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現代伝説考(1)

---恐怖と願望のフォークロア---

****** 目次 ******

*** まえがき ***

第1章.異空間伝説
 1.試着室・トイレ・風呂場
  1-1.試着室
  1-2.トイレ
  1-3.風呂場
 2.学校・寮・下宿
  2-1.学校
  2-2.寮・下宿
 3.医学伝説
 4.劇場系
 5.特異空間
  5-1.特異な空間
  5-2.自殺の名所
  5-3.縁切り伝説
 6.異国・異界・境界
  6-1.外国
  6-2.異界
  6-3.トンネル・川
 7.密室の世界
  7-1.民家・アパート
  7-2.事業所関連
  7-3.ホテル・旅館
  7-4.百貨店
 8.二次元空間
  8-1.鏡の中
  8-2.ブラウン管の向こう

第2章.高速移動する密室・現代カー伝説
 1.事故と霊
 2.妖しげな事故
 3.車とともに移動する霊・妖怪
  3-1.高速伴走するお化け
  3-2.消えるタクシー客
  3-3.つれ去られる話
 4.車とジンクス

第3章.人体と人格のメタモルフォーシス
 1.人体断裂
 2.人体消滅
 3.人体の部分
 4.異形の人
 5.人体異常
 6.人形
  6-1.リカちゃん人形解体
  6-2.動く人形の怪
  6-3.福と呪いの人形

第4章.食の怪
 1.不気味な食品
 2.人肉食品
 3.インチキ食品
 4.食事行為
 5.ビジネスと食品

第5章.奇人・変人・怪人伝
 1.奇人・変人
 2.怪人
 3.あやしげな行為
 4.著名人・職業柄・県民性
  4-1.著名人伝説
  4-2.職業柄
  4-3.県民性

第6章.美女と湖水のフォークロア
 1.水と女
  1-1.深泥池伝説
  1-2.水と女性の霊
 2.水と死体
 3.水と霊・祟り
  3-1.水の特異空間
  3-2.過去の水・現代の水
 4.水と妖怪
  4-1.河童
  4-2.蛇
  4-3.ペットボトルと現代伝説


*** まえがき ***

 これは、1994年10月から3ヶ月間にわたってNIFTY SERVE「現代思想フォーラム(FSHISO)」に設けられた、「現代伝説研究会議室」での投稿発言を素材としたものです。その投稿ログから噂話を抜粋整理し、筆者の観点から論考を加え独立した作品といたしました。

備考
・投稿からの引用文は字下げインデントしてあります。
・『 』内は投稿番号と筆者が付けた仮見出です。
・《 》の部分が投稿文からの引用です。
・引用文の投稿者は巻末にNIFTYハンドル名を一覧記載します。
 [一覧]

筆者 何何何? (NIFTYハンドル名)
メールアドレス naniuji@zeus.eonet.ne.jp
公開サイト 書籍デジタル化委員会
URL http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/




現代伝説考(1)

---恐怖と願望のフォークロア---

第1章.異空間伝説

 かつての伝統的な村落共同体は、それ自体がひとつの閉鎖空間であった。外部との交流がすくなく自足的で閉じた社会をなしていた。そのような閉じられた空間で、独自の民話が語り継がれてきたのである。

 しかし現代の都市文明ではそのような地域的閉鎖性はほとんど解体され、共同体の構成員のあいだで共有されていた伝説は成りたたなくなっている。では、そのような現代都市空間でいまなお語りつづけられる伝説とはどのようなものだろうか。

 地域的閉鎖空間が崩壊する一方で、近代の都市には疑似密室的な空間が多くみられるようになってきている。新宿副都心にそびえ立つ高層ビルのひとつひとつも、それ自体がある種の密室だろう。ビル内のエレベーターやトイレも、当然ながら密室性をもっている。また高速道路を疾走する自動車も、かつては見られなかった移動する密室空間だとも考えられる。

 このように共同体的な閉鎖性が消えていく一方で、現代の都市生活では個別的な密室空間が増殖しつつある。それは、われわれの現代都市文明の特長のひとつであるだろう。そのような観点から、現代伝説にあらわれる特異空間に着目してこの考察をはじめてみたい。もちろんここでいう空間とは、現代人がもつ「意識」の別名でもある。

1.試着室・トイレ・風呂場

 ここにあげた空間の共通性は、人が裸になる場所だというところにある。現代人は他人に裸を見せる機会がすくなくなる傾向にあり、やむをえず裸になる場所は多かれ少なかれ個室性・密室性をおびてくる。

1-1.試着室

 おもえば人が身にものをまとうという行為は、人間が他の動物と分かたれる文化的原初のひとつであろう。とすれば、人は衣服を脱ぎ裸になるとき、日常性の中で隠ぺいされている遠い原初の秘密をかすかに想い起こすのかもしれない。いまこの秘密を正鵠にいいあてることはできないが、このような日常の切れ目から、潜在的な物語がつむぎだされてもおかしくはないだろう。まずは投稿の中から、このような裸になる場所にまつわる噂話をいくつか挙げることからはじめてみよう。

 『試着室ダルマ』と称されて、若い女性のあいだを中心に流れている有名な噂話である。『オルレアンのうわさ(*1)』がその源流にあることは想像に難くないし、『うわさの本(*2)』でもとりあげられている。このように、書籍などを通じて二次的に流布していくのが現代伝説の一特長でもあるのだが、いまはこの点には立ち入らないでおこう。

 このようにいくつものバリエーションがみられるが、日本人の若い女性がヨーロッパなどの都市のブティック試着室から誘拐され、東南アジアやアラブなどの途上国であられもない姿で発見されるというところが共通している。

 試着室のもつ象徴的な意味はいくつも考えられるだろう。ただここでは、多くの人が出入りするブティックのなかでの個室・密室であること、そして若い女性が衣装を着がえる場所であることに注目しておきたい。

