Санкт Петербург

イサク大聖堂の屋根はキラリと光る
ワシリエフスキー島の元芸術アカデミー前のスフィンクス像と街灯。大ネヴァ川の向こうにイサク大聖堂。

 個人的な体験から、可能であるならば、ペテルブルグの風景をたのしむなら昼間ほどの渋滞がない朝から周るのがいいと思った。あと付け加えるなら、天気がよければなお良いこと、そしてプーチンや外国からのVIPがサンクト・ペテルブルグ入りしていない日であれば、さらに良い。たかだか数十人のVIP関係者たちのためだけに、大掛かりな交通規制をされると、本当に迷惑…。
イサク大聖堂
イサク大聖堂
台座の彫刻もみごとなものだ
ニコライ1世の騎馬像
 ペテルブルグの主な観光地の一つであるイサク広場には、世界で三番目に大きいといわれるイサク大聖堂と、ニコライ1世(1796.6.25−1855.2.18)の騎馬像がある。
 イサク大聖堂についてはのちにふれるとして、ニコライ1世は先帝アレクサンドル1世とともに建築家を庇護した皇帝であり、現在のペテルブルグの名所にニコライ1世が建てさせたものも少なくない。また都市整備やロシアで初めての鉄道を敷くなど、称賛すべき業績もある。
 しかし、私の持っているニコライ1世のイメージは、プーシキンを飼い殺した皇帝であり、プーシキンの妻ナタリヤを密かに追い掛け回していたかもしれない皇帝であり、さらに1849年に逮捕したドストエフスキーらに死刑を宣告し、執行直前に懲役刑に減刑するという「慈悲深い」ことを行なった皇帝というイメージが強い。
 なお騎馬像は、後ろ足の2本だけで高さ6mもの銅像を支えている代物である。彫刻はP・クロット、建築はイサク大聖堂を再建したO・モンフェランである。制作は、1856−59。
さすがに朝は車も少ない
これもイサク大聖堂
 写真では分かりづらいが、近くで見ると本当に大きいのだ。
 バスが走っている間に、いろいろな建物の説明を受けたが、なかなかそう簡単に記憶できるものではない。だが、由緒があったりきれいな近世・近代のデザインの建物がほんとうに多く、第二次大戦中に町が多くの被害を受けたとは思えないくらいだった。
 サンクト・ペテルブルグのすばらしいところは、町の中心部に現代的な高層ビルがまず見られないことと、新しく建った建物もどこか周りに配慮したデザインにしているところではないだろうか。
ニコライはサンタクロースのモデル?
ニコライ聖堂
 左はマリインスキー劇場からそんなに離れていない場所にあるニコライ聖堂。1753年6月に起工され、完成したのは9年後。設計は建築家のС.И.チェヴァキンスキーによる。

 聖堂の名前の由来となっている聖ニコライは災害救助の聖人である。海で沈みかけていた船を聖者が奇蹟を起こして助けたとかいう伝説がある。ニコライは4世紀前半中央アジアのミラという町の大主教だったそうだ。

 聖堂は町のすぐ近くがフィンランド湾であったり、広大なネヴァ川や町のあちこちに運河がつくられ、海運が盛んなペテルブルグだからこそ建てられたといえる。マニアックな話だが、下の方の写真のシュミット橋(かつてのニコラエフスキー橋)にも、かつて聖ニコライの小礼拝堂があって、ドストエフスキーは傑作『罪と罰』のなかで主人公ラスコーリニコフの運命を、聖ニコライに見守らせているという(江川卓著『謎解き「罪と罰」』(新潮選書)p126)。

 聖堂内には入らなかったが、この聖堂でドストエフスキーが最初の妻と結婚式を挙げたとかいう説明を受けた時には、??と思ってしまった。
 あとで調べてみると、作家は二人目の妻アンナ・スニートキナと、イサク大聖堂からずっとずっと南に行き、運河を二つ越えたところのイズマイロフスキー通りの西側にあるトロイツコ=イズマイロフスキー寺院で挙式を行なったことが判った。現地ガイドさんも時に記憶が曖昧になることがあるみたい…。なお、トロイツコ=イズマイロフスキー寺院の画像はこちらロシアン・リポートのミチコさん写)。

