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メッセージ

思い煩いからの解放

 貝塚聖書教会牧師 池尻良一

 

*「思い煩い」は「心の分割」

 「思い煩い」は、絶えず私たちの生活を混乱させます。ところが振り返って考えると、その殆どは非現実的で中身のないただの煩いだったりします。しかしそうと分っていても、一旦それに捕われるとそこから離れられず、手の中のボールを右手から左手に、また左手から右手に往復させるように、思い煩いが私たちの心の中を行き巡るのです。
 「私の生涯は悲惨な不幸に満ちていた。しかもその不幸の大半は現実とならない空想上のものであった」。
 これはフランスの哲学者モンテーニュの言葉です。では何故私たちは彼が言うように「大半は空想上のもの」と分っていてもそこから離れることができないのでしょうか。
 古代ギリシャ語で「思い煩い」には、「心を分割する」という意味があります。つまり「これは心配しなくてもいい」と考えるすぐ後から、「本当に心配しなくてもいいのか?」とささやく声が聞こえてきて、私たちの心が分割されるのです。これはどうも私たちの人生を台無しにしようとする悪意ある働きかけのようです。私たちはその正体を見抜いてこれを克服しないと、生涯暗闇の中を徘徊する羽目に陥ってしまいます。以下これを克服する手立てを幾つか考えてみます。

1「一日一単位」で生きる

人は一日一単位でしか生きられません。それで今日起こっていないことは、それがどれほど現実味を帯びていても、今日思い煩う必要はないのです。私たちはどんなことも事は起こってからでも間に合うと思い直し、一日一単位で生活して、思い煩いで今日という日を潰さないことが賢明なのです。聖書にこんな言葉があります。
 「あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します」。
 あすのことはあす考えれば良いとして、その思い煩いを排除したいものです。

2 「忘れる」は大事な能力

 私たちは日常、計画を立て心積もりをして生活します。思い煩いを克服するためには、計画を立て、心積もりをしたら後は忘れるということが大事です。「忘れる」というと何か不注意なことのように聞こえますが、決してそうではありません。自分を信頼して忘れることは、私たちが思い煩いの渦に巻き込まれないための重要な秘訣です。問題は現実化するまで頭の引き出しの中に仕舞い込んでおけばいいのです。

3 「比較生活」comparative living から離脱

 人生に競争はつきものです。また競争は人の可能性を伸ばします。しかし競争が人を破壊し、ゆがめる現実も見落としてはなりません。私たちは人生を一定距離走れば、自分のペースに気付く必要があります。そうでないと絶えず他人と自分を比較する泥沼に足をとられ、生涯の大半を焦りと苛立ちに費やしてしまいます。大事なことは、他人と自分が違う以上、他人と違う自分を生ることです。そのことに早く気付くなら私たちの人生はもっと豊かになるはずです。   

最後に 「信頼」のある生活を夢見て

 植木を植えて根が土に馴染んでいるかどうか心配で毎日鉢から抜いて確認した分には、確実にその植木は枯れます。「一旦植えたら後は任せる」。この原則は大事です。
 しかし私たちの生活は、植木のような訳にはいきません。果たしてやるだけのことはやって後は見守る、それで済むかどうか。疑心暗鬼に慣れている私たちは、微に入り細にわたって心配しないと安心できないのです。
 「あなたがたの思い煩いを、一切神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。  聖書のこの言葉に誰もが戸惑います。気休めで聞く分にはよくても実際はどう考えてもこれは非現実的とし  か思えないからです。しかし私自身はかつて眠られない夜を過ごすような課題を抱えた時、この言葉は自分に 対する挑戦の言葉ではないかと思えたのです。何する術もなく無力になっていた私に、「後はこのわたしを信 じて、お前はただ事の推移を見守ればいい」と語ってくれているように感じました。その根拠を言葉でうまく説  明することは出来ません。ただその時から、私はこの言葉に心促されて生きることを学びました。それによって あれほど根強く私を支配していた思い煩いから心が自由にされつつあるのも確かなことなのです。
 「この希望は失望に終わることがありません」(聖書)。

8月のお花

過去のメッセージ

2007.6-7月掲載分「目を覚ましなさい」
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