これは北條直正著の『母里村難恢復史略』を皆様に親しんでもらおうと私なりに解釈し口語文に訳し直したものです。個人的な判断で作文しているところもありますが、元の文意を損なわない程度にしているつもりです。これにより、一人でも多くの人に『母里村難恢復史略』を理解していただき、稲美町の発展の基礎を築いた先人の業績を思い偲んでいただけたらと思っております。

 この掲載にあたっては全く作者個人の趣味の範囲で行っているものであり、北條直正氏の著作権のことなど一切了解をとっておりません。なお、『母里村難恢復史略』の解釈に当たっては『印南野文華』に掲載中の『母里村難恢復史略』藤本武三氏注を参考にさせていただいております。

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母里村難恢復史略

播磨国加古郡母里村元村長

 北條直正

はじめに

 本村は印南新村・蛸草新村・野谷新村・野寺村・草谷村・下草谷村が合併してできたものである。元来本村は土地が高く乾燥しており、水利に乏しく、稲田はごく僅かで畑地が大部分を占め、その畑地では、綿や木綿を栽培生産して、他の農作は困難な村であったが、元冶慶応から明治初年にわたり、日照りが頻発し田畑が干上がり、土地が次第に荒れてしまった。これに加えて、綿産業が外国の綿糸輸入のため、販売が急に絶え、村中益々活気なく衰える中で、地租改正が施行された結果、当地に不当な重祖が割り当てられ、村民は口に出せぬほどの惨状に陥り、貧しい人々は村を離れ、一村がほとんど廃れてしまうほどの状態に陥ってしまった。思うにこれが本村の三大難であった。本村の有志者がこの難状を回復しようと、水利を起こして開墾をし、またその地租の軽減を謀って、村全体が力を合わせ三十数年間多くの苦労苦難を経て、ようやく恢復し、こうして今後なくてはならない富源を開くことができた。以前は郡の貧村であったが、努力して郡でも屈指の富裕村に遜色なく肩を並べることができるようになった。思うにこの水利を起こすため、古来より賦役でもって行い、徳川幕府時代まで長い間この制度を継続してきたが、維新以降、廃藩と同時に賦役の制度がなくなってしまった。それ以来水利土木工事はすべて民営となり、水利を起こすことが困難になってしまった。ちょうどその時、私が郡長に就任していたことから、県令にくわしく事情を上申し、賦役に換えて国庫金で補助してもらえるよう申請したところ、私の転任後になって、ようやく国庫金四万五千円が補助されて、それを元に実施することができた。

 ところが、歳月が経ってしまうと村の者はその父祖が長年苦労して培ってきたことを忘れ、また、その当時の県令知事及び郡長その他の功労者の非常な労苦を伴う努力の功績を知っているものがほとんど無くなってしまった。それだけでなく、本村難の中で被害が最も甚だしかった地租改正の重祖については、その大部分が解決したとはいえ、いまだに解決していないものもある。尚且つ、村の功労者の多くは既に故人となっており、その功績も忘れられて伝わっていない有様である。そのため、私は奮起して、その事跡を本文に載せ、後世の孫子の代まで当時を鑑み、父祖の遺産を永遠に保持して、仔細もらさず、父祖の恩恵並びに村の功労者の恩徳及び県令知事郡長の恩義を忘れないようにすると同時に、上記地租改正重祖、改正重祖に係る被害の未解決の部分を、将来において解決する必要を感じた。その地租改正重祖に係る未解決のことが四項目ある。

 その一、畑地価特別修正にて減租となった祖額は、官より地主へ正当に還付なるべきものであるが、未だ還付されてない。その還付未済の総額金9千八百四拾七円拾四銭六厘。

 その二、重租のため納祖することができず、遂に、その土地を公売され、土地の所有権を剥奪された者、弐百十九名。畑反別七拾町。

 その三、重租のため納租することができず、遂にその地を郡長(即ち私)が間接の注意にて売却しその地代金で地租を支払った者、九拾四名。畑反別、六拾四町弐反八畝拾九歩。なおその他に重租のため、その土地を維持することができずに、他人に売却し、その代金の内を以って地価を支払った者、約六百名。畑反別弐百五拾町。

 その四、重租のためその土地家屋を売り、財産を失って四方に流浪し他に移り住んだもの、百九拾七戸。人口約八百人。

 上記はすべて地租改正官吏が不当の重租を賦し、村を上に述べたような惨状に陥らせたものである。その内第一第二は、政府が当然還付、又は賠償の義務のあるものである。第三第四とても、道義上政府が被害の賠償の責めあるべきものだが、曖昧模糊の裏に埋伏せられるところであったが、私が在職中にその証拠を挙げ、政府に還付、又は賠償の請求をしようとしたが、そのとき激務で事も煩雑であり、その経過を十分に把握することができず、結局そのことは果たせなかった。退職後、独力でこの調査に数年をかけ、その経過を明らかにすることができた。本当にこのことは国家未曾有のことで、一村にとっては重大事件であり、後任村長がその問題を引き継ぐことが必要であり、同時に、上記功労者への褒賞の上申をすべきものと考えるので、ここにその経過を逐次詳細に述べたい。

