坂の上の雲
坂の上の雲

「坂の上の雲」人物 エピソード

「坂の上の雲」の著者、司馬遼太郎とその主人公の秋山兄弟と  
正岡子規の周辺のエピソードを実話に基いて紹介するものです。


坂の上の雲』2009年より3年に渡ってNHKスペシャルドラマとして放映決定
司馬遼太郎の代表的長編小説「坂の上の雲」が2009/10/11年と3年に渡って放映されます。NHKが総力をあげて取り組み、国内各地・世界各国でのロケ・最新の特殊映像効果を駆使し、これまでにないスケールで制作します。それに先立ち2003年から主人公のひとり子規周辺のエピソードを集めてきました。予備知識としてテレビをより楽しんでいただければ幸いです。TV収録のエピソード


◇司馬遼太郎 「坂の上の雲」  〔坂の上の雲〕あらすじ 

〔司馬遼太郎    大阪の出身しば・りょうたろう(1923-1996)  大正12年)8月7日、大阪に生まれる。

            学徒出陣で卒業後陸軍に入る。復員後、新日本新聞社をへて産経新聞社に入社。
            昭和35年に「梟の城」で第42回直木賞。「竜馬が行く」「国盗り物語」で菊地寛賞受賞。
            「坂の上の雲」など其の他、多数の受賞と作品がある。    参考【司馬遼太郎年譜
          
            小説「坂の上の雲」は、幕末動乱期に産まれた愛媛、松山出身の「秋山好古」「秋山真之
           兄弟を主人公に、日露戦争という西欧国家との初めての近代戦争を通して、明治期日本の
           姿を描く。また、もう一人の主人公とも言える真之の幼馴染「正岡子規」や子規の友人で
           あった「夏目漱石」なども登場する。               〔秋山好古・真之兄弟のこと〕

           秋山兄弟の兄の好古はのちに軍人になり、日露戦争の全局面で、史上最強と言われた
           ロシアのコサック騎兵に対し、世界で最も弱体と言われていた日本の騎兵集団をひきい、
           壮絶な戦いを展開し、これを打ち破るという奇跡的な快挙をなしとげている。
           結果的に日露戦争の帰趨を決したと言われる
           弟「秋山真之」は、海軍において東郷大将率いる連合艦隊参謀として、日本海海戦の全て
           の作戦を一人で立案し、連合艦隊の奇跡的な大勝利に導いたといわれている。
                                                  〔坂の上の雲あらすじ
           「坂の上の雲」の連載を間近ににした昭和43年の早春、、司馬遼太郎は奥道後からロープ
           ウエイで杉立山の山頂広場にたった。良く晴れて、申し分のない天気である。5年をかけて
           準備をした大作の冒頭の舞台になる街が眼下にひろがっている。
           「頂上から眺望した松山市街と海と島々の風景の美しさは、この国につけられた愛媛という
           県名がいかに似つかわしいものであるかがわかった」と言っている。松山城から市街を望む

◇『坂の上の雲』の正岡子規と夏目漱石

〔正岡子規     俳人・歌人1867年〜1902年  名は常規(つねのり)  「柿食えば鐘が鳴るなり・・・論争」

           世に有名な<柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺>の句は余りにも有名な句である。。
           松山に生まれ日本新聞社に入り、俳諧を研究、後に日清戦争にも従軍する。
           明治22年「夏目漱石」との交遊が始まり、人材を輩出することになる。(子規山脈)
           同年肺病で吐血し、以来「子規」と号する。

           明治26年俳句革新運動を始め「松尾芭蕉」の奥の細道を1ヵ月間訪ねる。
           日清戦争からの帰路に吐血し「須磨保護院」に移るが、その後「子規庵」に戻り、
           29年の1月3日の子規庵句会には「森鴎外」「夏目漱石」「高浜虚子」「河東碧梧桐
           らが参加する。
                          ー 仰臥漫緑原本見つかる −

           明治33年には「伊藤左千夫」「長塚節」が入門、病状はどんどん悪くなる。
           34年『墨汁一滴』を発表、日記『仰臥漫録』を書き始めるが35年9月17日で止まり
           2日後の19日に死去。年号と同じ35年の生涯だった。
           壮絶な病との戦いの生涯は、生に対して貪欲なまでの執念を感じるものである。

                            ー 野球王国・松山

           晩年は米国から入ったベースボールに興味を持ち、自身の号「昇」からとって「野球」
           (のぼーる)とつけ、野球用語を作ったことは有名である。

           子規によって日本に野球が広められたことで「ベースボールを愛する国」といったイメージ
           を太平洋戦争当時の米国は持ったらしいが、そのために「出来たら日本は攻めたくない」
           と思っていた、と言う話を聞いたが、何よりもベースボールを愛する国、そう思っても
           不思議ではない。    (平成14年野球殿堂入りの表彰を孫の浩が受ける。)
           また、余り知られていないが{月並み}と言う言葉も子規の言葉であるらしい。
           子規は2002年野球殿堂(野球体育博物館)入りを果たす。

