堺の古版画。37×31cm。状態は良い。モンタヌス『日本誌』中の版画。本自体から切り離されているのでよくわからないが、「凡例」の記載から見て蘭語版のものである。



 『日本誌』で、堺はSaccai, Saccaio, Saccay, Sacci と表記され、14箇所に記載がある。ほとんどが、単なる地名として出てきて、詳しい記載があるのは二箇所。一つは、堺市の「タイマオギニ」(Daimaogini、邦訳者は大明神か?としている)の奇祭と堺付近の大寺院(the great temple:大殿堂とすべきか)を書いた箇所(英語版p.302-303、邦訳p.302-304)。いま一つは、この版画が挿入されている箇所である(英語版p.419-420、邦訳p.418-419)。

 版画の説明するために、まず、この版画の左上に書かれている「凡例」を写す。翻訳に自信がないので、()内に原語・蘭語を示す。

1.市港の島(Een eylandt voor de stads haven)
2. 日本のシオエン(Een Japans Sioen )
3. 観音寺(De Temple van Kanon )
4. 水城(Water Kasteel )
5. 港(Haven )
6. 都市中心部の周壁(De Meur van t opper deel der stadt )
7. 日本最大の寺院(Temple de vermaerste van geheal Japan )
8. 長官の邸宅(Governeurs huys )
9. 城(Een Kasteel)
10. 王の宮廷(Hof van den koninck )
11. 王の城(Het konincklyek Kashat)

 詳しい説明は後記の私訳を参照してほしい。ここでは、版画の前景から順に(番号とは異なるが)概要を説明する。

 最前景に(2)小舟「シオエン」が描かれている。本文には、三つの帆柱と帆を持つ舟と書かれているが、多く見えるのは、二つの帆と帆柱を持つものである。楽を奏する船から観音礼拝者が入水自殺するのが描かれている。「補陀落渡海信仰」などが影響したのだろうか。
 陸との間に(1)市港の島、「ピエネス(Pyenes)島」がある。島の二つの丘の間に(3)「観音寺」が見える。陸地の最先端が(4)水城である。塔を持ち、関税を徴収したとある。その後ろの湾が(5)港である。
 港の後ろに(6)堺市を取り囲む周壁が描かれている。その前には堀があったと書かれているが、画ではよくわからない。水城の後ろに尖塔を持った建物が見える。数字を読み取りにくいが、(8) 長官(Governeurs )の邸宅であろう。本文に、「水城に面した周壁から遠くない場所に、堺の総督(Vice・roy)が住む平坦な宮殿がある。その中には非常に高い小塔(turett)があり」とされているものだと思われる。凡例のGovernors(英語版表記)は、本文での、Vice・royに該当するようである。
 港の左の丘の(上?)に(7)日本最大の寺院(あるいは殿堂)がある。これも、番号が分かりにくいが、塔(これも分かりにくい)が描かれているので間違いなかろう。本文の別の箇所(邦訳p.302-304)では、塔は八層八角で、300呎の高さを持つとされている。
 山頂部の左側にある天守閣のようなものが(9)城である。本文には山頂部に二つの城があると書かれている。もう一つの城が、最高所にある(11)王の城である。この城近くに(10)王宮が立っている。紀伊の王が住み、そこに堺の国府が建てられている。二つの高い塔(一つは九層)を持つ。

 現実には、地形的に環濠都市としての堺は平地にあり、山はない。書かれている城や宮殿、大寺院が何であるかも不審である。空想の産物か、他所との混同だろうか。そもそも、九層の塔は、日本では(京都の法勝寺にはあった)めったに見られないと思うのであるが。