  ()地形

 本村地方は東北より西南に傾斜した十数万里の高野を形成しており、本村はその東北部に位置し東南は明石郡神出村・岩岡村と接し、西は本郡天馬村・加古新村・八幡村に隣接し、北は美嚢郡別所村に接し、広さは南北一里二十八町、東西一里余。村の東北部に字広谷川が小河草谷村・下草谷村を貫いて流れ、その右側には草谷村字丸山より下草谷村が広がっており、丘陵起伏し、その北に相野という原野があったが現在では既に開墾されている。

  ()地質

 上層は赤粘土に真土と砂が交じり、中層は粘土、下層には硬質な小石混じりの粘土、方言「豆とじ」にして、井戸の深さ5丈(約15m)でも湧出が少なく、夏季は飲料水も乏しかったが現在では疎水により井戸水も溜まり、飲料に困ることはない。

  ()開発時代

 本村の開発時代は、野寺村・草谷村の一部分は中古時代よりあったが、その他の各村は概ね二百年前後の開発でできたもので、その始めは、広い高野であったが、人々が三々五々集まり耕牧し、次第に部落を形成していった。その内印南新村は、正徳年間に、本郡加古新村の沼田喜平次の子で、理平次という人が開墾した。これがいわゆる同村の元大庄屋である沼田理平次の先祖である。これに前後して、同村の丸尾茂平次の先祖である山田屋喜平次と、同村の丸尾市平の先祖の山田屋喜兵衛とはおじめいの間柄であったが、二人が河内国より来て開墾し、その喜兵衛が当時最も多く開墾したことは言い伝えられている。そもそも古記に印南野というのはこの地方の総称であるらしい。本村元六ヶ村の淡河川疎水により開墾された新田は反別六百拾町であり、今も続けて開墾されている。

  ()旧藩時代の村制

 本村の旧藩主は姫路の城主、酒井雅楽頭(うたのかみ)であって、旧大庄屋組の野寺村・野谷村・野谷新村は本郡岡村の山本組、蛸草新村は大野村の荒木組、印南新村は独立大庄屋で、沼田理平が代々支配してきた。廃藩前庄屋氏名は左のとおりである。

 草谷村庄屋 魚住信貴太郎   野寺村庄屋 魚住完治     下草谷村庄屋 井沢松太郎 

 野谷新村同 松尾要蔵     蛸草新村同 岩本須三郎    印南新村同  丸尾茂平次 

  ()戸数人口

 明治初年には戸八百三十、人口不詳。明治十三年には八百八戸、人口3千七百六十七.明治二十五年には戸数六百三十三戸。明治初年より197戸減っている。なおこの他無届他出、又は失踪者もあり、これが本村の戸数の減少する最も甚だしい原因であった。これは地租改正重租のためにこのように減少したものである。最近の戸数は692、人口4,848となっている。疎水のおかげで徐々に回復の傾向にある。

  ()旧高反別貢米金額

旧村名

旧高

反別

貢米

同金額

 

印南新村

1,206.263

201.0126

137.515

701.0463

草谷村

523.7834

67.0928

67.0928

647.656

野寺新村

164.0750

36.4206

42.648

220.063

蛸草新村

223.895

48.7924

47.620

245.626

野寺村

237.105

51.8404

61.899

319.298

下草谷村

194.685

29.0029

35.6489

183.952

合計

2,548.8064

434.2827

392.4237

2,317.658

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ()廃藩置県

 明治4年7月廃藩置県。同5年2月飾磨郡に合併。同6年本村元印南新村他5ヶ村は、大6大工7区となり、戸長役場を野寺村高薗寺に設置す。

 戸長 増田性蔵   副戸長 福田厚七   副戸長 魚住完治   副戸長 魚住信貴太郎

 試補 岩本須三郎  試補  松尾要蔵   試補  長谷川孫十郎

 

  (七)区画改正

明治7年区画改正。本村6ヶ村は大3小区となる。区役所は国岡新村に設け、区長戸長は左のとおり。

 区長 片山貞幹   副区長 有坂貞蔵   

 蛸草新村戸長 藤本勘十郎   野寺村戸長 魚住完治   草谷村戸長  魚住円次郎

 野谷新村戸長 魚住藤三郎   下草谷村戸長  永松松次郎   印南新村戸長 丸尾茂平次

 印南新村戸長 赤松治郎三郎  印南新村戸長 沼田壽三郎  印南新村戸長 松田卯左門

 印南新村戸長 大岡善平

  