 個室・密室ではなにが起きるかわからないという不安がある。それがこの話題の伏線となっていると考えられる。また、衣装を着がえるというのはある種の変身でもある。美しく着飾るという快をもつとともに、自分が自分でなくなっていくという潜在的な不安も考えられる。そのような願望と恐怖のアンビバレントな気持ちで鏡に映るわが身をながめているとき、突然どこかへつれ去られたとしたら……。

 自分がこれからどうなっていくかわからないという不安は、まだ身の定まらない若者、とくに若い女性には共有されやすい心情であろう。それが海外旅行中のブティック試着室から消失するというドラマティックな舞台設定と共鳴現象をおこして、噂を語りついでゆく原動力になっていると考えてもおかしくはないであろう。

 そして結末は一転して、手足を切られた人間ダルマで見せ物にされるという無惨な状況で発見される。しかし、この話は主人公の女性に同情するような悲劇としては語られていない。むしろ、海外旅行という晴れやかな場から極端な落差のあるオチは、突き放した滑稽ささえ感じさせる。おそらくこの噂をつたえあう場では、軽い笑い話として終わる状況が想像される。現代伝説は、このような恐怖と滑稽が抱きあわされたところで生命をもつのであろうか。

 またこの話題には、二重の変身が重ねあわされているところにも注目しておきたい。美しい衣装に着替えるという望ましい変身と、人間ダルマにされてしまうといういささかグロテスクな恐怖の人体変形とが。このようなロマンと恐怖のメタモルフォーシスは、人格の変貌と多種多様化といった現代の思潮とも接点をもってくると考えられる。このあたりの主題は、あらためて人体変形と人格変成の章で取りあげることになるだろう。

 なお、この種の話がたんに書物などの受け売りではなく、口づての噂話として語られているという証言をいくつかあげてつぎの話題にうつろう。

(*1)『オルレアンのうわさ』エドガール・モラン 著(みすず書房 1973)
(*2)『うわさの本』別冊宝島(92)(JICC出版局 1989)

1-2.トイレ

 トイレという場所も、部分的にであれ肌をあらわにする密室である。今回の投稿にはトイレに関する噂は比較的少なかったが、古くには、カワヤの神さまが現れるとか河童にシリコダマをぬかれるといった数多くのカワヤ伝説があった。この河童伝説と関連がありそうな話をひとつあげてみよう。

 便器からでてきた猿の手というのもある種の妖怪にちかく、シリコダマをぬきにくる河童と共通性がある。ひとむかし前まで、民家のトイレは母屋から廊下づたいにはなれた場所にあったり独立した小屋であったりした。そのような薄暗い個室で不安定な姿勢で尻をだしていたりすれば、気味のわるい妖怪がせまってくるような妄想をいだいてもおかしくはない。そのような雰囲気のなかで、さまざまなカワヤ伝説がうまれたのであろう。

 ところが現代の住宅では、日常の生活の場に明るく清潔なトイレがしつらえられている。かつてのような汲み取り式ではなく清潔に水洗化され、洋式の座式が大勢を占めさらにはシャワー式洗浄器なども普及する時代である。このような環境では、もはや妖怪たちは棲息する余地もないだろう。たしかに、現代は妖怪には棲みづらい時代となっている。

 そんななかで、学校にだけはいまでもトイレ伝説が命脈をたもっている。上記の話も高校が舞台であるが、どちらかというと小中学校の子供たちのあいだで活発な噂が語られている。いわく「トイレの花子さん」、「赤い紙青い紙」、またその変種とおもえる「赤マント青マント」などなど、このような話が現実的な恐怖感をもともなって流されているのである。

 噂を形成しやすい学校空間の特殊性はあとでふれるとして、投稿された「トイレの花子さん」の例を引いてみる。

 雑誌などにもよく紹介されている有名な怪談である。そういう意味では、二次情報が全国的に展開されている例ではある。しかし大半の子供たちは、あくまでもそれを噂として耳にし、また口づてにつたえていくのである。そのようすを示す証言をあげておこう。

 ついでにもうひとつ、なんでもない話ではあるが。

 ここで出てくるのは妖怪ではなく、ちょいと変なおじさん、すなわち変人奇人である。さきにふれた「トイレの花子さん」や「赤マント青マント」もその姿は具体的には報告されていないが、なにがしか人の姿かたちをしていることが想像される。すくなくとも、河童などのように他の動物をグロテスク化したような妖怪の姿をしていることはない。

 現代の伝説では、かつてのように自然と密接なつながりをもって空想されたような、動物の姿をデフォルメした妖怪はあまり登場しない。有名な「口さけ女」にしても、戦前から存在していた「怪人赤マント」にしても、あくまで怪人・奇人・変人の系列につらなる「ヒト」であるとみなせる。妖怪よりも人間そのものが恐怖化の対象とされやすいところに、現代人の心性が見いだされるようにおもわれる。

 話題をトイレにもどすと、一般家庭のトイレは明るく快適になりもはや怪談の発生の余地はなくなった。そして、学校のトイレのような公共性のある場所で、しかも閉鎖的な同質集団が利用する特殊な状況でのみ怪談が発生するのであるかと考えられる。しかもそこに登場するのは、かつてのように自然との境界に棲息するような妖怪ではなく、人間そのものが恐怖化されて表象されているかのようにおもわれる。

1-3.風呂場

 裸になる場所といえば当然風呂場があげられる。風呂場には、温泉や公衆浴場のように多数がいっしょにはいる公共性のあるものと、家風呂のように個別性をもったものとがある。前者は密室とはいえないが、後者はトイレとならんで個室性・密室性をもったプライバシーの場でもあろう。まずは後者の例からあげてみよう。

 この投稿に触発されてでてきた、よく似た事例をもうひとつ。

 浴室で老人などが亡くなることは、少なくはないとおもえる。浴槽に浮かぶ老人死体の光景からは、なにがしかの孤独感と悲惨さがうかがえる。また、それを発見した家族の衝撃も大きなものであるはずだ。そのような家族から、出来事が積極的に口外されることは考えにくい。

