日本語の数の数え方について

「大和言葉」とはどういうものか?



一 日本語の数の数え方は中国語の数え方を採用したものである
 余り知られていないことだが、日本語の数の数え方は、中国語の数え方を採用したものである。「五十七」とか、「三千八百九十三」というのは、中国語でも同じように書く。せいぜい、「二千」などを現代中国語では、「両千」と書くなど、随所で「二」の代わりに「両《リャン》」を用いるぐらいで、基本的に同じである。(ちなみに「二」「二十」は日中共通、「二百」など三桁以上の場合は、中国語では「両百」「両千」となる)
 もちろん、発音は違うが、現代日本語の「一《イチ》・二《ニイ》・三《サン》・四《シイ》・五《ゴー》・六《ロク》・七《シチ》・八《ハチ》・九《キュウ》・十《ジュウ》」との発音は、古代中国語の発音(いわゆる「漢音」、隋・唐時代の長安(現在の西安)周辺の発音に基づく音)に基づいている。また、いわゆる「漢文」(古代中国語)では「両」は用いず、日本語と同じく「二」のみを使用する。このようなことは他にもあり、日本語は随所に古代中国語の表現法を残しているのである。
 この中国式というか漢式の数のの数え方の恩恵は非常に大きく、どんなに中国の嫌いな日本人でも、これを拒否しては、日常生活にさえ支障を来すことは間違いない。日本人が暗算が得意だというのも、実はこの数の数え方によるところが大きい。
 実際、英語のように「fifty-seven」とか、「three thousand eight hundred and ninety-seven」などと言っていたのでは、少なくとも暗算などできたものではない。確か、歴史学者の会田雄次氏が戦争中の体験として、「イギリス人は将校でさえ、三桁の足し算が暗算でできない」というようなことを書いていたが、それはこのような言葉の問題があるのではないかと思う。

二 漢語流入以前の列島語に大きな数を数える言葉はなかった

 本題に戻るが、我々日本人は日頃ほとんど意識することはないが、数を「音読み」しているのである。「四十」を「よんジュウ」、「十七」を「ジュウなな」というように、「訓読み」を混ぜる場合もままあるのだが、これとて言い方は漢式であり、基本的に数を数える時は、中国渡来の漢語を用いているのである。
 一般に、我々は漢語流入以前から、きちんとした「日本語」、いわゆる「大和言葉」なるものが存在しており、その「大和言葉」(和語)に、それと同義の漢字・漢語を当てはめて行ったものと考えている。漢字の「訓読み」というのは、その漢字の意味に相当する「本来の日本語=大和言葉」を当てはめたものと考えている。
 右の例でい行けば、「最初」に、「ひい・ふう・みい・よう・いつ・むう・なな・やあ・ここ・とお」、あるいは「ひとつ・ふたつ・みっつ・よっつ・・・・・とお」という「大和言葉」があったところに、漢字・漢語が伝来し、それらに当てはまる「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」という漢字が当てはめられたものと考えている。
 もっとも、多くの日本人は一般的には、「一・二・三・・・」が中国渡来であるのと同様、「ひとつ・ふたつ・みっつ・・・・」などが「日本古来」のものであることなどは、ほとんど意識していないであろう。「一・二・三・・・・」でなくても、多くの漢語はそれぐらいに日本語の中に食い込んでいるし、「ひい・ふう・みい・・・・」はともかく、「ひとつ・ふたつ・みっつ・・・・」にいたっては、下手をすると「幼児語」ぐらいにしか認識されていない。
 実際、「ひい・ふう・みい・・・」が「日本古来」のものであるとして、それでは11から上は、「本来の日本語」では何と言うのであろう。素人には、ちょっと見当がつかない。筆者なども、子供時代、「ひい・ふう・みい・よう・・・・」あるいは、「ひとつ・ふたつ・みっつ・・・・」と数えて行っても、11より上になると、当然のように「十一・十二・十三・・・・」と「音読み」(漢語)に切り替わったのである。
 このように、「ひい・ふう・みい・・・・」という言い方には、かなり「古風」な感があると言えると共に、「ひとつ・ふたつ・みっつ・・・・」というのは、まだ11より上の数を認識できない「幼児」段階の言葉であるとの感もするのである。
 更に言えば、どうも漢語到来以前の「日本語」(大和言葉)というか、列島の言語には、まだ11より上の数を数える言葉が存在していなかった。つまり、まだ11以上の数を認識する必要が出てくるほどには、列島の生活文化は発展しておらず、それが中国漢字文明の到来によって、ようやく11以上の数を認識する必要のある段階に達したのであり、それとともに、「十一・十二・十三・・・・」と漢語をそのまま用いたのではないかと考えるのである。