 (9)比年凶旱

 本村地方は元冶慶応より明治初年にわたり日照りが続発し、田圃が枯渇し穀物が実らず土地は次第に荒れ果ててきた。これが本村衰退の始めである。元来本村は乾燥して水利に乏し土地であり、領主は年貢の割り当てを軽くしたが、特にひどい日照りの時には手当て米が支給された。その当時干害の最も激しかった印南新村に支給された年別手当米は次のとおりである。(ただし、この他5ヶ村も同様に支給されたがその額は明らかでない。)

年別

米額

年別

米額

 

安政6己未年

33.000

 

元冶甲子年

34.000

慶応2丙寅年

17.400

慶応3丁卯年

30.000

明治元戊辰年

30.000

明治2己巳年

30.875

          合計 米額 175石2斗7升5合

 

 上記のほか旧領主は、寡婦(夫)孤児等に救助米を毎年支給され、人民保護の策はよく行き届いていて、藩閥政府の処置とは天地の差があった。下に記する地租改正重祖と対象比較すると嘆いて泣かないではおられない。

10)産業不振

土地のありさまは上記のとおりで、田はごく僅かで畑が大部を占め、生産物は綿作にて専ら木綿を産出し。姫路の名産である晒木綿の原料として供給し、それを生計とする家が多く、もともと水利が乏しいので夏にはその綿畑に井戸水を汲み揚げ、はねつるべが林の如く設置されていた。農家は忙しく働いても少し照り続けるとすぐに枯渇し損害も多く、そこそこの収益を得ることはおよそ三年に一回程度に過ぎない。

もともと作物の育成・収穫が困難な土地であるのに、維新以降外国綿糸輸入の影響で、本村主要の綿産物の販売が急に衰え、このため非常に産業が不振となり、村全般が益々衰えてきた。これが本村第二の難患である。

11)地租改正重租の大難

 明治8年4月より地租改正準備が始まり、同年10月県令が地租改正に係る条例及び告諭書、人民心得書を布達した。

 その要旨は、旧来の地租はゆるやかだったりきびしかったりして不公平であたので、これを改正して公平で適正なものとすることを目的とした。そのためその施行法は、現地の収穫量を量り、かつ運送の便宜、耕しやすさ、水利の便宜などを斟酌して算出し、地価の百分の三を地租とする方法であったのだが、これらの旨趣を十分理解し一時の私欲をむさぼって、その後に大害を生むことになっては悔やみきれない。したがって条例規則並びに人民心得書を十分に理解し、手順を誤らず、速に完遂するようにと、非常に厳格な心得方を示され、さらには改正掛りだけでなく各大区、各小区長などからも、たびたび改正の旨趣が詳細に伝えられた。

 このように厳格な条例規則心得書が発布せられ、その主幹である改正掛りがこの旨趣のとおりに施行しておれば、人民には何の問題も苦情もあるはずがないものであるが、事実は之に反し、改正掛がこの改正施行を疏略に取扱い、下に記する如く不公平極まる改正賦租をおこない、これを人民に強制し、人民はその負担に堪へられないことを哀訴したが、改正掛は権力を持ってこれを拒否し、人民はやむを得ずその地を売り税に当てるがまだ不足した。ついに、どうしようもなくその地を去る者が後を絶たず、村中がひどく荒れ果て筆舌に尽くしがたい大難事を引き起こした。およそ全国中においても地租改正で、このような大難を被むったところは無いであろう。これが本村難中最も大きなものである。

   (12) 反別計測着手

 明治8年10月より明治9年に亘り、耕地一筆に限定し計測に着手した。この実地計測に先立ち、各小区長及び改正用掛を集め、県庁付近の地において、計測者数十組に計測させ練習した上で、各小区内の土地計測を委托し、その計測が済んだ区より順次改正掛が点検し、不合格となったところは再び計測が行われた。その計測は正確なもので、約1年かかって播磨全国の耕地計測を完了した。

   (13) 地等収穫調査議事始まる

 明治10年県令第1号布達に基き地等収穫議事始る。その方法は各大区に一の模範村を選び、各町村の地等議員が之を審査し、加除修正して完全なる地位等級を定め一郡の基準とし、各小区各町村、之に比準議定したる上、更に各大区に一の模範地を定め、各大区小区より各一名宛の地等議員を選挙し、議長は各小区長の内より選挙(この副議長に私が当選)し、各大区小区の模範地を比準議定するの順序となった。

14) 6ケ村の地等収穫公平ならず

 上記地等収穫議事に関しては、本村の印南新村外五ケ村の地等議員及び戸長、村惣代等は、他町村の地等議員が本村の土地の真相を知らず、土地が平坦で広いところだけを見て、普通地と同一視して現実と合わない地等収穫を議定して、之に全国耕地旧租額を基準額と定めて割当てられては非常な重租となることを心配し、他町村の議員に対しこの弁解に努め、改正掛へもこの土地実況の説明を数十回行ったが、残念なことであったが、その実状を認めてもらえなかった。改正掛は村民は頑固で増税を嫌って苦情を言っていると思って、一向に考え直すこともなく、常に威圧を以て拒否し、強く言えば傲情者だと叱られるだけで、旧6ケ村の地価改正は、到底正当な賦租とならないと感じ慨嘆した。