 ところがいずこともなしに話がもれると、部外者の口さがない噂話へと発展されていく。そのような過程をへて、このような「人間ちり鍋」や「人間スープ」が作られていくのであろう。「試着室ダルマ」のような若い女性だと、いくばくかのロマンやエロスも共有される余地があるが、浴槽の孤独な老人死体にはそのようなロマンは含まれようもない。

 ロマンなき恐怖は無惨なだけである。とすれば、そのような状況はできるだけ遠ざけておきたいという心理がはたらく。それには、滑稽化して笑いとばすのがいちばんということになろうか。試着室から消えさる若い女性にはいささかの秘密のにおいが漂うが、浴槽での老人死体のプライバシーなど一顧もされようがない。同じ密室であっても、主人公によってはまったく意味の異なった物語となるようである。

 多数の出入りする公衆の浴場にも「老人死体」は登場する。

 この投稿に連動して後日に掲載されたコメント投稿を、続けてあげてみよう。噂話の伝わり方に妙があるので、長めに引用してみる。

 この「お稽古の先生」からさらに別の人に伝わっていくとき、「M温泉で実際にあった話」となってしまうのかもしれない。それにしても、このお師匠さんの言葉をかりるまでもなく、この老人死体もたぶんに突きはなされた語られかたをしてゆくことが想像される。たくさんの人が出入りする公衆浴場や温泉の浴槽で、ひとり寂しく沈んでいる老人の死体。これには、大都会の雑踏のなかでの孤独といった、都会生活者の疎外感のような意識が重ねあわされているとも考えられるのではなかろうか。

 さて、この論考では「水」のもつ意味がひとつの主要テーマになる予定である。ここでは、風呂の水ないし湯がもつ意味に簡単にふれてみよう。都会生活は、かつての伝統的社会とくらべれば相対的に自由ではある。しかし、当然のことながら無際限の自由などはなく、われわれは目には見えにくいさまざまな糸にしばられている。このような都会生活者を水族館の魚にたとえてみればどうだろうか。目には見えない透明な水、しかし魚はその外に出ることはできない。

 もちろん物理的には都会から出ることはできる。しかしながら、たとえ外に出たところで、さまざまな都会生活のしがらみから完全に自由になることはないだろう。かつての田園生活はノスタルジーのなかにだけあって、たとえ物理的には田園にもどったとしても、それはかつて存在したような田園生活ではない。また村落で生まれそだって生活しているとしても、TVをはじめとする都会の情報がかれらを取りかこんでいる。われわれのまわりには、すでにそのような象徴的な意味での「都会」が蔓延しているのである。

 このような目には見えない透明な「都会」を水族館の水にたとえれば、現代人が水族館の魚として生活せざるをえない状況もうかびあがってくる。ここで風呂の水底に沈む孤独な老人死体は、群衆のなかでの孤独をかこつ現代都会人と重ねあわさって見えてくるのではないだろうか。もちろんここで都会とは、目にはさだかに映らないもうひとつの大きな密室、という意味をおびてくるのである。

 この項では、都会・水・密室という象徴的な関連を指摘するにとどめてつぎにうつろう。

2.学校・寮・下宿

2-1.学校

 ここでは、学校・寮・下宿といった同年齢同質的な人間のあつまる場所での伝説を取りあげてみよう。

 学校の噂話が、一冊の書物にもなるぐらい(*1)たくさんあることには注目すべきだろう。全国の公立小中学校はほぼ同じような造りになっていて、そこに同年齢の同質的な生徒たちが長時間をすごしている。かつての伝説をうみだした閉鎖的な地域共同体が崩壊したいま、その疑似的な機能を学校がになっているとも考えられる。

(*1)『学校の怪談:口承文芸の展開と諸相』常光徹 著(ミネルヴァ書房1993)

 ただし、伝統社会で長老から子供へ語りつたえられたような垂直的な関係はなく、子供どうしのあいだで水平的な共鳴現象をおこすような形で伝播していくのが大きな特長である。さらに、TV雑誌などのマス媒体が仲介して全国に転移していく。そしてその受け皿となる学校には、全国どこへいっても同じような構造のトイレや理科室などが造られていて恰好の怪談の培養地となる。

 典型的な学校怪談としては、さきにふれた「トイレの花子さん」「赤い紙青い紙」「赤マント青マント」などのほかに、つぎの「こっくりさん」もあげられる。

 この投稿には具体的な流れは書かれていないが、子供たちが机の上においた硬貨などに指を重ねあわせてじっと神経を集中しているとその硬貨が動いたりするといった話である。その結果、だれかに「こっくりさん」がとり憑いたといって、一種の集団催眠のような現象がおこる。このように、同質的な集団が共鳴現象をおこして恐怖を増幅していくのが学校怪談の特長であろう。

 この恐怖の源泉は、閉鎖空間に同質集団が閉じこめられているという状況自体にあると考えられる。同質的な集団はその内部自体のみでは活性化しにくいし、また内部にはストレスなどの圧力がたまる。外部との直接的な交流があればこのような状況は解消されやすいが、そうでない場合には内部的に「異者」をつくりだしてその代替とする傾向がある。

 特定の仲間を「徴つき」の異者と見なしてしてひき起こされる、いわゆる「いじめ問題」などはそのような構造をもっていると考えられる。積極的に異者をつくりだしかつ排除することで、同質集団は活性化されたりまた緊張も放出されたりするのだろう。伝統的な閉鎖社会ではそれが固定化されて異人や妖怪の伝説になっていたこととの相同性をみれば、学校伝説のはたしている機能もうかびあがってくるとおもえる。

 「こっくりさん」の例でいえば、だれにでもこっくりさんがとり憑く可能性があるという前提のゲームである。そのようななかでお互いが牽制しあいながら「徴つき」をつくりだすといった不安とスリルが、この噂を成りたたせていると考えられる。

 また学校のトイレのような妖しげな密室は、異界との境界であり通行の接点とも見なせる。そのような場所に、異人としての「トイレの花子さん」や「怪人赤マント」はあらわれるのである。もちろんこのような異人は外部からの闖入者などではなく、そこに生活する同質集団の不安の投影にほかならないであろう。