◇祖父 加藤拓川、父、忠三郎のこと。

〔正岡子規と父、忠三郎〕

根岸子規庵    子規は、東京・根岸(現東京都台東区)に住み、日本新聞社の社員として生計を立て乍ら
           俳句や短歌などを短誌型文学の革新、写生文の創始など文芸の近代化を次々に手がけた。
           三十五年の短い生涯を文学に費やした子規は、子供は望まなかったが、後継者を欲した。
           正岡家では、子規の看病につきっきりだった妹、「
正岡 律」にも子がなかった。
           家系を絶やさないためにも養子が必要になり、白羽の矢が立ったのが子規の従兄弟に当る
           父、「
正岡忠三郎」だった。   
           忠三郎は、養子になった後も実父の「
加藤拓川」の家で過ごし、中学校も加藤家から通った。
           その後京大経済学部に進学。京大卒業後は現在の阪急電鉄に入社し、世界的な指揮者と
           知られる「
朝比奈隆」氏と車掌と運転士のコンビを組んでいる。
           不思議なほど「才能人」との出会いが多く、評論家の小林秀雄、詩人の富永太郎、中原中也
           西沢隆二とも出会った。
           父から聞いたエピソードであるが「中原中也に頼まれて早稲田を替え玉受験させられそうにな
           ったよ」とか「音楽家への夢を抱いていた朝比奈さんは、電車の運転の最中でもバイオリンの
           練習をして、おかげで駅を停車ぜずに通過してしまったこともあったんだ」などと話してくれた。
           
           父はこれだけの交遊関係をもち、子規の家を継ぎながら生涯をサラリーマンで過ごし、俳句も
           短歌も評論も一切書かなかった。
           これには訳があり「父は正岡家の養子になる条件として、文学を生業にしないように律に言わ
           れたそうです。律は子規を尊敬していましたが子規の困窮ぶりを身近に見ていて、とても厳し
           い世界だと思っていたのでしょう」
           昭和二十年、伊丹市の上空をB29爆撃機一機が襲い、落とした爆弾で家が焼けたことがあっ
           た。この時父は「子規の遺品を焼いたらダメだ」と大奮闘した。
           また、昭和四十年代にも火事騒動があったが、この時は病床の父の指示で私が、真っ先に
           二階にあった重いトランクを運び出した。トランクは、子規の遺品が入った皮張りの立派なもの
           である。それがいかに大切なものかは、家族には痛いほど分かっていた。
       
泥酔常連の忠三郎
           そんな父、忠三郎の思い出は、深夜に泥酔して帰宅し、玄関先に寝てしまう姿ばかりであった。
           この話は、「
朝比奈隆 わが回想」で詳しく紹介されているので抜粋して紹介します。
         

〔祖父、加藤拓川のこと〕          
           本名常忠。大原観山の三男で、子規の母方の叔父。外交官のち、衆議院議員、貴族院議員
           松山市長を勤める。司法省法学校では陸羯南 、平民宰相として最初の政党内閣を結成した
           原敬と交わる。秋山好古とは同年で幼い頃からの友人。
〔祖母、加藤ひさのこと〕           
〔祖母、ユスティシアのこと〕   

◇司馬遼太郎 『ひとびとの跫音』と父、忠三郎のこと。

父、正岡忠三郎 〕 
           私(筆者)は子規の系図上の孫にあたるのですが、よく子規には子供が居たのか、と
           言っていぶかる人が居ますが、子規には子供は無く妹の「」に養子を入れた、それが
           私の父、 「正岡忠三郎」です。正岡家系図
      
     亡父、「忠三郎」を中心にした正岡家のことを、平成8年に亡くなった司馬遼太郎さんは
            『ひとびとの跫音』(中央公論)で書いています。

           平成八年八月十日の読売夕刊では「子規の養子・忠三郎さんにささげた司馬さんの弔辞
           原文発見」としてニュースになったが、実は私(正岡 浩)が自宅に保管していたもので、
           私までが写真入で紹介された。
〔司馬遼太郎さんの思い出〕   
           司馬先生が正岡子規に対して特別な思い入れがあった事、家族どうしの付き合いがあった
           事などで私も可愛がられたこともあるが、ゆっくり話をしたのは松山に「子規記念館」が出来
           た時であった。「子規全集」の監修者の一人として博物館のオープンに見えたからである。
〔司馬先生ご夫妻と母のこと〕 
           司馬先生が秋山好古・真之兄弟と子規の三人を主人公に長編の大作「坂の上の雲」にとり
           かかられた頃に、秋山・正岡家に連なる人達を大阪・北新地の料亭に招いて宴を張られた
           ことが先生と父との初対面だったと覚えている。その時母は(正岡 あや)その場にはいなか
           ったが後年は母の方が司馬御夫妻と親しくさせていただくことになる。
           そして父が亡くなった時には葬儀委員長をしていただいたが、この時の弔辞原文を保管して
           いたものが読売新聞の記事になった。
           
〔司馬遼太郎氏と太平洋戦争のこと〕

◇朝比奈隆さんと父忠三郎のこと

〔阪急時代の忠三郎と朝比奈さん〕
〔忘れられない人々〕
            世界的指揮者、朝比奈隆氏と父、忠三郎は阪急電鉄時代からの運転士、車掌という
            関係の盟友であり、正岡家、朝比奈家の家族どうしの付き合いも永く続いた。
            そう言った関係もあり、年末には必ず氏の指揮する「第九交響曲」を聞きに行った。
            感動のアンコールの連続の後、終了してフェスティバルホールの地下から送迎の車に
            乗り込まれる時にねぎらいの言葉をかけさせていただく事も何回と続いた。
            その氏も2001年年末の12月29日に帰らぬ人となった。
            2000年は12月29、30と朝比奈隆、第九交響曲通算251回の演奏会記録である。
            最後の最後は第九を聞いて亡くなられたのであろうか、いや、やはり指揮をしながら
            亡くなられたに違いない。合掌。

   ◇ Index ◇ 関係人物リンク集 ◇管理室より ◇著書の紹介 子規博だより TV収録のエピソード リンク◆

                 You are visitor number  since its renewal opening on autumn, 2003
           Copyright (C) 2003 at home. All Rights Reserved.◇ご意見はこちらに keiji okada 管理室

好古・真之の最後