Государственный Эрмитаж

後ろの黄色い聖堂が、修道院内のトロイツキー聖堂
アレクサンドル・ネフスキー大修道院入口
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 ペテルブルグの2日目は終日エルミタージュ美術館(Государственный Эрмитаж)見学であった。
 朝は説明がつかない緊張感を保ちつつ、パッチリ目が覚めた。時間は早かった。私の場合、外国にくると勝手に目が覚め、規則正しい生活が訪れるようである。テレビをつけてロシアのニュースを見つつ、分かったようなふりをするのもおもしろかった。もちろん、分かったことといえば、今日は曇りで時々雨が降るだろうことぐらい(笑)。
 バイキングの朝食を摂った後は、集合まで時間があったので、ホテル傍のアレクサンドル・ネフスキー大修道院に足を運んだ。ネフスキー大修道院はペテルブルグの信仰中心としての役割がある寺院である。
 20分程度ではあったが、その神秘的な雰囲気に恍惚となったり、ミサの旋律に聞きほれ、ロウソクを一本捧げたりと、日本で体験することは難しいロシア正教の営みを体験した。
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建築は1712−22年と修道院内で最も古い。
修道院内のブラゴヴェーシェンスカヤ教会(設計者はD・トレジーニ)
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 修道院の名称になっているアレクサンドル・ネフスキーとは何者か?
 日本でいう鎌倉時代、北条氏が執権政治で権勢を振るっていた頃、モンゴルのチンギス・ハンの孫バトゥを総指揮官とする西方遠征軍は、ルーシのウラジーミル大公国を撃破したりしていた。ユーラシア大陸ではモンゴル帝国建設の勢いがルーシの公たちに影響を及ぼしていたのである。そんな時代の北西ルーシにノヴゴロド公のウラジーミル大公ヤロスラフの子アレクサンドルという人物がいた。
 ノヴゴロド公であるアレクサンドルは、モンゴル(タタール)に逆らわず臣従したことで、「ウラジーミル大公」の称号を授かるが、北西からスウェーデンが迫った時にはネヴァ川に急行し、1240年ネヴァ川の河岸でスウェーデン軍を撃破した。このスウェーデン軍に対するアレクサンドルの勝利は、ロシア人の心に根づき、時代を経てアレクサンドルの名は「ネヴァ川の」を意味するネフスキー≠フ名で親しまれるようになる。(ちなみにアクサンドル・ネフスキー大修道院はネヴァ川の戦いに勝利したと思われる場所に建てられている)
 アレクサンドル・ネフスキーが指揮して勝利した戦で、もう一つ有名なのは、こちらでも少し触れたチュド湖におけるドイツ騎士団との戦いである。この戦いは、いつしかカトリックに対する正教の勝利と見なされるようになり、アレクサンドル・ネフスキーはイワン雷帝の治世の初期に入ると、聖人に列せられるほどになってしまう。彼を聖人や英雄扱いするロシアの慣例は、16世紀以降、20世紀に入っても変わらなかった。
 それを説明する例の枚挙にはいとまがないが、ペテルブルグとソ連のことに限れば以下のようなことがある。1710年にはピョートル1世がペテルブルグの建都とともに、このネフスキーの名を冠する大修道院(くどいようだが、これが現在のアクサンドル・ネフスキー大修道院)を起工させ、1724年にはウラジーミルにあったアレクサンドル・ネフスキーの聖骸をペテルブルグに移す命令を出した。爾来、アレクサンドル・ネフスキーはペテルブルグの守護神とされるようになる。エリザヴェータ女帝の時代に入ると、女帝は彼の聖骸を納める巨大な銀の容器を作らせ、修道院内のトロイツキー聖堂に改葬し、彼への信仰を奨励した。またソ連体制の理念上、個人崇拝を認めることは出来ないはずのスターリンも、対ドイツ戦の功労者への勲章を「アレクサンドル・ネフスキー勲章」として、軍の意気の高揚や褒賞に利用している。
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 修道院の敷地は本当に広く、墓地が三つに、こういった聖者?の碑もある。この碑に限っては2002年と表示があったので、最近つくられたものと思っているが。
 碑に彫られている姿は、パナギヤの聖母やズナメーニエの聖母の形に似ていて、救世主を受胎した聖母という文字があった。
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 時間になったのでロビーに集合し、それからバスに乗り込んだ。エルミタージュ美術館に向かうまで、今日・明日の天気が曇りまたは雨であることを心のなかで嘆き、何となく悪い予感を抱いたものだったが、その予感は的中した。大抵の場合、雨であることは、平日でも混雑する美術館が、屋内ということで更に混雑することを意味するものだ。
 さて、これからエルミタージュ見学になるわけだが、のっけからストレスを溜めるできごとに見舞われた。
 入館できたのはいいが、荷物を預けるクロークルームまでの行列が大変だった。荷物を預けるまでに1時間くらいかかったように記憶している。大勢の客に対し、クロークルームに一人でいる職員の男性はそれでも、俺がいるからお前たちは館内を見れるのだ、みたいなごう然とした態度で、ゆっくりと対応している様は、いかにもロシア的であった。
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 ゲートをくぐってエルミタージュの主階段に向かう。中央に小さく写るっているのは、ペテルブルグのタウリス宮殿から運ばれた「聖母」の像。
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ここで火薬が!?
エルミタージュ美術館の主階段(ヨルダンの階段)
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 エルミタージュ美術館の構造や歴史については、私自身予習して行かなかったし、そんなに関心を持っていたわけではないので、たとえばこのヨルダンの階段を彩る像の一つに、A.I.テレベネフの「公正な裁判の比喩的彫像」(1839)とか説明を受けたが、いまいちピンとこなかった。私にとってはこの階段がエイゼンシュテインの映画『十月』で実際に火薬が使用された場所としての印象の方が強かったのだ。こんな豪華な場所に、よくぞ大人数の革命の民がなだれ込む驚愕させる場面をつくりあげたものだという関心の方が、私を惹きつけるのだ。
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