 以上はまだ性的な意識が顕在化しない小学生などに多い事例であったが、これに性意識がくわわると恐怖というより艶笑小咄ふうの噂になってくる。かといってただの笑い話でもなく、まことしやかに伝えられなかば信じているような雰囲気もただよっている。そのような事例をあげてみよう。

 具体的な学校名をそえて語られているところに、半分は事実として信じられていることがうかがえる。また学校の保健室というのも理科室・音楽室・体育館などとともに、噂の発生しやすい特殊な空間だということも指摘しておこう。

 これが女子高ともなると妊娠出産の不安ともからまって、切実さと滑稽が同居してくるようでもある。

2-2.寮・下宿

 学生などの寮や下宿も、同年輩の単身者が同じようなつくりの個室で生活するという同質性をもっている。若者のひとり暮らしということでそれなりの孤独感が強いであろうし、自殺者なども比較的でやすい環境にある。また同じような構造の生活空間にあるということは、噂を共有し伝えやすいともいえる。

 自殺者を発生源にした噂を二例をあげる。まずは、開かずの間という「いわく因縁」に結びついた事例から。

 また自殺者の幽霊がでるというのも典型的な噂であり、それが現在寮として使われていない理由になったりもする。

 自殺者以外の噂もひとつあげておこう。

 学生寮・下宿ともに人の入れ替わりははげしいが、先輩から後輩へと語りつがれて独自のローカル伝説を形成する。このような噂を共有することで、めでたく共同体の一員としてみとめられるのであろうか。古老から子供たちへと語られたかつての在郷伝説の、ある種の縮小版とみなしてもおもしろいとおもえる。

3.医学伝説

 いうまでもなく医学関係は、病気という生死の境界をとりあつかう世界である。しかも現在では、大半の人間がその死を病院でむかえるような状況となっている。とすれば、そのような死とむかいあう病院・医療関係に、多くの怪談があるのに不思議はない。

 そのうえ医療世界は、われわれ一般人には閉ざされた密室空間でもある。診察をうけ検査をうけ治療をうけるとしても、自分のカルテになにが書かれているか知るべくもないし、薬をもらってもそれがどのように機能するのかよくはわからない。患者はひたすら、医師という専門技術者の指示にしたがうしかすべをもたない。

 生死の境界に位置しながらその内実にはふれられない密室、このような医療世界のもつ境界性と密室性からさまざまな噂話が生まれでてくるのであろうか。まずは、もっともよく知られている医学伝説からとりあげてみよう。

 大学病院などで、解剖用の死体を洗うという高給のアルバイトがあるという噂で、自分も聞いたことがあるというたくさんの証言があげられている。いくつか引いてみよう。

 大江健三郎の小説『死者の奢り』の一シーンが噂の発生源だという説もあるが、それはともかく実際にそのアルバイトをしたという人はいない。

 このように、地元の有名な大病院の名前をかぶせてまことしやかにささやかれる。

 外界からは見えない密室で洗浄される死体、あるいはホルマリンの浴槽に浮かぶ死体といった情景は、だれも見たことのないはずなのに不思議な現実感をもっている。このリアリティがこの噂の浸透力の強さなのであろう。

 実際にはありえないのがあきらかな噂が多いなかで、医学伝説にはひょっとしたらと思わせるものが少なくない。これは実際にはのぞけない密室的な世界の出来事であるだけに、逆に現実的な可能性を感じさせるのであろう。つぎの話も、奇妙な現実感をもってつたえられる現代医学伝説のひとつである。

 ここにあげられた出典が噂の起源になったのか、それとも先行してあった噂が書物を経由してさらに広がっていったのかはさだかではない。いずれにせよこの話も、噂として聞いたことがあるという人がつぎつぎにあわられる。

 まさにこのように噂が広がっていくのかと思われるぐらい、投稿の連鎖は興味ぶかい。死体の解剖という常人からすれば異様な光景と、死体をただのモノとして取り扱う当事者とのあいだにあるイメージの落差からこのような伝説がつむぎだされるのであろう。

 主人公の医学生は、遺体をモノとしてしか感じられなくなって玩具にするという、常人感覚の麻痺した医療関係者の代表としてとらえることもできる。また他方では、そのような感覚になじみきれない初心の学生の異常行動として、噂を伝えあう一般人の批判感覚をあらわしているともみなせる。そのようなイメージのねじれがこの話にリアリティをもたせている。いずれにせよ、噂の伝達者にとってこの解剖教室は、かいまみることのできない異空間としてグロテスクに想像されることはまちがいない。

 治療現場では患者はすべてを医者にゆだねるほかはなく、あなたまかせの密室でどうされるかわからないという不安を、極端に拡大した噂話をひとつ紹介しよう。歯科医での話である。

 医学関係者は常人の生理感覚を超越しなければやってられない、といった主題の噂も多くある。つぎの話も、一般人の感覚とのギャップが伝説のエッセンスとなっている。

 これには、ローカルな世界で20年間も語りつがれているというつぎのような証言もえられた。

 最後に、艶笑小咄ふうの話題をひとつ紹介してつぎの課題にうつろう。

4.劇場系

 劇場やライブハウスといったパーフォーマンス空間には、やたらに霊や怪異現象の噂が多い。ほとんどすべての劇場にひとつやふたつの怪異譚があるといってもいいだろう。とりあえず「でる」といわれる劇場の報告を羅列してみよう。

 ここまでは同一人の報告であるが、これを見ただけでも劇場にはやたらに「でる」という気がする。なにはともあれ、劇場という場所の特異空間性を確認しておかなければなるまい。

 まず舞台が劇場の中心であり、文字どおりハレの場であることはいうまでもない。すべてのスポットライト・フットライトがあつめられ、演者・観客ともに全員の意識が集中される場所である。しかも、演者にとっては聖なる場所でもある。