   (15)明治9年10年また日照り

 この地租改正中の910年は夏季に照り続き、田の植付を六分減じて四分の植付とした、残りはみな豆・粟・蕎麦等の作付けに変更した。畑は収穫が平均三、四分に過ぎず、村民は多年干ばつをこうむっていたが、また引続いて干ばつとなり、旧地租でも毎年不納者が多く、印南新村では庄屋の配下で、年々年貢米を上納できないためにその土地を引上げ、その土地を以て貢米を納めたものが二、三町にも及び、旧貢米の取立ですら困難な状況なのに、さらに干ばつに加えて改正で増税となりては負担に耐えられないと、深く憂慮せり。

   (16)地租改正調査遅緩

 この地租改正調査は明治九年に完了するよう、あらかじめ県令の布達があったのだが、9年を超へ10年を過ぎても未だ完了せず、ついては村吏及地等議員の旅費日当や調査費多大なるが、910年の増租追徴額と11年の新租額と都合三ケ年分を11年未に一時に徴収せられては、村民は如何にして生活したらよいのかと、益々心配された。

17)地等収穫調査終る

   「附改正租額内示に付協議会」

(1)「新租額内示」この地等収穫調査は、一年半かかってようやく終了した、改正掛は其の民議にて算出した地等収穫を標準として予定の租額を割当て、各大区の租額を定めて各小区長に内示し、尚不公平なるところあれば、この際一大区限り予定の新租額の範囲内にて各小区長と十分協議し、修正の見込みを立てるよう通達せられる。

 (2)「租額協議会」当時三小区長片山貞幹より、印南新村外五ケ村へ割当の租額を、該村戸長に内示したが、戸長はその割当が過重であるとして、旧の村への租額に比べ三倍以上となることを理由に、区長に対し大に不服を申立て、区長からは改正掛へ数回申出たところ、改正掛は本村の六ケ村に限り実地を再巡視し、その結果印南新村外五ケ村へ割当の租額の内幾分かを、本大区内の各小区の中で、やや賦租が軽いと見込まれる村と適宜譲り合ひをすることによって、印南新村外五ケ村の負担を軽減する様ための協議を行うよう示談があった。直ぐに区長協議会を開催した。

 (三)協議は難航した。片山区長は印南新村外五ケ村の難状を詳細に述べ、租税を譲り合うことを協議したが、他区長即ち正も皆、その難状を聞いて同情を寄せたけれども、すでに一郡へ割当と決まった租税のなかで、交互に譲合せはすることは現実に行い難く、種々協議の結果、些少の譲り合せが行われたが、ほんの僅かな譲合せで、この難局を解決できなかった。当時改正掛の意見には、本県の収穫調査方法は非常に精密なもので、決して不公平になることはあるまいと自信を持っていたので、元々普通耕作地を調査する基準で以てここの一種特別な土地に当てはめたものであるから、益々実測の数値とかけ離れることとなり、適切な賦租とならないことは、最初より分り切ったることなれども、改正掛の思ひがここに無かったことが六ケ村の不幸であった。

   (十八) 印南新村畑作毛見願

 印南新村旧田は僅に三町五反、旧畑は百八十三町四反であり、畑地が非常に多く、そのうえ連年の干ばつと産業不振で肥料も十分に施すことができず、平均の麦収穫は三、四斗に過なかった。其の中には荒れはてて作付ができないものもあった。そのような状況であるのに、区長の内示した改正余定収穫は九年以上として、普通畑地と同様の収穫量を賦課したことから、非常に不当であるので、左の請願及び追願を行った。

***** ここから後は 口語調に変換できていません ***********

 収穫之儀願

 本年縣令第一号御達に基き、各大区模範村を初め各小区模範村地等比準に至る迄成功相成候処、やや不公平に付、尚精議修正の御命令有之、よって今回當小区内比準協議曾を開かれ、既に協議決定収穫の内、本村畑方収穫は非常に高く、實地と格別の相違有之に付、向後収穫曾議の節、此小区内協議決定の収穫にて地租を定められては、永く村民の不幸となり、尚、地租改正の御旨意にもとり侯。よって本村は更に地等調査曾を設け、本村の模範實地に就き、来る明治十一年の麦作収穫の時に、毛見を行って収穫量のご決定なされるよう、このたび連名で奏願した。

