モンタヌス『日本誌』蘭語版中の版画である。表題は“s Kysers hof te Jedo. das schlos zu edo”(江戸の皇帝の宮殿。江戸城)。36×30cmの一枚摺。





 まず、版画の下に書かれた凡例を見る。オランダ語はよく理解できないので、不明の部分は英語版の凡例を参照した。
1. De erste Muyr vant Casteel,  城の第一の壁
2. De Brough van de Muyr, 城壁の橋
3. De poort van de Muyr, 城壁の門
4. Logysen voor de Keyserlycke Soldaten, 皇帝衛兵の宿舎
5. De tweede Muyr, 第二の壁
6. De derde Muyr desesin soo in een geftrengelt datamen dear in verdoolen sou, その中で迷うように組合せ設計した第三の壁
7. De poort van derde Muyr 第三城壁の門
8. De Keyserlycke Turn, 皇帝の庭
9. Het Kyserlyek Voorhof, 皇帝の前庭
10. Het open guilde dak van Audientie, 謁見者のための壁のない黄金屋根の建物
11. De toorens van t kysers Binnen-hof, 皇帝宮殿内の櫓
12. Huysen s Kysers Bloet-vrienden, 皇帝血縁者の住居
13. t Vrou getimmer, 後宮(英語版による)
14. Kyserlyvk lust-huys, 皇帝の宴会場(英語版による)
15. Kyserlycke Pagod, 皇帝の塔
16. Kyserlycke macht optreekende in t getal van 3000 man, 3000の数に達する皇帝兵力

 例によって、蘭使フリシウス、ブロークホルストの見聞記の如く書かれているが、前者は実在が怪しいし、後者は参府の記録はない。

 版画の内容を見ていこう。前景からである。左側に牛車らしきものが登っている坂道にあるのが第一門である。「エムペロルの宮殿は少なからざる驚嘆に値す。最外部の壁の周囲には、宮殿を囲める濠より数フィート隔てて大なる柵あり。その間に広き道ありて、人民および輿車の往来頻繁なり。壁は、凍石(フリーズド・ストーン:?英版freeze-stone)を以て作り、甚だ高くして厚く、その頂には、狭間胸壁あり。再外部の壁は乾きたる広壕を以て囲む。[中略:第一門の]上方の方形の各側にはエムペロルの紋章ある長旗二旗を垂る」(『日本誌』邦訳、p.154-155:旧漢字、旧仮名遣いは一部改めた)。ほぼ本文の説明とおりである。
 次に、第一壁の内側に兵舎(番号4:番号1白壁の上部)があり、第二門と第三門がそれぞれ壕に接してあると書かれている。第二門は第一門から入った行列の先、やや斜めに建てられている二階建ての門であろう(手前中央)。第二門の後方、右側が第三門だろう。堀がよくわからないが、第三門の手前の石垣の下がそれか。
 次に、「第三門を入れば広き方形の地あり。ここに至れば前面に当たりて遥にエムペロルの饗宴場(番号14)あり。壮麗なる楼を有し、樹木及び胸壁を以て囲繞せり。[中略]丘上にはエムペロルの殿堂あり。第三門に近く多くの小中庭あり。第一のものは方形にして、その周囲に多くの美しき休憩所あり。二十八本の杉の柱を以て支えられ、下は開きて廊の如く、その室の上は屋背(英語版Rooh:屋根のこと)傾斜して突出し、頂には第二階あり。周囲に壁を有す。その四隅に他の屋背突出す」(同、p.155)とある。版画の第三門を入った庭とその中央にある、あずまやらしきものの描写である。

 「前記第三門の左(右?)には多数の美しき家あり。その最下屋背の四隅は大なる黄金の球を以て飾らる(金箔の軒丸瓦?)。その上に数個の室および露台あり、此処より前記の開きたる中庭と三個の堡塁を望むべし。この第一の宮殿と第三門の内門との間にエムペロルの衛兵三千人ありて、絶えず警戒す。この第一の宮殿と第二の宮殿とは互いに連結す。第二の宮殿は第一の宮殿よりも頗る長けれども、高さはさ程にあらず。屋背はまた金球を以て飾らる。両宮殿の間には塔の如き贅沢なる建物あり、すべてこれらはエムペロルの近親の住する処なり」(同、p.156)。
 画面右側の二階屋根に破風(?)を見せている大きな二階建て建物が「第一の宮殿」であろう。見えにくいが二階の窓の中に番号12がある。二階には露台(バルコニー)らしきものも、描かれている。第一宮殿の手前に、馬上の人と兵士の行列があり番号16が付されている。第一宮殿の(一つおいて)奥にある平屋の細長い建物が第二宮殿であろう。両宮殿の間は塔のある平屋の建物で繋がれている。

 「これらの背後にエムペロルの最も壮麗宏大なる住居見ゆ。三個の高楼あり、各方形にして九層をなし、高く天空に聳ゆ。各層の屋背は甚だしく突出し、ために室を小ならしむ如く見ゆ。中央の塔最も大なり。その頂には二個の大なる海豚(鯱?)輝けるが、金板を以て覆われ、その尾を高く空中に上ぐ。これに相対して広大なる堂あり、その円柱は鍍金せらる。天井には巧みなる彫刻を施して鍍金し、屋背もまた黄金の如く輝けり。エムペロルの常に此処に座し、もって外臣または王公の謁を受けく。この広間の一方に宦仕婦人の室あり」(同、p.156)。
 宮殿の奥(右)に三個の櫓(番号11)が建っている。鯱を頂く中央の最も高いものが、天守閣であろう。他は隅櫓か。すべて九層としているが、実際は天守閣でも五層(地下あり)だった。過大である。およそモンタヌスは、他所で塔の高いもの 庭の中央にある二つ並んだ建物の奥の方(前の二階建て建築は前述「休息所」)、半分壁のない平屋の建物(貴人にさす傘の見える建物、番号9)が、前庭(車寄せ?)である。その右の天守閣との間にある同様のさらに大きい建物(番号10、謁見者用の建物)が黄金葺としているから、将軍御座所であろう。その奥の三角の切妻の壁(?)が並んでいるところ(番号13)が、後宮すなわち大奥である。

 その他、後宮の左にある丸い塔のようなものを乗せた建物が、庭の所で触れられた皇帝の宴会場(番号14番)。画面左奥にあるのが皇帝の塔(パゴダ、番号15)である。下記HPによると、紅葉山東照宮のことかと思われるが、本文に説明はない。
 なお、『城の再発見! 天守閣が建てられた本当の理由』と題されたホームページの「『モンタヌス日本誌』の挿絵は予想外に写実的」なるページによると坂下門あたりから見た光景に意外に忠実な描写だとしている。

(2023/9/23記)