 ところが一歩舞台裏にはいると大道具・小道具部屋、舞台の袖、さらには地獄を想像させるところから名付けられた奈落と呼ばれる場所まで、とたんに妖しげな雰囲気のただよう猥雑な空間になる。このような極端な落差こそ、幽霊たちにとってはそれこそ恰好の舞台装置であろう。役者が舞台に登場するのと同じように、幽霊たちも自分たちの「舞台」に登場する。

 また、舞台は演者たちが変身する場所でもある。役者たちが、その架空の役割に神憑り的に魂を入れこむ霊的空間でもある。他方観客席は、普通の人々がさまざまなパーフォーマンスを楽しみにくる娯楽の場である。このような両者の対照的な心理の落差もまた、異様な雰囲気をかもしだす。

 さらには、興行がうたれているときの熱気と対比すれば、観客のいない劇場はがらんとした虚空間であろう。ハレの舞台のときのために黙々と稽古というケのときをすごす役者や舞台関係者たち。そしてひと気のすくない舞台裏の薄暗い空間。こういった状況から劇場伝説は生成してくるのであろうと考えられる。

 青山劇場やサンシャイン劇場の噂に指摘されているように、もと墓地であったりという立地の因縁と怪異現象がむすびつけられることも多い。あるいは、劇場の舞台裏というのはさなざまな事故のおこりやすいところでもあり、過去の事故死者や自殺者の霊が伝説に登場したりもする。こうして舞台関係者のあいだでささやかれ出した噂が、外部にひろがるにつれてさらに尾ひれがついていくことであろう。

 このような劇場伝説と似たようなシチュエーションで、ライブハウスの音楽関係者のあいだでも同様の噂が発生すると考えられる。

 さすがにライブハウスだけあって、ピアノなどの音が重要な役割をはたしているのが特異なところであろうか。

 墓地という因縁のかわりに、もと監獄という歴史が反映された奇っ怪な劇場伝説をも紹介しておこう。あの極東軍事裁判でさばかれた、A級戦犯たちの記憶につながる巣鴨プリズンとむすびついた話である。

 もうひとつ、建物そのものの外観の異様さとむすびついた話を引用して、つぎの稿にうつろう。京都大学西部講堂という、大学の講堂とはおもえない寺院の本堂のような瓦葺きの木造建築での伝説である。かつての大学紛争の舞台にもなり、その屋根瓦には色とりどりのペンキが塗られているという不思議な外観からしても、噂のひとつやふたつあってもおかしくないとおもわれる。

5.特異空間

5-1.特異な空間

 ここで取りあげるのは、明確に仕切られた閉鎖空間ではないが、ほかとは違った特異な現象がみられるような空間である。まずは、荒唐無稽な噂の引用からはじめてみよう。

 この話のおもしろいところは、「超能力研究所の看板」というひとつの創作だけで、不思議な現象のおこる空間ができてしまう点であろう。なにしろ原因が超能力なのだから、いくらでも不思議な現象の話はつけ加えていくことができるのである。そういう意味では、きわめて発展性の大きい噂であるといえる。

 このような超能力ではなくても、電磁力・放射線といった目に見えない力のはたらく場が噂の原因となっている話は多い。

 われわれのまわりには、目には見えない電磁波が飛びかっているのは間違いない。しかしその人体への影響は、素人にはよくわからないしまたその量も測定しようがない。そんな不安が噂をつむぎだすのであろう。次のような、プラスにはたらく影響の噂もある。

 また、放射線の脅威は一般に知れわたっている。したがって、原子力を取りあつかう機関についてはその安全性が強調される。それが逆に不安をあおり噂の発生源にもなる。そしてまた、その内部情報がほとんど表にでてこないことも、噂を増幅するようにはたらくであろう。

 かつての伝統社会では、内と外を明瞭に区画する結界があった。ところが上にしめしたような現代伝説では、そのような結界が目に見えなくなり、いつのまにかその結界を踏み越えて危険な領域にはいり込む不安を物語っているようにおもわれる。現代の都市空間にも、そのような目には見えない結界が張りめぐらされているのではないだろうか。

 また、ファクシミリやパソコン通信ネットなど情報伝達媒体の発達により、物理的には遠くへだたった地域も瞬時につながれることになり、独特の特異空間が形成されている。この論考もパソコン通信で集められた噂が素材となっているが、つぎの例はファクシミリで全国に広がっている噂である。「電子伝説」とでも名付けるべき、あらたなフォークロアであろうか。


 まずは、首都圏方面からみた関西という土地柄のイメージの特異性を指摘しておきたい。このあたり異界性については次項以下でふれる。このファクシミリを使って流される噂も、つぎつぎと追認情報がよせられた。

 ファクシミリだけではなく、つぎのようにパソコン通信ネット上でも確認もされているようである。

 これがデマではなく、信用できる情報としてあつかわれているることも多いようだ。

 このような新しい情報空間をながれる噂と、従来にみられた流言飛語などの噂とを比較対照してみるのも大きなテーマとなるとおもわれる。それにはあらためてふれる機会もあるだろうが、ここでは独特の噂空間を形成する可能性を指摘するだけにとどめておこう。

 生き馬の目をぬくとも言われる株式市場や金融市場では、日常の生活感覚とは異なった金銭感覚や雰囲気が支配しているようである。そのような世界に生きる人たちの間でも、利害が密接にからんだ噂やデマがみだれ飛ぶであろうと想像される。ここでの噂は、もっぱら意図と狙いをもってながされるのが特長であろうか。この世界もまた、特異空間といっておかしくはない。

 この世界では、多くの自殺者を出した噂やデマも多いにちがいない。しかし自殺者はいったん死んでしまった以上、利害で動くこの空間ではもはや噂の種にもならないのかもしれない。ここでは、戦後もっとも大きな噂で幾人もの死者も出したとされる、いわゆる「M資金」の話も忘れるわけにはいかないであろう。

