музей А.С.Пушкина

アレクサンドル・プーシキンの肖像
トロピーニン画『プーシキンの肖像』(1827)
ナタリヤ・ニコラーエヴナの肖像
ガウ画『ナタリヤ・プーシキナの肖像』(水彩画・1840年代)
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 昼食は摂らず、ロシア美術館を出たあとは、雨のコニュシェンナヤ広場を通り、モイカ運河沿いにあるプーシキンの家博物館に歩いて行った。ペテルブルグのプーシキンの家博物館は、1837年1月27日に決闘に倒れた詩人が、その二日後の29日に壮絶な最期をむかえたアパートである。
 ロシアの国民詩人プーシキンについては、これまで何度か触れてきた。ここでも詳しく、そしてなるべく簡潔に触れたいと思ったが、何から書いたらいいやら迷ってしまうので、思い切って割愛する。
 詩人を扱った詳しい伝記には、彼の祖先や出自、決して難しい言葉を使っていないプーシキンの詩の翻訳は不可能とかいったことや、詩や小説のなかで発揮されている機知があまりに見事なことや、ドン・ファン表なるものまで存在するほど恋愛に生涯を捧げたことや、数々の決闘のエピソードや、男の友人たちとの厚き友情や、意外と金のために作品が創作されたことや、皇帝や秘密警察との精神的な対立や、詩人の生涯が自身の作品とオーバーラップした悲劇的な死に方、他……どれにスポットを当てても、何らかのおもしろいネタが湧き出ているので、ぜひ一読されたい。
 私が好きな詩人のエピソードでも、おもしろいというか、ちょっぴり笑えるものがいくつかある。
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1821年ごろ、バルシ夫人が詩人を侮辱したことに対する謝罪を、詩人は彼女の夫であるバルシ氏に求めた。バルシ氏が夫人の弁護したため、詩人は氏を燭台で殴りつけた。氏は身代わりの謝罪人を詩人の前に寄越し、事件は険悪化した。それ以後、詩人は7・8キロの鉄棒を持ち歩くようになった。復讐を恐れたとも、また復讐に備えて腕を鍛えるためといわれているが、以後この鉄棒は詩人がどこに住むことになろうが手元を離れることはなかった。
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詩人がトランプをしていたとき、その相手ズーボフのいかさまを指摘して決闘になり、決闘の当日、詩人は両手にサクランボを持って現われ、相手がねらいをつけている間それをむしゃむしゃ食べていた。最初の一発をズーボフが撃ち損じると、詩人は「それで気がすんだかい?」と言った。するとズーボフは駆け寄り詩人に抱きついた。「そいつは余計だよ」と詩人は言って、自分は撃たずに立ち去った。
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南方追放時のオデッサで、穀物商リズニッチの若くて美しい妻アマリヤ・リズニッチに恋したプーシキンは、「苦痛と苦悩」を伴うこれまでにない激しい恋による嫉妬に狂い、気温35度の炎天下のなかで5キロもの道を帽子も被らずに突っ走った。アマリヤへの詩に『君はぼくの嫉妬の夢想を赦してくれるだろうか』(1823)といった痛々しい作品がある。
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オデッサで、イナゴ被害の調査を命令されて、詩人が送った報告には「イナゴが飛んでいた/舞いおりて/みんな食って/また飛んで行った」といった戯れ歌が書かれていた。
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1825年のデカブリスト蜂起のニュースを知り、ペテルブルグに駆けつけようとすると、その途中で馬車の前を野ウサギが横切り、また村を出はずれたところで坊さんに行き会ったため、詩人は不吉な予兆だと馬車を引き返した。(自分の行く手を野ウサギが横切ることを不吉だ見なすのは、ロシア古来の深い迷信である)
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といったような、断片を挙げたが、ほかにももっと有名な思わず噴飯もののエピソードは数多くある。
丁度入っていく人が写っている
プーシキンの家博物館入口。左には詩人が住んだことを示す
プレートがある。(私の撮った写真では、よく判読できなかった
のでこちらロシアンリポートのミチコさん写でご確認下さい。)
 さて、プーシキンの家博物館に入ると広い中庭にプーシキンの像があったので、ここに間違いないと改めて確信した。雨なのに訪れる人はいて、像の前で写真を撮ったり、カッサに向かうのは、やっぱりすべてロシア人だった。
 カッサではメガネをかけた白髪のおばちゃんとチケットの話が通じず20分以上やりとりした。ここでは私のロシア語能力の乏しさで、おばちゃんの話が理解できなかったのだ。私の後からきたほかの団体のロシア人客たちは、おばちゃんと少し話すと去って行った。
 少し興奮した私は、とにかく入場券がほしいと言い続け、おばちゃんはチケットに「16:00」と青ペンで書いて渡してくれた。私は20ルーブル払ったが、すこし興奮したおかげで折り畳み傘を忘れる破目になった。
 あとでよく考えたら、私が、комментарий;объяснение;пояснение;разъяснение,сопровождение;провод;справка;уведомлениеといった単語を聞き取れず、また知らなかったことで話がこじれたんだ、そうだったのか!と、ものごとを理解できた。これらのロシア語は「解説・ガイド・案内・ツアー」といった意味なのだが、カッサのおばちゃんは「館内レクチャーが16:00開始だから、また後で来て」と言っていたのだ。だから、私の後に来たロシア人たちは一旦博物館から出ていたのである。カッサにいるとき、私は「館内レクチャーは要りません」と適切に返事していればものごとは簡単に済んでいたのだ。
 さらに私はチケットに記された青ペンの「16:00」を、変更された閉館時間だと思い込み、一人焦って、いくつも部屋がある館内を見てまわった。だから、「一度目」の見学は最後の方の部屋を殆ど見ることが出来ず、クロークルームから荷物を手早く引き取り、さっさと売店にて絵葉書を買う有様であった。クロークルームの女の子に閉館時間を訊ね、気の焦りからか返事が聞き取れなかった。また売店の娘は、私のふるまいを不可思議に思っていたようで、何か言いたげそうだった。
プーシキンの家博物館の中庭にて
 ところが、館内を出ようとすると、カッサで一旦博物館から出たロシア人客が、どんどん中に入ってくるではないか! その様子を見て少し考えてから、私はようやく上に書いた「館内レクチャー」を思い至ったのである。私はもう一度館内に入り、再び荷物をクロークルームに預け展示室に入った。クロークルームの女の子は、私の行動を理解したのか少し笑みを浮かべたし、売店の娘も同じような様子だったので、やっぱり恥かしかった。でも、せっかくのプーシキンの家博物館であるから、「旅の恥は、かき捨て」で、堂々と展示室に入った。もちろん、改めて言葉が通じないって不便だなぁと、まざまざと実感した。「二度目」の見学が、全くといっていいほど聞き取れないロシア語のレクチャーつきで始まった。