   明治十年十一月 日

    播磨國第六大区三小区印南新村

惣代人

赤松治三郎

井澤重太郎

松田宇左門

丸尾茂平次

松尾宗十郎

赤松治郎三郎

兵庫縣令 森岡昌純殿

右指令無之に付追願左の通り

 収穫之追願

 本村畑方収穫の義に付、村中協議の上去十年上願仕候。明治十一年麦作収入之季節を待ち、毛見御試験の上収穫御定被下度願上候処、未だ何分の御沙汰無之、何卒右御指令被下度此段追願仕侯也。

  明治十一年二月十六日

    播磨國第六大区三小区

       印南新村戸長 丸尾茂平次

  兵庫縣令 森岡昌純殿

  右の指令もなし

   (十九) 地租改正小区長曾議

 明治十一年四月、地租改正事務所より各小区長及改正用掛を召集し、姫路船場、本徳寺に於て開曾、さきに各小区、地等議員が各大区模範地を巡視し、地等収穫を議定したるものを標準とし、別に全國の総租額を定めて、之を全國の各耕地に割当てんとの提議ありて、原案に賛成者あり。又此地等収穫のままにて預定租額を割当は不公平と視認むる各村もあり。故に其の不公平と視認むる各村を特に再調査をなし、修正せんとの主張者あり。議まとまらず。依て此調査を一切改正掛に一任せんとの動議あり。之に賛成者あり。又反対者あり。

「之には片山区長が大反対をなし、正も亦反対者の一人なりき。」取決の際改正掛に一任するに賛成者三四名の多数にて、遂に改正掛に一任するに決せり。故に印南新村外五ケ村の地等収穫再調査の責任は改成掛にあるなり。

   (二〇) 地等改正新租額発表

 明治十一年七月二十四日地租改正姫路出張所より、播磨國各小区長及、改正掛り各町村戸長総代を姫路坂田町妙光寺に招集し、改正租額仕訳書を各町村に下渡され、即、印南新村外五ケ村へ配賦せられたる改正反別、租額を挙くれば左の如し。

一、改正総反別、千百四拾町五反八畝六歩。

   旧反別四百三拾四町壱反八畝弐拾四歩七厘

  差引増反別、七百六町参反九畝拾弐歩

           (反別数字間違に付訂正)

一、新租額「百分ノ三」 七千八百六拾参円七拾壱銭壱厘

一、同 「百分ノ二半」六千五百五拾参円九銭参厘

 差引

「百分ノ三増租額」五千五百四拾五円九拾七銭三厘 (明治九年分追徴額)

「百分ノ二半増租額」四千弐百参拾五円参拾五銭四厘 (同 十年分追徴額)

追徴金、合計 九千七百八拾壱円参拾弐銭七厘

右の通、新租額を発表せられたり。猶是に明治十一年分の新租額を合せて、同年末に納むべき総粗額左の通一、一万六千参百参拾四円四拾一銭九厘

      (明治十一年末に納むべき総租額)

  内

 金、九千七百八拾壱円参拾弐銭七厘

          (明治九年拾年分追徴額)

 金、六千五百五拾参円九銭弐厘

           (同 拾壱年  新租額)

 上記、明治十一年末に納むべき租額は、田租に対し七倍以上となる、素より正当賦租なれば仮令旧租に数倍するとも敢て否むの理無といえども、事實は之に反し、不當も甚だしき如上の重租を賦し、之が為六ケ柑の人民は土地を、剥奪せられたるもの四百四十名、地を売り租を償ひたるもの九十四名、其の土地を維持すること能はずして、売沸いたる者六百名、の責を免かるべからず。其の罪跡は上述及下述するところの如し。

   (二一)

 旧六ケ村は、上記の如く畑地が非常に多く、随て改正増租も多し。田の改正増祖は詠凌ぎ得べき

も、畑地の増祖に至っては凌ぎ得洋し。依て其の地、新田祖額を畢ぐること左の如し。

又活路を失ひ四方に皇流寓するもの八百名な是皆改正掛が違法の所置をなしたるに享職由す。畏くも聖天子上に在り、地租に関しては深く御珍念あらせられ、明治六年に御懇篤なる上諭あり、凡民情を御珍念あらせらるることは常に御制の御詠歌にも彰はれたるにも拘はらず、如上の非理無法なる改正賦租をなし、人民を▲5}虐遇し乍ら政府を【α欺き、己れは栄職を貪り、■ナー剰へ民情を述ぶをき達し、己がす蹄指に便なる郡長をして、如上の虐政を施さしめたるは、其の責、改正掛に止まらず、10必克任用其の人を得ず、鮪令に於ても其

旧 柑名 畑 反別

皆薪村 九〇町五反六畝〇九歩

野谷新柑 六三 六 七 〇二

野寺 村 八〇 八 〇一五

笹谷 付 六叫 八 七 二七

下車谷村 三六 八 六一六

印南新村二ヒ二 二 八 〇三

旧祖反昔

○円「七銭八鹿

  二→ ○

  叫五 七

  三八 山

 ∴三 二

 二二 〇

 新祖反薗

○円八七銭九虜

 八二 七

 八二 八

 五八 七

 五六 五

 七〇 五

差引増額

円七〇銭一座

 六一七

 六七 〇

 二〇六

 二三 三

 四八五

19

   (二二) 印南新村改正祖額

 旧六ケ村中祖額の最も重きは印南新村なり。

其の改正祖額左の如し。

一、田反別

 

