家 族
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家族 私の兄弟妹は、私をいれて9人です。一番下の弟が66歳、一番上の兄が86歳です。 総員元気で毎年、大阪や京都で兄妹弟総員集まり、懇親会を開催しています。 2番目の兄が小学2年生の時書いた作文が出てきました。(昭和15年2月に書いた作文) 家族って何だろうと改めて考えてみました。私が3歳・兄が8歳です。 作文を原文のままを転載してみます。さだおが私です。(小学2年は当時尋常小学校) |
1) ぼくのおとうと (作文) 鳴門西校 岡島強 尋常小学校2年生(昭和15年2月当時の原文のまま) 「 ぼくのおとうと 」 ぼくが、がっこうからかへって、「ただいま」というと、さだおがすぐとんで出て来て、 「にちゃん」と、大きなこえでいがります。 ※(徳島鳴門地方の方言で大きな声のこと) おかあさんが「おかえり」といひますと、さだおもまねして「おかえり」 おひるごはんをいただいて、ぼくがべんきょうしていると、さだおが「ぼくも本かして」 と、むりいふのでかしてやると、さかさまにしてよみます。ゑを見てよみます。 よんでしまって「ようよむだろう」とじまんするので「ようよまん、そんなんあかん」と いってやるとおこって、本をたたきます。「ようよむ甲上じゃ」と、いふとがんばって 「大しょうじゃ」といってえらばります(大将のこと)。 ねる時ぼくはさだおといっしょです。ねむるまえにはなしをしてと、いつでもいひます。 ぼくが「はなし」というと、「ほんなもんちがう」それでおとぎ話をしてやりますが、 話しがすまんのにしらん間にねむってしまひます。 ※(現在は鳴門市 旧板野郡で入選作) 2) 家族について 家族とは改めて考えてみます。 9人総員元気で両祖父母・両親より先に亡くなった者はいません。健康な体に育ててくれた だけでも祖父母や両親に感謝すべきと考えています。 兄妹弟は、普段は殆どと言っていいほど付き合いはありませんが、年に1回の集まりと 仏事の時に充分にこころは通っている思っています。父は、両祖父母より先に亡くなりま した。 当然に相続の問題が発生しました。 当時は、祖父母と母と長男家族が一緒に生活していました。 祖父母と母を大切にすることを条件に総員が長男が相続するように話し合いました。 兄妹弟総員高齢期に入りました。適当な者間距離を持って付き合いしています。 お互いにそれぞれの家族を干渉しないことにしています。 家族とは、亡くなった後にも残された者達のこころをつなぎ、各自の人生を顧みること、 正々堂々と王道を歩む道しるべとなるのではないでしょうか。 3) 三つ子の魂百まで 9人が、全て違う道を歩みました。 亡くなった父母に言わせれば、子供時代の様子がそのまま大人になったと話していました。 地道に家業を継ぎ妹弟のために頑張った長男、国家公務員や教師を卒業し柔道の指導者 (赤白の帯➡6~8段)で頑張っている者、弁護士、踊りの師匠、地方公務員、農業など…。 総員仕事を離れてからが忙しく、生きがいを持った日々を過ごしているように思えます。 3歳位に受けた教えは、80歳の現在でも生きているような気がしてなりません。 私のこころに残っている言葉が二つあります。母親が、私のお腹をさすりながら 「大きくなーれ、大きくなーれ」と呼びかけていたような記憶がどこかにあります。 もう一つは、私が兄に石を投げつけて、怪我をさせた時のことです。 母が、私のお尻を嫌というほどつねりながら「こんな子供を産んだ覚えは無い」と 泣きながら叱られました。 叱られながら母の愛を感じていました。不思議な思い出です。 成長し、仕事や行動において反省を必要とする場合には必ず、この言葉が出てきました。 人生の軌道修正に大きく役立ったと考えています。 大家族の生活でも子供の時代に受けた教えは人生の道しるべとなっているような気がして なりません。小さな子供には愛が最も大切ではないでしょうか。 4) それぞれの最終章 今年の兄弟妹会は、京都で行いました。 これからの人生が大切であることについて話し合いました。 今までは、体力的にも精神的にも自分の意思で行動をとることができましたが、高齢期に 入り、思うような行動が取れない場合が出てくることに備えて、どのような準備が必要か などなど話し合いました。 いよいよ「ヨーイドン」の時期になりましたと言いますと、何のヨーイドンかと…。 この世から去るヨーイドンだと言いますと、一番下の弟がやはり上から順にと……。 「ヨーイドン」はスタートに付くことであり、これからが大切な時間であるとの認識で一致。 男性は、残される家族が安心できる環境を作り、女性は、しっかりと夫を鍛えてひとりの生 活にも耐えるように教育することの大切さも全員一致しました。 シニア ライフ アドバイザー 岡島 貞雄 |