 さて、館内の展示内容だが、撮影はできなかったので画像はない。ただ、プーシキンの生涯に少しでも関心があったり、詩人の作品をおもしろいと思った人には、すこぶる充実した展示だったことは確かである。「一度目」「二度目」の見学から印象に残ったことなどを書こう。
 展示はプーシキンの生まれた時代から始まり、それから詩人の生涯や作品が紹介されていくのだが、セクションごとに韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』の一節がプレートに掲げられていて、詩人の生涯と関連付けられているところが、いかにも!という感じだった。もちろん、『オネーギン』だけでなくその他の小説や書簡も引用されていた。
 私が感心したのは、多くの肖像画で、少年期のプーシキンに詩の心を植え付けた伯父ワシーリイや、伯父と親交が厚くプーシキン少年にも影響を与えたカラムジンの肖像画や、詩人の学習院時代に彼の『ツァルスコエ・セローの思い出』に感動し、身を乗り出して詩人を抱きしめたことで有名なデルジャーヴィンの肖像画、南方追放されていたプーシキンを厚遇した対ナポレオン戦争の英雄ラエーフスキイ将軍の肖像画などなど、貴重なものがたくさん展示されていたことである。また、1825年12月14日の「デカブリストの乱」のデカブリスト(12月党党員)の肖像や、プーシキンの学習院(リツェイ)時代の友人で、デカブリストでもあり生涯の友であったイワン・プーシチン(1798−1859)や、同じくデカブリストになって獄につながれたキューヘリベッケルの肖像もあった。