 収穫米

 平均

 三拾五町八反式畝式拾一歩

 

 三百七石七斗六舛七合

                    せき

反富 九斗五舛九合四勺

地膚金

 

地租金

一万式千三百九拾六円六拾三銭三厘

 

三百七拾一円八拾九銭九厘

「米相場石、五円八銭、利子、六朱七厘二毛」

 平均反首一円三銭七厘

「 畑反別 式百七拾式町壱反八畝参歩

  収穫米 式千五官五拾石八斗壱舛六合

  平均反蕾 九斗五舛壱合八勺七才

地膚金 六万参千九官五拾円八拾五銭式厘

地租金 千九百拾八円五拾式銭六厘

「麦相場石、三円五銭、利子、六朱五度〇二八」

  平均反首 七拾銭四厘九毛

「 宅反別式拾町式畝式拾式歩

地慣金 八千八百九拾円四拾八銭七厘

地租金 武百六拾円七拾壱銭四厘

  平均反富 三円式拾壱銭

合計

 

 総反別三富式拾八町参畝拾六歩

地償金、合計、八萬五千式百参拾七円九拾七銭式

                      もチ

此地租金、式千五百参拾七円九拾七銭式厘

                 「百分ノ三」

止軋千古参拾円九拾四銭九厘

@耗の堀所

                「百分ノ二半」

 旧租金、七百四拾参円八拾九銭七厘

 

 内、田租、百円八拾六銭八厘

   畑、宅租 六百四拾参円式銭九厘

 新旧租、地膚「百分ノ三」差引、千八百拾参円

 式拾銭式厘増。

 同     「百分ノ二半」差引、千参百八拾

 七円五拾銭式厘増

 

   (二三) 改正地租に不服

 上記黄租額発表の際、印南新村外五ケ村戸長及地主総代は、此新租額にては負担に耐へ耕き旨改正掛へ申出たるに、改正掛は種々説諭をなし、漸くにして印南新村を除き外五ケ村を請印をなしたるに、猶印南新村戸長、丸尾茂平次は服せず。其のT−抑、丸尾戸長が改正掛に演述したる要旨左の如し。

 丸尾戸長日、若し此新租額の債にて請印せば、わ吾が村、畑地二百七拾式町を所有せる各地主は納粗すること能はずして、−」▼窮境は遂に共の土地は公費に所せられ、土地の権利は他に移り、其の極亡村となるべきは必然に付、寧口此畑地を曾悉皆奉還しても、此請印はなし#しと。

 改正掛長日、印南新柑の畑地が悪きとても、一反に付六、七斗の収穫無き筈はなし。然るに之を拒むは(彰好物なり。若し此改正に不服なれば鮪令を被告として大審院に訴ふべし。

 丸尾戸長日、決して長官に赦する意にはあらざれども、吾々は一村の代表者として、斯くの重租に請印をなしては各地主へ申訳なし。此請印をなすと否とは、一村の安危存亡に関すること故に、強ひて斯く甘執廿憎の至りなれども此請印は致し#く、且吾村は嚢に地等収穫調査の際に、吾村は、特別に麦作熟するを待って毛見取りをなして、正普の賦租をせられんことを−ぎ要再も願いたれども御採用無くして、斯くの不昔の重租を賦せられては到底御請は致難し。此他に應答ありたれども丸尾戸長の意志堅くして奪ふべからず。然るに此日は播磨全図各町村戸長及び地主総代数百人合合せるに、丸尾戸長一人の不服の為改正掛長より全体へ演述の義あるも、之が為演述することを得ず。掛長は大いに困却せり。