遠くからみたらもっときれいな建物である
芸術アカデミー(現国立レーピン絵画彫刻建築大学)
 ワシリエフスキー島にある芸術アカデミーの創立を提唱したのはイワン・シュヴァロフという人で、アカデミー創立は1757年。ここで多くの芸術家たちが育った。アカデミーの中には、美術館には展示されていないロシアの画家や彫刻家たちの貴重な作品が数多くあるそうだ。(写真としてはミスショット…)
朝だから車も大いに飛ばしている
芸術アカデミー前の大学海岸通りと、レイチェナントシュミット海岸通り
 幅の広い通りには、市電の線路やトロリーバスに電気を送る電線が見られる。
 なおこの通りをずっと行き、右方に現われる24条・25条通りに曲って突き当たると、レーピンの証言するところの1866年にアレクサンドル2世暗殺未遂事件を起こしたカラコーゾフの処刑が行なわれたスモーレンスコエの原がある。
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エイゼンシュテインの『十月』でもおなじみ?
スフィンクス像
現在、聖ニコライの小礼拝堂はない
シュミット橋
 このシュミット橋は19世紀にはニコラエフスキー橋と呼ばれていた。私にとっては『罪と罰』の第二部で主人公のラスコーリニコフが鞭で打たれてしまったあと、橋の上から20カペイカ銀貨を水中に投げつけた場面の橋として感慨深い。ドストエフスキーが健在だった頃は、橋の上に聖ニコライの小礼拝堂が建っていたそうである。
 この橋は跳ね橋でもあり、白夜の季節の深夜の一定時間には橋の中央が空高く屹立(きつりつ)し、高さのある帆船がネヴァ川を自由に行き来する様子が見られる。同時にそれは幾つかの大きい島から成り立つペテルブルグの人々が、不自由を蒙ることを意味する。なぜなら、橋が「無くなる」ことで、車ではもちろん歩行での往来すら出来なくなるからだ。
 そのことと跳ね橋の周りに花屋があることの関係というか、水の都ペテルブルグならではの小噺(習慣)を知った。小噺によれば、家で待つ妻への帰宅が遅れた夫の理由として、跳ね橋のせいにすることはペテルブルグでは当り前になっている。だから夫は妻のために、立ち往生した橋のたもとや島で花を買って帰るから、転じてそれは花屋の商売が成り立っていることの大きな理由にもなるとのことだそうだ。
 左のスフィンクス像は芸術アカデミーのすぐ前にあるもので、そこにはK・トンの設計による厳格なクラシシズム様式の船着場がある。スフィンクス像はエジプトのナイル川沿岸のフィヴァという街で3500年前ほど昔にピンク色の花崗岩から彫られたもので、ロシアがエジプトから購入し、1832年に船底に積まれてエジプトから運ばれて来たものだという。
 この像はエイゼンシュテインの映画『十月』(1928)で跳ね橋の先端から白い馬がネヴァ川に落下するシーンのモンタージュでも用いられていて、その映像たるやものすごいインパクトがある。(ちなみに白い馬の落下シーンに登場する跳ね橋は、海軍省や冬宮(エルミタージュ美術館)の傍にかかる宮殿橋ロシアン・リポートのミチコさん写))
尖塔の天辺には天使が…
ペトロパヴロフスク要塞と聖堂
 ペトログラードスキー島のクロンドヴェルスキー大通りから、ペトロパヴロフスク要塞とその中にある聖堂を撮る。聖堂の鐘楼(尖塔)の天辺には十字架をもった天使の彫像があり、サンクト・ペテルブルグを祝福しているという。
巡洋艦のうしろに小学校
巡洋艦オーロラ
 この灰色の巡洋艦はペテルブルグのガイドブックには必ずといっていいほど載っているオーロラ号。1917年10月のロシア革命の始まりを合図して冬宮(エルミタージュ美術館)に向けて発砲したことで知られている。もちろんエイゼンシュテインの『十月』にも登場して、作品の中では本当に発砲しているからすごい。私にとってこの巡洋艦はサンクト・ペテルブルグの古都の雰囲気からすると、近代的なものが突如現われたように映った。そのせいで、かえって目立つように思えた。
左下に見えるの橋は、サンプソニエフスキー橋
エアコンの宣伝看板
 トイレを利用させてもらうため、大きいホテルに寄った。
 ホテルから出ると、よく町でみかけた看板があったので撮った。写真からも分かるように、日本企業の製品の宣伝である。「空気の権利はあなたのもの!」ってことか。ロシアでは電化製品・自動車・タバコなどの日本企業の看板も珍しくない。

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