5-2.自殺の名所

 自殺者の集中するメッカとでもいうべき場所が各地にたくさんある。投稿の話題に出てきただけでも三原山・華厳の滝・青木ヶ原・東尋坊などなど、ふるくから自然の自殺の名所がいくつもある。それらの投稿でもふれられているが、自殺が自殺を呼び寄せるという傾向がある。ここでは高層住宅団地など、あらたにできた自殺多発地での噂の流され方をみてみよう。

 「情報の欠落が噂を増大させる」という法則がある。事実が伏せられる結果噂がより増幅されるという状況は、この投稿者の手によって如実にしめされている。あえて長文を引用した所以である。つぎのレスポンスも同様の理由で引用させていただこう。

 自然の名所が伝統的な自殺場所にえらばれたのだとすると、巨大な高層住宅群の無機的な景観は、現代の自殺者の無表情な心性をあらわしているといえよう。そのような人工の虚空間が、思いつめた自殺志願者の心をひき寄せる磁場をもち特異な空間として彼らの前にあらわれる。そしてまた、その噂を語りあう都市住民たちも、噂に接することで日頃は生活におわれて忘れている都市生活の無機質性を想い起こすことであろう。

5-3.縁切り伝説

 この節で最後に取りあげるのが「縁切り伝説」のある特異空間である。その場所で男女カップルがデートをすると縁が切れるという噂であって、特にストーリーのある伝説というよりはほとんどジンクスに近いものである。まずは有名な井の頭公園の別れ伝説の紹介から。

 このほか投稿にあわられた場所をすべて羅列してみよう。

 東京井の頭公園弁天池・埼玉大宮公園のひょうたん池・東京ディズニーランド・津田梅子のお墓・関東の通称「縁切り寺」・京都嵐山の渡月橋・京都植物園・大阪万博公園エキスポランド・神戸ポートピアランド・名古屋東山公園「東山タワー」・太宰府天満宮・伊勢神宮

 どれもこれも各地の行楽観光の名所がずらりとならんでいる。若い男女がデートをする場所なのだから当然のことである。また、その多くのカップルがその後なんらかの理由で別れていくのも自然のながれであろう。とすれば、多くの観光名所に縁切り伝説があるのになんの不思議もない。

 しかしここでは、そのような噂の存在の合理的な理由をみつけるのが狙いではない。むしろ噂とは、しばしば非合理な状況から発生し伝播していくものである。またそのような非合理性にむけて、それなりの納得をあたえる役割をももっていることが多い。

 恋愛に終局があるのは事実だとしても、いままさに恋愛中のカップルにとって別れにおもいをむけるのは不合理なことだ。また恋愛そのものが多くの偶然によりはじまるのと同じく、両者とも納得のいくような別れがあるわけでもないだろう。これらはそもそも、恋愛そのもの自体にはらまれている偶然性であり非合理性であろう。

 とすれば、そのような偶然性に支配されている恋愛に、さまざまな占いやジンクスがともなっているのも不思議ではない。恋い占いに熱中する男女があれば、その一方で別れにささやかな理由づけをしてくれるジンクスも必要なのかもしれない。水の上に浮かぶ木の葉のような不安定な状況では、タロットカードの恋い占いに願いをかける少女もいるだろうし、弁天さまの嫉妬に別れの原因をみつけて苦笑する男の子がいてもおかしくはないであろう。

 投稿中で、別れ伝説を取りあげた資料も紹介された。

 この資料にはまだ直接あたる機会がないが、ボートのある場所という指摘は興味深い。前にあげたジンクスのある場所をざっと見わたしても、ほとんどが水とむすびつけることができる。そして、その多くには遊覧用のボートがあるようだ。さきに恋愛心理を水にただよう木の葉にたとえてみたが、ボートそのものが木の葉と見なすこともできる。恋愛の不安定な心理状態とボートをむすびつけるのも、ひとつの視点ではなかろうかとおもう。

 ここでも水にたいする解釈が重要なポイントだとおもわれる。水の分析はあとの章の課題となるが、ここでは、海ではなく池・川といった陸水がほとんどであることを指摘しておこう。

6.異国・異界・境界

6-1.外国

 『試着室ダルマ』のところでふれたが、主人公の若い女性はヨーロッパなどの都市の試着室からつれ去られ、東南アジアやアラブ世界などの第三世界でダルマとなって発見されることが多い。ここで、われわれ日本人が抱く「外国」には、対称的な二つのイメージがあるのが容易に想像される。

 明治維新以来尊敬と模倣の対象としてきたエキゾチックな西欧世界と、一方ではわれわれがそこからの脱出を目指した遅れて野蛮な第三世界。もちろんこれは正しい事実認識ではないが、「脱亜入欧」のスローガン以来われわれの意識に沈潜している「二つの外国」イメージであることは間違いない。

 うら若い女性が手足をもがれた悲惨な姿にされるという落差とともに、あこがれの対象である西欧から妖しげな第三世界へ売り飛ばされるという、噂の舞台のもつイメージの落差も物語の印象に寄与しているといえよう。『オルレアンのうわさ』の登場するユダヤ人が特殊な意味をもたされているのと同じように、物語の本筋にひそませるかたちで無自覚な差別意識に訴えかけるような舞台装置が仕組まれている。

 このような「あやしげな外国」のもつ意味を指摘した投稿を引用して、その投稿者の見解に賛意をしめしておこう。

 かつての伝統社会での伝説では、自分たちと異なった生活文化・風土をもつ人々が異人や妖怪として排除の物語に組み込まれることが多かったが、世界のグローバル化とともに「あやしげな外国人」が第二の異人とされる可能性も増大していくのであろうか。

 国民性、文化風土のちがいが下敷きになった噂を、二つほど紹介してみよう。

6-2.異界

 日本国内でも、特殊な場所やその住民を噂の素材にしたものがある。もちろん、この手の噂には差別意識を土台にしたものが多く、その取扱いには慎重を期さなければならない。今回の試みでは、パソコン・ネットという開かれた場なので、露骨に差別的な噂は遠慮されたかとおもわれる。しかし、その種の噂が影で根づよくかたられているのも事実であろう。となれば、噂と差別の切り離しがたい関係にメスをいれるのも大きな主題となる。