  (二四)丸尾戸数郁噺呵

上記のを梨掛につき、関係改正掛及区長よりも種々説諭するも、丸尾戸長は厳然として動かず。

依て改正掛より隣小区長即正に説諭の嘱托あり。正は本人に説諭するの責なしとし、且は断はりたれども、改正掛は正は全囲各大区地等比準副議長にもあり、且本郡各小区模範地等議長にて、六ケ柑の土地の景状も粗ぼ賓検の告廉もあり、努々依頼するとのことにつき、乃丸尾戸長を別室に招き、本人が改正の初めより職務に忠賓なるを′邸慰籍し、且印南新村の発状は深く察するところなれども、現場全図各町村戸長及総代に対し、改正掛長より演達の儀あるに、一人の不服の為めに其の演達がらず、掛長も大に困り居られ、故に兎も角も柾げて請印をなし置き、追てふ貫地再調査を請願しては如何と云ひしに、戸長は忠告の段は深く謝するところなれども、此請印をせば書付は亡付するは必然に付、到底請印はなし#しと述べたるに付、正は此場合繰りに請印を拒まれては、或は違命の廉を以て警官の手に羅る様なることがありてはならぬにより敢て忠告する旨を述べたるに、戸長は憤然として警官の手に羅ることは素より覚悟のことにて、本日家を出づるとき家累に無事では帰られまじと告げ置き、己に其の覚悟は致し居るとの辞に、正は感心して其の事を、改正掛に通じ、且斯く職務に忠賓なる人物に、正が非理なる忠告をなしたるを胸中惚づると倶に、該柑に人あるを知り、後該村に内務省葡萄園を設置となるに就ても、該戸長と熟議して成り立ち、尋で内務卿、大蔵卿、農商務卿以下諸官員績々該園巡視の傍ら、該村及該村地方の状況が政府に貫通し、遂に水利土工費囲庫補助金四萬五千円下渡の端緒となれり0其の詳細は下に弘ぷるところの如。

 (二五)改正掛長各町村戸長及地方総代に演達(惣)

 改正掛長は丸尾戸長を除き、其の他の各町村戸長及地主総代を一堂に集めて、地租改正の肇めより、改正の趣旨を体認して励精勤勉に依り漸くにして完了し、本日麦に新租額を発表するを得たるは関係諸氏の義痔に由りて然るなりと慰籍して何れも皆帰付せしめられたり。

  (二六)印南新柑戸長に決答を促す

 改正掛長は丸尾戸長が改正新租に不服を唱へ、請印を拒むに於ては、更に考ふるところにより、弥々此新租に不服にて請印を拒むや否や、此場にて即答すべき旨を片山区長に演達ありて、区長より猶精々説諭をなせども、丸尾戸長は其の場にて即答をなさずして旅宿へ引取りたり。

  (二七)印南新村戸長漸く請印す 片山区長及改正掛は丸尾戸長の旅宿に至り、猶懇々説諭をなせども、戸長は矢張り前説を主張して服せず、畑慧蔚齢郵現すると云ふを、区長改正掛は先づ請書を出し、其の上、自然公膏処分となれば、土地は自然奉還に斎しきことになるにより、矢張り請印するが宜しからん、併し乍ら其の土地を公費処分となることは†高々あるまじ、高一にも其の様なることがありたれば、区長改正掛に於ても決して放棄はせぬにより、此場合兎も角もときなだ請印するが得策ならんと説宥め、其の夜も深更に及び戸長も魂気轟き、然らば吉村は亡村する覚悟を以て請印すべしと述べ、遂に其の翌日請印をなし帰村せり。

 

  (二八) 六ケ村人民不首の重租に憤慨す

 六ケ柑戸長及地主総代は帰付し、各地主に改正租額を通知したるに、地主は不首の重租に驚き大に憤慨し、且日、抑、地等収穫議事の肇より、不曹の賦租とならざる様の預防に苦心斡旋し、改正掛に幾回と無く陳情せるときには叱付けられ、今となりては多額、宅も其の効なく、剰へ此調査の為め、三年の長日月と莫大の費用を、普通柑よりは多額に支消し、且改正掛は常に公平至首の賦租とすべきを誓言しながら、斯く無理無法なる改正地租を強ひらるトは、全く改正掛に欺かれたりとて議論沸騰し、是非共再調査を頗ふべしと衆論一決し、六ケ村戸長より其の旨を区長に申出たれども、区長は之を止め、暫く時期を挨つべしと精々説諭をなし、戸長は遺憾極まり無きも己むを得ず、其の説諭に従ひたれども、猶印南新村は畑反別多き故に凌ぎ方無く、賓際之賦租にては負担に耐へず、結局土地は公費処分となり、樽来の土地に離るるに至るべしとて村中†〉淘憂せり。

   (二九) 地租改正取消上申

 印南新村戸長丸尾茂平次は、改正掛及区長の説諭に依り、己むを得ず請印をなしたるものの、帰村猶篤と考ふれば、請印をなしたるは甚だ不得策なるを自悔し、帰村数日を経て鮪令へ事賓を具し、地租請印取消上申書を区長を経由せず、親展を以て提出したるも、此上申に対し何の沙汰も無かりき。

   (三〇) 山田川疏水事業創始

 (一)発端、抑此山田川疏水の起因は遠く明和年間に創始せしが、昔時各藩境域を接し議熟せず、ホ後に於て前志を継ぎ発起したる有志者氏名左の如し. (二)第一の発起者、文政九年、丙成年本郡国岡新村福田嘉左衛門(現淡河川水利組合委員福田秀一の祖父)が発起し、野寺村勘左衛門、同村藤左衛門、美嚢郡三木町の平兵衛、等と相謀、摂津国八部郡衝原村を貫流せる山田川を水源とし、明石郡紫合村手練部屋に至る迄の疏水線を斉測し、福田嘉左衛門が自筆にて薗面を制し、(此固面は現存し此疏水線斉測には之を標準とす)工費の見積をなし、領主へ出願し、領主に於ても種々評議もありたれども、疏水線が他領にも跨る故に、議遂に績まらずして採用の運ひに至らさりき。

