モンタヌス『日本誌』所収の「鹿児島」の古版画。原本から外されているので、どの刊行年のものかは不明である。左上に蘭語の「凡例」が記されているが、蘭語版(四版あり)のみならず、独語版(1669年)でも凡例は蘭語である。蘭語初版(1669年)ではp.418-419の間に貼付されているもの。”CANGOXUMA”の表題が付されている59×31cmの大判図版。私蔵品は、破れや汚れがある。前景にジャンク船が行き交う湾頭には灯台が描かれ、中景には水城や倉庫のある市街地がある。右奥の遠景には高山がみられる。




 『日本誌』の邦訳や中島論文を参考に説明を記す。『日本誌』の原題は『東インド会社遣日使節紀行』であるから、長崎から江戸の参府紀行が中心のはずであるが、コースから外れた鹿児島が叙述されているのは、蘭使ゼルデルン(実在が確認されていない)が船で長崎から江戸に向かうに際し、大風に会い鹿児島に漂着したからだと書かれている。

 原書の鹿児島の叙述は、不明な点が多い。地理的には、市内を(ローヌ河やドナウ河に比べて)急流の川が流れて朝鮮海(東シナ海)に注いでいるとされていること。北西4レグア(15-30Km)に雲を超える高山があり、テネリフェ島のテレイラ山(テイデ山3,718mのことであろう)を除けば地上での最高の山と書かれていることなどである。建物も、中央に描かれている「水城」は、「方形で深い切れ込みがありヨーロッパの要塞風」と記されているが、該当する城は見当たらない。歴史的にも、鹿児島に幕府の施設があるとされていたり、薩摩国が幕府に反抗を企てたとするなど史実に反する叙述が多い。

 この版画を見て最初の印象は台湾の町との混同があるのではないかということであった。中島論文にも「街並みも日本のものというより中国みたいな感じである」(p.56)とのある学者の評言が引用されている。論文に添付された本図は彩色されている。それを見ると、台南市にある赤崁楼(プロヴィンティア)を髣髴とさせられる。あるいは、鄭成功が攻撃したゼーランデイア城(安平城)のイメージかも知れないと想像したりする。ゼ城は、四角の城塞部分を持ち、海から石積みがなされている。もっとも、手彩色だから、いつ彩色されたのかも不明だし、どれほど著者の意を体して彩色されたのかもわからない。ただし、ささやかな傍証は英語版(のみ)の中で鹿児島を国姓爺(Coxenga)と二度誤記していることである。それは、さきに鄭成功(国姓爺)と台湾を扱った記事があり、それに影響されたとされているのだが。

 そういう目で見ると、鹿児島から見えている最高度の山とは玉山(新高山、3952m)のように思えてくる(本文には噴煙を上げる火山のように書かれている点は異なる)。理論的には、赤崁楼のある台南から玉山は見えそうである。計算してみると225kmまでの距離なら頂上が見える(物理学者の大栗博司『探求する精神』の式を参照した)。台南―玉山は約90kmである。


(参考文献)

 中島大輔 「A.モンタヌス『日本誌』に描かれたCangoxuma(鹿児島):その資料的価値に関する一考察」 経済学論集、鹿児島大学、87巻、2016-10-17、p.41-79
 和田万吉訳 『モンタヌス日本誌』丙午出版社、1925

 



 中島論文所載の「水城」の彩色図


赤崁楼


ゼーランディア城

(2023/6/15記,2023/9/29転載)