 次の投稿はその種の噂だとおもわれる。ことの性格上、投稿者もかなり慎重に扱っているので引用してもゆるされるであろう。

 北海道や沖縄がその歴史的経緯から、本土とは異なった特殊な異界として噂の舞台とされることもある。たとえば、簡単な笑い話のたぐいであるが。

 また東京都心のど真ん中、風俗化し無国籍化しつつある新宿歌舞伎町のような街も、異界として噂の恰好の舞台となる。

 無国籍化した街とあやしげな第三世界とが、闇の地下水路でつながっているかような想像をさせる噂である。

6-3.トンネル・川

 異人や妖怪が棲むと空想される世界を異界だとすると、それらのもっとも登場しやすい場所はわれわれの住む世界と異界のあいだにある「境界」であろう。それらの境界は、かつての伝統的な地域社会では国境などにある峠や川であったことが多い。したがって妖怪なども、そのような峠や川によくあらわれた。

 そのうちでも峠は、近年の道路整備などにともない多くがトンネルでバイパスされるようになった。とすれば、出没する妖怪・幽霊のたぐいもそのトンネルに移行していることが想像される。たしかにトンネルにまつわる現代伝説は、あちこちに多くみられるのである。

 トンネル伝説の中でも代表的なのが、バイク仲間でささやかれる幽霊の噂である。薄暗いトンネルの中の冷気に直接肌がふれるバイクのほうが、自動車よりも霊と遭遇しやすいということはうなずける。

 この種の自動車やバイクにまつわる噂は、つぎの『カー伝説』の章であらためて取りあげる。ほかにも二つほど、トンネルに出る幽霊の例をあげておこう。

 峠やトンネルと並んで、川も境界とされやすい地形であろう。そして、その境界を往来する場所にはおもに橋がある。となれば、橋にまつわる噂が多いのも当然であろうか。

 十三参りでは一般に「振り返ってはいけない」と言われるが、とくに橋で振り返れないとなると別の意味が付加されているのかもしれない。橋は境界のこちらからあちら側に渡っていくことになるから、境界を越えるときの特別な儀式としての意味あいを考えてみてもよいだろう。

 また、流されやすい橋のために人柱がたてられたという伝説も各地にあるだろう。

 これらの橋にまつわる話しは、伝統的な噂の範疇に入れておいてもよいだろう。では峠がトンネルに移行したように、現代伝説としての橋はどのように変化したのだろうか。これはあくまでも仮説であるが、高速道路のような橋脚をもった建造物が「あらたな橋」として噂の素材となるかもしれない。あるいは車の流れを水とたとえれば、高速道路自体を境界をつくる「川」と見なしてもおかしくはないであろう。高速道路に出る妖怪の例をひとつあげる。

 最後に、噂ではなく創作の中の話ではあるが、川のもつ境界性を象徴するような逸話をあげてつぎの話題ににうつろうとおもう。

7.密室の世界

7-1.民家・アパート

 一般の住居にも怪異にまつわる話はたくさんある。借家・アパートなどで、あらたに移り住んだところ霊がいたという流れの話が多いようだ。

 この種の霊はだれにでも感じとれるというものではなく、とくに霊に敏感な人にだけわかるようである。つぎの例もそうである。

 人に憑くのが幽霊、特定の場所にあらわれるのが妖怪という分類にしたがうと後者になるのであろうが、いずれにしても一種の地縛霊と考えられる。伝統的な地縛霊は、その場所にまつわる因縁があってあらわれるのであり、当事者にもその理由がわかるのが普通である。しかしながら移動のはげしい現代では、その霊に遭遇した人にも由縁がわからないままに終わることが多い。

 したがって、土地に縛り付けられた怨霊を特別に慰霊するといった物語には発展することなく、なにげなく消えていったり、あるいは居住者のほうが引っ越してしまうことになる。住民と地縛霊の葛藤というよりは、居住者と霊が簡単にすれ違っていくあたりが現代的であるといえようか。

 出現する幽霊のほうにも、なにがしか現代的な孤独の陰がさしているような事例をあげてみよう。とくに祟るというわけでもなく、ただ現れてまた消えていくというだけの奇妙な話である。

7-2.事業所関連

 会社や各種の事業所も、日中は活気にあふれているが深夜ともなるとひと気のない密室と化する。深夜のがらんとした密室を想像すると、そこになんらかの怪異現象があっても不思議ではないであろう。

 おなじく、ひと気のないはずのところで怪しげな作業がおこなわれているという笑談をひとつ。

 噂の中での老婆の役割には特異なところがある。男の老人がどちらかというと枯れていく傾向にあるのとくらべて、老婆という存在は一種独特の生気をはらんでいる。そのような老婆の生臭さと、ひと気のない倉庫との対比がこの噂のエッセンスであろうか。かつての伝説から現代伝説にいたるまで、老婆というキャラクターのもつ生命力だけは健在であるようにおもわれる。

 その他事業所関連の噂では、一連の就職面接の話題が集まった。就職面接の会場というのもある種の密室性をもっている。その場にいるのは面接官と受験者だけである。そのような閉じられた場所でくりひろげられる両者のやりとりが、おもしろおかしく噂としてながされてくる。二つほど投稿を紹介しておこう。

7-3.ホテル・旅館

 ホテルの個室というものも鍵ひとつでへだてられる究極の密室である。大都会の高層ホテルの一室で多数の人々が孤独な一夜をすごすとき、そこで「なにか」がおこる。そしてその部屋ではかつて自殺者がでている、というのがもっともありふれたホテル伝説であろう。

 また、ホテルの立地そのものの因縁にまつわる幽霊譚もある。


 おなじ投稿の続きでこちらは旅館の幽霊話。

 多くの見しらぬ他人が替わるがわる宿泊するホテルや旅館には、幾多の噂が発生する。これは身近にすれ違いながらなんの情報もない他人に対する不安が、都会人の心理にひそんでいるところからくるようにおもわれる。