 該当箇所の邦訳には省略部分がかなりあるので、私訳を次に掲げる。下線部分は、邦訳書にない部分である。

 「長崎より二月二日出帆。[中略]44日間、海上に揺られて三月十七日大阪に投錨した。
 彼は堺の近くを航行した、海の景観は素晴らしかった。この市は紀伊(?Quio)王国に位置し、大阪から五リーグ、日本でも最も威厳のある市の一つである。ほとんどの住民は、王や王子となる少数の日本貴族より、勝っている。内裏の廃位によって、日本が内乱に大いに悩まされた中にあって、堺はなんら恐怖に見舞われなかった。多くの他の都市や要塞が全く廃墟となった時も、いかなる征服者もあえて堺には手を出さなかった。
 この都市は、西に海があり、山が隆起している場所以外、大部分は、水を湛えた堀で囲まれている。そこは、いかなる敵のどのような侵入からも安全である。砂岩よって地面から積まれた非常に高い壁のみならず、山の最頂上に築かれた無敵の城で要塞化されてもいる。この城は15の堡塁がある。そこには細く危険な途によってのみ通じている。こうして全市が畏怖を保ち、山に向かって建てられた周壁を守っている。
 この城の片側には別の城が山の急斜面に立っているが、高さは同じある。砂岩で建てられ、50フィートの高さに聳立している。別の側に、より高地に建つ城近く、王宮が立っている。紀伊の王が住み、そこに堺の国府(Province)が建てられている。その宮殿は、市街の上に聳え立つ二つの高い塔を備えているのが見える。大きい塔は九階建て、もう一つはそれより小さく、最上部は相輪(Pinacle)で終わっている。
 港の前の海上にはピエネス(Pyenes)島があり、周囲に平坦な海岸あって、概して多くの人が群れている。というのは、観音に身を捧げる者たちが、召使や友人を引き連れて、そこに来るからである。第七宗派の僧が群衆の前を歩み、大きな銅鉢を鳴らして、観音礼拝者を岸に繋げた日本船シオエン(Sioen)(すなわち一種のBarque[小舟]、作り方は違うが)に導く。シオエンは帆柱三本と同数の帆を持つ。帆柱と帆桁より長い風見旗(?Vains)と絹の槍旗を吹き流している。あまつさえ、シオエンはいたるところに蝋をぬり、金色の彫像で飾っている。信者は鉢の音によって飛び跳ね踊り、ついに船に乗り込み、船が岸を離れると、首と胴と脚の周りに大きな石をぶら下げて、観音のために堺港の前の海に飛び込む。この寺院の門前に座り、偶像に話しかけた二日間の後である。
 この投身自殺は必ずしも熱心よりなされるのではなく、時には貧困あるいは病気の癒しがたい痛みのために人生に疲れたことによる。
 このピエチス島(二つの高い丘のために、中間に非常に遠く見える)には観音を勧請した大寺院がある。山の斜面に石で建てられたものであるが、大阪にある観音寺に比べても遜色がない。そのうえ、島の周囲には、前述の目的のために数隻の綺麗なシオエンと他の小舟が置かれている。
 ピエチス島の反対側には、険しい丘の麓にある岬に、水城が建てられているのが見える。これは最も人工的な平屋の建物で、強固な四角い城壁の真中に、頂上が平らな二階建ての大きな塔が、立っている。山に向かって 二つ大きな真直ぐな道があり、道の終わりに、上部が横に吹き出た広い屋根で覆われた、もう一つの四角い塔がある。 市に関税を支払わずには、この水城を通過することができない。
 この要塞の背後で、海は、市の前面に湾をなしていて、水城、岩の裾に押し寄せる。城の近辺の他のものも信じられないほど高い。そのうえ、港は市の周壁の直ぐ前まで来ている。それは砂岩で作られ、満水を湛えた深い堀から起ち上げられている。山が隆起している場所は別である。というのは、堺は大きな岡の中腹に堀を造ったが、半ば水が涸れているからである。周壁は強固さと高さにおいて防御に十分であるにもかかわらず、その上、山頂、山の最高部にある二つの城によって要塞化されている。水城に面した周壁から遠くない場所に、堺の総督(Vice・roy)が住む平屋の宮殿がある。その中には非常に高い小塔(turett)があり、遠くから見える。堺の内外の家屋はすべて石造である。近郊の岩石が豊富に供給されることによる。市の秩序はよく保たれ、いかなる時でも、強盗、意見の相違、口論が住民を騒がすことがない。もし、騒動が起こる時は、街区は門を閉し、官憲は犯者を捕らえて奉行(Magistrate)に引き渡し、厳罰に処する。市の厳格な秩序にもかかわらず、人は争論を、刀を抜いておよび壁上より石を投げて決する自由を有する。

 しかしながら、堺で最も著名であるのは、価値と規模において日本中の他に優れた大寺院である。アラカン(Aracan)、ペグ(Pegu)、カンボジア、台湾、交趾支那、ボルネオ、フィリッピン、朝鮮、中国、シャム等の異国の神々、および蝦夷の蛮民より借りた恐ろしい一偶像に捧げられたものである。
 あらゆる種類の偶像を持つこのような寺院は、かってローマに立っていた。パンテオンと呼ばれ、皇帝アウグストを婿にしたアグリッパによって建てられた。(以下この建物の説明や類似のギリシャ施設の記述が続くため中略)

 しかしながら、堺の有名寺院のその他の諸偶像のほかに、シャムよりもたらされた、溶解した宝石の女王の偶像は、少なからぬ讃嘆に値する。そして、その起源を探ることに労力を費やするのは無駄ではない。(以下その起源が長々と述べられる)」(英語版p.419-420)

(2023/8/20記、2023/9/25ブログから転載)