彫刻:Н.В.Дыдыкин
建築:Н.А.Медведев
によるプーシキン像。制作は1951年。
 ところで、肖像画を描いた人の中には、アルグーノフ、ボロヴィコフスキー、グラッシといった名前もあって、国立美術館の中にあってもおかしくない画家の作品もあったのだ。絵は美術館のためだけに制作されるわけではない、と頭で分かっているつもりでも、単純に人の生涯の記録のために制作された作品を見たことは、私にとってやっぱり新鮮だったと思う。
 もちろん詩人の周囲にいた人間の肖像ばかりではなく、詩人が大いに熱中し、多大な影響を受けたバイロンのフランス語訳の詩集も展示されていて、詩人がロシア語よりもフランス語に堪能であったことをしのばせた。1820年から転任の形で事実上の南方追放時にかかわった人物や、追放された土地(コーカサス、クリミア、オデッサ、ミハイロフスコエ)などの当時の地図もあった。詩人の手による自筆原稿には、『エヴゲーニイ・オネーギン』や『ポルタワ』の草稿、数多くの詩の原稿も豊富に展示され、自筆原稿には気紛れに、時に真剣に描いたと見える詩人の手による人物のスケッチ画が描かれていた。スケッチ画の多くが横顔で、これは詩作のイメージをよりふくらませるために絵は必要なのだろうと思った。プーシキンにしろドストエフスキーにしろ、原稿に人物の絵があるのは、絵と詩が何らかの形で結びついているからだと思えた。そしてミニチュア版の青銅の騎士像、検閲にかかった『青銅の騎士』についての展示もいかにもそれらしいので、おもしろかった。
 学芸員さんによるレクチャーは美しいロシア語で続けられていたが、ときどき見学者から起こる笑い声は、きっとプーシキンならではのアネクドートが語られたのだと想像することしかできなかった。ただ、単語を聞いていると作品名や土地の名や、人物名はなんとか聞き取れたので、拾い読みならぬ拾い聞きはできた。
 そしてトロピーニンによる詩人の肖像画や、詩人が語り合った哲学者ピョートル・チャアダーエフの肖像画、プーシキンの友人で詩人の金策や債権者たちと交渉にあたったパーヴェル・ナシチョーキンの肖像画、そしてプーシキンがかつて尊敬し詩人が亡くなるころには官憲の人間となって詩人と関わることになる、詩人ジュコーフスキーの肖像画などが紹介され、プーシキンが決闘に至るまでの展示、だんだん詩人の死の影が迫ってくる展示となってくる。(博物館の建物が、元はプーシキンが亡くなったアパートだったとはいえ、残念ながら詩人が息を引き取ったベッドなどはなかった。ちなみにプーシキンの最後の言葉は「人生は終わった、息苦しい、胸がつまりそうだ……」である。)
 私の気のせいかもしれないが、館内レクチャーが終わりの方に近づき、プーシキンの決闘に関係したヘッケルン、ダンテス、詩人の妻ナタリヤ・ニコラーエヴナの名前が出てくると、館内ツアー客も神妙な面持ちに変化していった。館内ツアー客の中には、学生の女の子もいて、真剣に大きい手帳に筆記体のロシア語でメモしていたのを思い出す。
 
 館内ツアーが終わり、私は荷物を受け取った。クロークルームの女の子の笑みが、少し増していた。
 自らの勘違いで、二度も博物館を見学したが、館の中の職員さんは感じがよく、とくに『ポルタワ』の原稿があったセクションにいた職員さんが、とても親切だった。「私の愛読書はプーシキンです」といったことや、作品の原題を変なアクセントで発音する私に対して、一生懸命聞き取ろうとしてくれ、展示物についてもいろいろ説明してくれた。別れ際にたくさんお礼を言って、がっちり握手したのだが、館を出てから一度目のロシア旅行のときのモスクワのドストエフスキーの生家まで案内してくれた、あの御婦人のことをふと思い出した。

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