三 計数能力は社会発展段階に規定される
 そもそも、ある社会の成員の計数能力、つまり「どの程度までの数を数えられるか=認識できるか」とか、「どの程度までの計算ができるか」という問題は、基本的にその社会の発展段階に規定される。一般的に、そんなに多い数を数える必要のない社会、例えば原始的な狩猟採集段階の社会においては、3以上、あるいは4以上はすべて「たくさん」と数える民族が存在することが報告されている。実際、人間が一度に認識できる数は、2~3であり、我々は4などは「2と2」、5は「2と3」と認識しているのだという説もある。
 どうも、人間が素朴に認識できるのは2~3までであり、それが、その後、牧畜や農耕の出現などの社会生産の発展に伴い、より多くの数を「数える」(認識する)必要が出現し、その結果として、計数能力も発達していったのである。
 実際、足し算・引き算などの初歩的な計算が出来るようになって間もない子供(大体、5・6歳ぐらいか)は、よく手の指を折って計算する。つまり、3~4以上の数を認識できるようになった次の段階では、両手の指の10本、更にはそれに両足の分を足した20本、つまり10もしくは20が計数能力の一つのメルクマールとなり、その範囲内の計算が出来るか、更にはそれ以上の解を求める計算が出来るかどうかが、人間の計数能力の一つの「壁」となることが予想できるのである。
 3~4以上の数を一律に「たくさん」とする段階は脱したとしても、次には10もしくは20の壁が待っている。実際、筆者なども、小学一年生の頃、教師の「禁止」にもかかわらず、手の指どころか、足の指まで使って計算したことを覚えている。子供の認識能力の発展というものは、人間の認識の発展史をくり返しているのだが、この例などは、10~20までの数の認識が「簡単」にできるかどうか、つまりは10~20以上の数(両手、そして両足の指の本数を超える数)の認識が出来るかどうかが、人間の数の認識能力の一つの「壁」であることを示している。
 つまり、漢字・漢語到来以前の列島社会も、既に農耕などが伝播し、3~4以上が「たくさん」の段階は脱していたとしても、10より上、あるいは後述する理由により、20より上の数を表現する言葉が存在しない(一般的には、ほとんど認識する必要がない)ような社会段階であったことは十分に考えられるのである。

四 漢字・漢語到来以前の列島語には、せいぜい20までの数を表す言葉しかなかった
 説明の便から、筆者は最初、漢字・漢語到来以前の列島語には、10までの数を表す言葉はなかったと書いたが、実際には20までの数を表す言葉があったと考えられる。
 例えば、有名なところで、『土佐日記』などが「二十一日《ニジュウイチニチ》」を「二十日《はつか》あまり一日《ひとひ》の日」などと表現しているところを見ると、確かに11などは「とお-あまり-ひとつ」というような言い方をしていたことは十分推測されるのであり、その調子で19(とお-あまり-ここのつ)まで行って、20(はた)にまで至る。
 ちなみに、『岩波古語辞典補訂版』(大野晋編 1990)などは、「はた」について、「両手・両足の全部の数を基礎として二十進法の数詞が発達し、二十を『全部』または『一人』という単語で示す言語は少なくないから、ハタは恐らく動詞ハテ(果)と同根で、これ以上数えられない、両手・両足の指すべてを数えきった数の意であったのだろう。」と書いている。なお、「はた」は、現在でも、「はたち」とか「はつか」という言葉自体は残っているものの、20を「はた」という用例は、前掲書によると「平安時代にはすでに」「少ない」という。
 このように考えると、漢語到来以前の列島語には、10(とお)でなくても20(はた)までの数字を数える言葉しかなかったものと筆者は考えるのである。