 (三)第二の発起者。前者に尋で発起したるは即、野寺村里正魚住完治なり。之より先きに魚住里正は、元治慶應より明治初年に亘り、居柑が屡々皐災に躍り、貧民は殆ど飢餓に迫るを深く憂慮し、乙が救済するに、村内山林数十町を村民を傭役して切沸ひ、其の地に新池を築きて、新田四拾町を開墾し、其の傭工銭を以て救助せんとし、先づ之を姫路藩廉に請願したるに、藩廉に於ても其の畢をl嘉みし之を許可し、仇金四百園を輿へて其の費を補はしむ。此の藩命の下るや、畢村大に喜び魚住艶卦を推して管理者となし、明治元年新池を起工し翌年竣工し、尋ひで新田を開き遂に魚住2里正の見込通り工役金を以て貧民を救護し、一方に於ては永世無壷の富源を起せり、近時代に此地方に水利を起して開墾をなしたるは之を始めとす。

 魚住里正は如上の経験を以て遂に山田川疏水事業を企て、其の同志者は圃岡新柑福田厚七及同村花房樺大夫、明石郡神出柑西村茂左衛門等にて、同村藤本増衛門を測量手とし、各自費を以て通水線賓測し、着手すること数ケ月、魚住里正が主動となり、疏水線路を往復上下すること数十回、而して此測量費大半は白から負担し、猶別に一己にて測量手を拾数回雇ひ、疏水路線の見積りを屡々変更し、賓に焦心苦慮、此測量の為めに費弊らず0殆ど家産を傾くに至り、其の熱心なるを人皆感賞せり。

   (三一) 山田川疏水請願

 前競に記する如く、旧六ケ村は此年凶皐、産業不振に加ふるに、改正重租の大難に遭遇し、有志者は深く之を憂慮し善後の方策を考案せん折柄、魚住里正は此大難を車挽回するには、即此山田川疏水を起すが急務なるを主唱し、有志者之に賛同し、遂に左の請願書を賄令に堤出せり。

 新流掘割之儀願(本願書は三区副区長、有坂貞蔵氏の起案なりと聞く)

 宮村の義は二百年前後の新田畑多くして、水源浅く、他に水利を得るの方策無之より、一担降雨少き歳に遇はば忽ち皐害に罷り、惨状賓に言ふべからず卜且養水に乏しきにより、畑方最も多し、其の反別の2廣漢なるを、非常の労力を以て漸く生産を立来り申候。而て摂州山田の郷、衝原村山田川より掘割をなし、八月より翌年三月三十日迄の問(山田川井堰養水の要時を避け)引水すれば、其の掛り数十ケ村に捗り、以て各溜池に充合して皐歳の虞をなし、又畑を以て田となさば数層倍の労力を省き、此労力を以て田方に用ゆれば地味益々肥摸し、収利多く鴎て御囲産を増殖し、賓に一挙両得の鴻益を得、永世不抜の大基礎と存じ、旧藩主へ出願し掛官にも頗る御尽力あらせられ候得共、各準ぎ岐立の情勢、遂に談判整ひ兼、苦心も水泡に属し遺憾の事に有之候処、今や公明正大の聖詔に基かせられ改租額御布令相成、謹んでおうけたてよつりそっれへ ぜんちん奉御諸侯得共、享前陳の如く畑方多きを以て、永世取績き方の基礎を確定せずんば凶年飢歳の熱願和がやと深く憂慮仕候0且キ小前末々にも安堵の思ひをなさしめ、倍々農事に奪勅候様仕度と一同発起仕り候。然れども水道は工事の難易、永世の便否を量り、屈曲迂回に随ひ、一6整下に沿ひ、或は巌石を疎通する等、数里間を測量見積り仕候得共、猶精確を極めざれば、不成は贅言待たず。仰ぎ菓は厚生至仁を垂れられ、官に於て測量被成下候上、成否の御指揮被成下度っ依て絵図面及掛り反別概略見積り、別紙相添へ此段奉懇願候。以上。

 

  明治十一年九月七日

 

      加古新村総代  畠  義一

      野谷新村同

兵庫解令

印南新柑同

国岡野村同

蛸革新村同

野寺村 同

 森岡昌純殿

丸尾茂平次

福田 厚七

岩本須三郎

魚住 完治

 右指令

 書面願之趣、水利順逆賓測之儀は聞届侯條、追て官員派出日限可相達侯事。

  明治十一年九月十四日  兵庫鮪令 森岡昌純

 上記請願が疏水に関する請願の始とす.