚がなくなるほどでした。 修行僧だと、永平寺に入門するとすぐに、一週間続けて坐り続けるのだそうで、そのくらい厳しい行になるといくら坐禅に馴れているとはいえ、足がちぎれるほどの苦痛だと聞かされました。
下の写真は研修中の食事です。 もちろん精進料理だから肉類は一切ないし、贅沢ではありません。 それでも一般参拝者に配慮してあるのでしょう、大変たべやすく美味しい味付けです。 食べ終わると、御飯の器にお茶を入れてもらって、それで自分の箸を洗い、最後に飲み干します。 そして、器は重ねて収納出来るように工夫されています。修行僧の身のこなしや話し方を見ているだけで、修行の厳しさが伝わってくるようだし、雲水一人一人の引き締まって緊張感のある表情が心に残りました。 ウッキーにとって大変貴重な体験でした。
道元の略歴
道元(どうげん)。 西暦1200〜1253年。 曹洞宗の開祖。
京都に生まれ、14歳で比叡山に出家。
24歳で中国へ渡り、生涯の師と仰ぐ天童山・如浄禅師と出会う。
2年間の修行の後帰国。 京都、宇治の興聖寺(こうしょうじ)に僧堂を開設する。
天台宗との確執があり、後援者の御家人で志比庄の地頭だった波多野義重に勧められ、寛元元年(1243年)、越前志比庄に移り吉峰寺に入る。
翌年、大仏寺(後の永平寺)を開き、禅の教えを広めながら弟子を育成する。
建長五年(1253年)、病気療養のため永平寺を離れ、京都、高辻西洞院覚念邸で54歳の生涯を閉じる。