五 「大和言葉」の数を表す言葉は進んでいたか?
 もっとも、このような筆者の見解に対しては、いきなりの反対が予想される。例えば、国語学者・金田一春彦などは、「数を表すことば」について、「日本語は、歴史以前にすでに、モモ・チ・ヨロズをもっていて、相当進んでいた。」(『日本語』 岩波書店 1988 下巻71頁)とする。
 もとより、「モモ・チ・ヨロズ」は、一般に「百・千・万」とされており、他にも、「ヤオヨロズ」や「チヨロズ」などと言った「大和言葉」の存在は、漢字・漢語流入以前から、「日本語の数を表すことば」は「相当進んでいた」という幻想を生じさせるに十分である。
 しかし、よくよく考えてみると、「ヤオヨロズ」や「チヨロズ」などという語は、それこそ「八百万」や「千万」という中国語を「訓読み」しただけのことであり、言わば中国語の直訳語に過ぎないのである。つまり、別に「古来」から、8,000,000とか10,000,000とか言う意味を示す語が「大和言葉」中に存在していたわけではないのである。(実際の所、「ヤオヨロズ」や「チヨロズ」も、実数を示すものではなく、「数え切れないくらいたくさん」という意味を示すために使われている)。
 それでも、「百・千・万」に当たる「モモ・チ・ヨロズ」が存在したではないかという向きもあるかもしれない。しかし、これにしても、100・1000・10000という意味を持った言葉が、元々「大和言葉」中に存在していたかというと、決してそうとは言えないのである。
 もちろん、「モモ・チ・ヨロズ」というような言葉自体が存在していなかったと言うことはないだろう。しかし、これらの語は「よろづ屋」に示されるように、本来、せいぜい「たくさん」とか「いろいろ」の意を示す語に過ぎなかったのではないか。
 「モモ」にしても、辞書の中には「百。転じて、非常に数の多いことを表す。」と解説するものもあるのだが、実は逆であって、「モモ」だけでなく「チ」「ヨロズ」も本来は、「数の多いことを示す」語に過ぎなかった。しかし、それらが「百」「千」「万」という漢字の翻訳語(訓読み)として採用されることにより、初めてこれらの語に100・1000・10000という語意が付与されたのではないか。
 ちなみに、「モモ」や「チ」が「たくさん」の意であることを示す例として、多くの辞書が挙げているのが『万葉集』3059の「百《モモ》に千《チ》に人は言ふとも・・・・」である。当然のことながら、ここでは、「百に千に」は「あれこれ」とか「色々と」と訳される。

六 「モモ・チ・ヨロズ」は漢語に対応して作られた新生「大和言葉」である
 「モモ・チ・ヨロズ」だけではない。100以下の数字にしても、10は「とお」、20は「はた」と表現され、共通性は見られないのに、30以上になると、「みそ」(三十)、「よそ」(四十)、「いそ」(五十)、「むそ」(六十)、「ななそ」(七十)、「やそ」(八十)、「ここのそ」(九十)と、「十」に当たる部分が「そ」と統一的に表現されている。
 ちなみに、「そ」について、前掲『岩波古語辞典補訂版』は「朝鮮語son(手)と関係あるか。」と書いている。『世界的に見て、五と十は『手』と関係ある単語であることが多い。」という。
 このようなことを考えると、やはり「大和言葉」というか、列島語中に「元々」存在したのは、せいぜい「はた」(20)までであり、「みそ」から「ここのそ」にしても、「そ」と朝鮮語sonとの関係が指摘されているように、当時、列島で話されていた各種の言語(前日本語や前朝鮮語、前中国語、その他等々の語)から、言葉を選び出して、漢字・漢語の「訓読み」、つまり「新生大和言葉」が新たに制定されたのではないかと考えるのである。
 実際、「みそひと」や「いそろく」などは、完全に「三十一」や「五十六」という漢語の言い換えに過ぎない。

七 この問題に対する筆者の認識の推移

 ここで、この問題についての筆者の認識の推移について述べるならば、20より上でなくても、11より上の数を示す言葉は、漢語到来以前の「大和言葉」にはなかったのではないかという見解は、中国語を学びだした学生時代、既に感じていたことである。しかし、その後、かえって日本の歴史や古文を勉強したことがあだになり、「ヤオヨロズの神々」などといった言葉に幻惑され、明白な確信を失ってしまったのである。それが最近、書道家・石川九楊氏の日本語論や講演を聴くにつけ、ようやく思想を解放され、「ヤオヨロズの神々」のように「日本古来」と言われてきたものの正体が、実は中国漢字文明の影響によって、比較的「新しい時期」(8世紀)に「制定」されたものではないかという確信を持ってきたのである。
 筆者が、「日本古来」の「ヤオヨロズの神々」に「呪縛」され、長らく思想を「封印」されてきたのも、日本が中国文明の多大な影響を受けてきたことを認識しながらも、まだ「古来の日本」などというものが存在したという本居宣長的誤謬を完全に克服し切れていなかったからである。
 その後、内藤湖南の日本文化に関する著作を読み、「日本文化」なるものが最初から存在し、それが中国文明を取捨選択して発展したのではなく、長年かけて中国文明の流入によって日本文化というものが形成されたのだというはっきりした認識を持つにいたり、さらには石川九楊氏の著作によって、最終的に学生時代の直感の基本的な正しさを確信するにいたったのである。

