無上正等菩提:この上もなくすぐれた仏のさとり。大涅槃
正等:等は平等。仏果にいたって一切諸法すべてのものを平等とさとる。
五無間:地獄を五種にわけて五無間という。五無間罪は五種の無間地獄に堕ちる罪。五逆罪
(星野)
(試訳)如来の所有の善根(お念仏)を回向してくださったのを、衆生が歓喜愛楽して、無量寿国に生まれたいと願うなら、(如来の?衆生の?)願に随って、みな生じて不退転乃至無上正等菩提をうる。以下略
三信釈の欲生釈。『欲生は回向心である。』なぜそのようにいわれるのか。最初の引文は18願成就文の至心回向したまへり以降を欲生心成就の文として引いておられる。二つ目の引文が如来会から。回向の内容が「所有の善根」であることが出ている。「願に随いて」の願は如来の願か、衆生の願か。「不退転乃至無上正等菩提」とはどういうことか。不退転から無上正等菩提へ必ず皆いくのか。時間がかかるか。
奢摩他:梵語シャマトハ(Samatha)。止、止息、寂静、能調等と訳す。禅定のこと。外境の刺激の為に、心を動かさず、乱想を止めて静寂なること。
毘婆舎郡:梵語ヰパシュヤナー(Vipasyana)。覩、観察、正見と訳す。明らかに又細かに諸法を観察すること。
生死稠林:迷界のこと。生死の世界は、恰も稠密なる林の如く、一度迷い込めば、何処をみても、陰森として、涯〈はて〉しがない。故にこの名あり。
「回向したまへる。故にとのたまへり。回施したまひて。往生せしめたまふなり。向へしめたまふなり。のたまへり。のたまへり。」敬語の主語は如来といわれる。それならば敬語になっていないところの主語はすべて仏道を歩もうとする人と考えていいのだろうか。文法的に敬語を一箇所にまとめて使われているので、すべて主語は如来なのだろうか。作願するのは誰か。生死稠林に立ち返るのは誰か。法蔵菩薩とおきかせいただいた記憶がある。しかし決心する心は私においてであり、生死界に戻ってはたらく身は私の身を除いてないように思われるのだが。
一切苦悩の衆生と自覚できない。世間ではどちらかがいいおもいをして、そうでないほうはひどい目に合っている。いいおもいをしているときは苦悩の衆生とはとても思えない。
「順境をばかにしてはいけない」と。逆境にも順境にも仏法のために出来ることがあるとお聞かせいただいたことがある。
回向とは何か。愛情もしくは慈悲のようなものか。私達のすることならば子供のためによかれとおもってやったことが子供を損ねてしまうことがある。
回向の目的は仏道成就。これは世間心では思い及ばない。
善智識とは、師匠と弟子の関係。師匠弟子の学習モデルでは弟子の意欲が重要である。模倣と型を重視する徒弟制度で独創性のある人が育てられることに驚かされる。まずは聞く姿勢が求められている。
最近の学生にとっては授業とはつけっぱなしのテレビのようなものらしい。そのようにしか相手に受け取られていなくとも、いろいろ通じないことがあっても、仏教にふれていることでこのような状況が私に与えられているのは、まさに働き盛りの舞台としてありがたく頂く気持ちになる。
光明団のHPで、人間関係は「懇親」(べったり)と「隔執」(壁)のどちらかしかないと夜晃先生がいわれている。遠く通じるに四海の内皆兄弟というのは帰る場所が同じところをもつということ。私が真実の歩みをしているか。
往相回向と還相回向。何度も聞かせていただいているがよくわからない。
『論註』の中でこの部分は「五念門を出だす」と五念門とはどのようなものか説明してある。「五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得」からである。この引文の往相までの前半は行巻(12/19)に、後半の還相の部分は証巻(12/122)に引かれている。欲生釈に往相と還相ともに引かれていることを藤場先生がご指摘くださっている。曇鸞大師の文脈でいうなら、この部分は人のなすべき行として読める。
しかし教行信証の中で、論註ではなく「浄土論に曰く」といわれている。「いかんが回向したまへる。」これは教行信証の文脈では「如来が回向してくださるとはどのようなことなのか」と聞こえる。如来の回向には往還二種の相がある。往相とは如来がご自分の功徳を衆正に回施して、共に往生させてくださる。この「共」がよくわからない。法蔵菩薩はご自身の願で浄土を建立されようとなさっている。成仏されたのだからすでに完成されているから、私達はそこに生まれたいと願えるのだと思っていた。法蔵菩薩も共に往生されるとはどういうことなのだろう。浄土とはすでに出来上がっているものとおもっていたが。
私にそこに行く力がないから、そちらから来て私の中に浄土を建てくださるという大仕事をしてくださっているのですね。
「還相」はさらにわからないので、証巻まで保留。