 いきずりの男女が一夜をともにするようなとき、もっとも身近にふれいあいながら相手に対する情報がまったく欠落しているという皮肉な状況がおこる。つぎのものは、アメリカを起源とする典型的な現代伝説と言えよう。

7-4.百貨店

 都会の高層建築物への潜在的な不安も多い。不特定多数の出入りする高層建築物は、一旦火災などの災害がおこると瞬時にして地獄と化する。都内赤坂の某ホテルの火災による惨事はいまでも記憶になまなましい。赤坂という場所は、四谷・青山などと並んで江戸期以来の心霊スポットといわれているだけあって、いまでもたくさんの噂がながされているようである。

 ホテル以上に多くの人間がつめ込まれている百貨店でも、いくつか悲惨な火災がおこった。当然その跡地にも幽霊伝説は語られている。

 この「千日前」という土地にまつわる過去の因縁もフォローされた。

 混雑時の地下街や百貨店にいると、ふと災害時の不安にかられることがある。そのような心理から派生するとおもわれる噂もある。

8.二次元空間

8-1.鏡の中

 この章の最後でとりあげるのが「平面の世界」である。なかでも鏡は、古来より神秘的なものとして崇められてきた。写真や映画のなかった時代には、そっくり自分の姿かたちを写すものはおそらく鏡しかなかったであろう。自分と同じ姿が映るのは考えてみれば不思議なことである。そして、自分の分身がすぐそばの鏡の中にいるというのは、不気味でもある。

 鏡の向こうには、もうひとつ別の世界がある。そして、その二つの世界は鏡によって仕切られている。この話では、鏡のもつ境界性がキーワードではないかと考えられる。深夜の12時というのも、日にちが変わる時間上の境界である。そのような「境界」を通すことによって、未来の自分が見えたり日常では目につかない霊や角が見えたりする。

 そして、そのような別々の空間を自由に行き来する特殊な存在として、ここでは「小人(小鬼)」がいる。日常世界と異空間の境界にあわられるものというと妖怪などが思い浮かべられるが、ここでは小人がそのような妖怪の位置にあるといえよう。

 合わせ鏡ともなると、二つの世界がさらに複合されて無限世界が現出する。有限存在である人間にとっては、無限な世界とはなにやら不安をひきおこすものであろう。そのような不安が、悪魔や不気味な男をひきよせてもおかしくはない。

 このような「そっくり同じ二つの世界」という想像は、鏡などから触発されて古来からあったようである。

 そっくり同じ世界の住人どうしは、かならずしも親和性をもっているとはいえない。この話のように、両者が出くわすとなんらかの闘争がおこる。お互いにとって相手は自分のアイデンティティを侵略する存在なのであるから、これはむしろ当然のことかもしれない。そして、いずれかが他方を拘束し支配していないと、それこそそれぞれが別個の行動をする不条理の世界となってしまう。こうやって、世界の一元性を回復するためには黄帝のような霊力をもった存在が要請される。

 日常のわれわれは、自分の存在が自立的であり鏡はそれを忠実に映しているだけだと思っている。しかし、鏡像に映る世界のほうが自立的であり、われわれの日常世界はそれを模倣しているだけだとしたら……。黄帝のような霊力がないわれわれ凡人は、鏡像の分身に支配され拘束されている可能性も考えられるではないか。

 鏡ではないが、模写された自分が現実の自分を規定するという主題は、オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像画』などにも描き出されている。そのような分身といえば、影法師もよく似た役割をする。

 今回の投稿には出てこなかったが、この引用にあるように「心霊写真」なども現代における分身の恐怖と不安を反映したものといえるであろう。古来からの鏡像世界への不安が、現代伝説に転化すると次のような恐怖の物語ともなる。

 この説話では、あきらかに鏡の中の世界がはっきりと密室性をもって登場してくる。だれの声も届かない密室に閉じこめられてしまう恐怖、それは現代人の心の奥にひそむ不安であり、現代伝説の大きな主題となるであろう。

8-2.ブラウン管の向こう

 鏡以外に、われわれにもっとも身近にある平面画像の世界というとテレビであろう。閉じられた屋内とまったく別世界とを、目に見えない電波がつないでいる。テレビのブラウン管は、まさに茶の間と異界をつなぐ境界にある平面なのである。その異界から、ときたま得体の知れないメッセージが送られてくる。

 最後にもうひとつテレビ世界の話題。

 話題の素材が「どらえもん」というのも興味深い。異次元の世界とこちらの世界を自由に行き来するどらえもんは、異界との往来ができる現代の妖怪とも想定することができる。現代っ子にも受け入れられるように修正された、愛敬のある妖怪であろう。

 番組の最終回というのも、ある意味では境界を画する隠喩ととらえることができる。そして、最終回ではのび太の夢の世界の出来事となって彼は現世だけの世界に連れ戻される。やはり現代社会では、どらえもんのようなコーディネイトされた妖怪でさえ存在しづらいのかもしれない。

 ブラウン管・最終回・どらえもん・夢という、4つもの異界と日常性をつなぐ媒介が重ね合わされているところがおもしろい。それらの媒介の「むこう」と「こちら」で、はたしていずれがリアリティをもつ世界であろうか。

 伝統世界で妖怪や異者により表象された異界は、明瞭に「内」と「外」が区分できる場所であり、それを排除することにより「内」の世界はより確固たる世界になる。異界の住人たる妖怪どもは、いったん内に招き入れられあらためて排除されるためのトリックスターでもあろう。共同体内部を活性化し、より強固に維持するための儀式のために異人たちは活用される。

 しかし、そのように活性化し維持すべき共同体がもはや失われているとすれば……。そのような状況で、内と外はつねに反転する危機をはらんだあやうい世界となってしまう。ブラウン管のこちらとあちら、どらえもんの物語とわれわれの日常生活と、はたしていずれに現実性があるかはもはや明瞭には画定しがたい。われわれの現代都市空間は、いくつもある異空間の相対的なひとつであるにすぎなくなっているかもしれないのである。


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