八 数を表す言葉をはじめ多くの大和言葉は漢語によって「新たに作られた」ものである

 つまり、まとめるならば、中国直輸入の数に関する言葉(「音読み」の語)はさておき、数に関する「大和言葉」の大部分は、「元々あった」ものというより、漢字・漢語到来以後、漢字・漢語の「訓読み」(翻訳語)として新たに作られたものと言わざるを得ないのである。確かに、「新たに作られた」というのは、いささか極言かもしれないが、少なくとも「元々あった」としても、漢字・漢語の「訓読み」として採用される際に、新たな意味を付与され、混合再編されたものではないかと考えるのである。
 そして、数に関する言葉だけでなく、「大和言葉」と称されるものの多くが、漢語との関係において、このような地位にあるのであり、その意味では、決して「古来」(漢字・漢語流入以前)から存在していたものではない。
 実際、文字自体が中国から伝わったものである以上、「かく」という言葉も、従来、「(痒いところを)掻く」とか、せいぜい「(絵を)画く」とかいった意味しか持たなかった「かく」という言葉を、「書」という漢字の「訓読み」として採用することにより、新たに「(字を)書く」という意味を付与したものであることは間違いない。
 ここで考えなければならないのは、漢字・漢語流入当時の中国と日本との圧倒的な文明の差異である。ようやく日本列島が文明の曙光を迎えた時(それも秦漢巨大帝国が周囲に及ぼした影響の結果なのだが)、中国大陸は既に二千年以上に及ぶ文明を経て、巨大帝国を形成していたのである。中国では全くありふれたものが、列島では「宝物」となったろう。
 我々は、一般に漢字の「訓読み」というものは、英語のriverを「かわ」、mountainを「やま」と訳するように、中国から伝わった「山」や「川」という漢字に、「日本語」の意味を付したものだと考えている。しかし、当時の中国と列島の圧倒的な文明の差異を考えるならば、ことは決してそのような単純なものではないことが容易に伺えるのである。
 そもそも、近代以前の日本の伝統文化と称されるものの大部分が中国に起源しているのであり、日本独自と言えるものなどほとんどない。恐らく、当時、漢字初学者の教科書として伝わった『千字文』に収録されたわずか千字の漢字の中にさえ、当時の列島人が見たことも聞いたこともないような文物、制度、思想が満ちあふれていたことは容易に想像できるのである。

九 まとめ
 一般に、現在の日本では、漢字・漢語流入以前から、日本語でなくても、「原日本語」、言わば「大和言葉」と言われるような立派な言語体系が存在しており、それが漢字・漢語を自らの体系の中に取り込んでいったものだと考えられている。
 国語の教科書などでも、日本語の語彙を「和語、漢語、外来語」の三種に分け、その内、「和語」を「やまとことば」とし、「漢語、外来語以外の本来の日本語」などと解説する。
 しかし、「大和言葉」(和語)なるものが、確かに日本「独自」のものであることは間違いないにしても、「本来の日本語」とする見解には筆者は与しがたいのである。
 おそらく、現在、ほとんど全てのの漢字に「訓読み」があることから考えても、「大和言葉」(和語)というものの多くは、漢語の翻訳語(「訓読み」)として新たな意味を付加され、再編・体系化されていったものと言っても過言ではないと筆者は考える。
 さらに言えば、日本語なる言語が最初から存在して、それが漢字・漢語を取り込んでいったのではなく、むしろ、漢字・漢語の翻訳作業の中で、初めて日本語と称せるような言語が編成・体系化されていったものと考えるのである。
 もとより、この日本語形成論自体、決して筆者の独創ではなく、書道家・石川九楊氏の所論に負うところが大きい。しかし、筆者としては石川氏の意を汲んだつもりでも、氏から見れば決してそうは見えなかったり、筆者自身、まだまだ汲みきれていない問題があることは重々承知している。
 であるゆえに、本論の結論は、「もとからあった」とされる「大和言葉」中の数をあらわす言葉は、せいぜい20(はた)ぐらいまでであり、それ以上の「モモ・チ・ヨロズ」などの語は、もともとは「たくさん」とか「いろいろ」というような語意しか持たなかった。それが「百・千・万」という漢字の翻訳作業、つまり「訓読み」として採用される中で、初めて実際の100・1000・10000という意味を持つに至ったであろうことを指摘するに止めておく。


2006年12月23日(2003年11月頃初稿※当初2001年としたのは間違い



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