JEVONS, W. S. , The Coal Question; An Inquiry concerning the Progress of the Nation, and the probable Exaustion of our Coal-Mines, London and Cambridge, Macmillan and Co., 1865, ppxix+849+ads., 8vo; Presentation copy. W.S.ジェヴォンズ『石炭問題:国民の進歩と我国炭坑のありうべき枯渇に関する研究』初版、1865年刊。献呈本。 著者略歴:1835年リヴァプールの裕福な知識人の家庭に生まれる。ユニテリアンに属し、非国教徒である。父トーマスは鉄商人であり、自らの言によれば世界で最初に海上を航行した鉄製船を建造した。刑法に関する小著や穀物法に関したパンフレットも著している。母メアリー・アンは詩人であり、自らの詩集の他、アンソロジーの詩集を編集、上梓している。母の父であるウィリアム・ロスコーは、独学で訴訟代理人となり銀行家となった人で、美術コレクターと知られ、その収集品は現在もリヴァプールのウォーカー美術館に所蔵されている。彼はまた歴史学者としてルネサンス期イタリア人の伝記作者としても知られていた。ジェヴォンズは、この祖父の才能を受けついでいるといわれている。 初等教育は家庭教師の手でなされ、学校教育は1846年リヴァプールの工業学校で初めて受ける。45年母が死亡、このころからジェヴォンズ家に暗い影が射してくる。父の会社は48年に倒産、兄ロスコーは精神を病んで40歳で死亡、もう一人の兄ハーバートも失意の中で42歳の生涯を終える。やがて、スタンレー自身も悲運の早すぎる死を迎えることになる。スタンレーは、早くから一家を背負って立たなければならなかったが、51年16歳でロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに入学する。特に化学の成績は優秀で、金メダルを受けている。この時期ロンドンを実地調査し、後のマーシャルのごとくスラム街などを見て廻ったりした。しかし、卒業よりも、早く実業の世界に入り身を立てようと考えていた。 カレッジでの最終学期の時(17歳)、オーストラリアでの金鉱発見によるシドニー造幣局開設の動きがあった。その試金官採用の話にスタンレーは応じた。彼の日記には流刑を申し渡されたような気持ちであるとの記述がある。しかし、豪州では金銭的に恵まれ、心身ともに快適であった。仕事も形式的で、勉強時間もたっぷりあった。気象学や鉄道問題の論文を新聞や雑誌に発表するようになる。ニュー・サウス・ウェールズの鉄道敷設論文執筆を契機に、経済学を本格的に研究するようになった。アダム・スミスやミル、ラードナーの本も読んでいる。「純粋に独創的な能力がその最高潮にあった時代における、オーストラリアでの長い間の孤独な思索と除々たる懐妊は、きわめて実りの多い物であった。…30歳以後におけるジェヴォンズの生涯の三分の一は、主として、本質的には彼がすでに発見していたことの解明と拡充とに捧げられた。」(ケインズ,1980,p.150)そして、彼の中に野心が芽生え、新たなキャリアを目指して帰英を考えるようになる。 1859年、約5年3ケ月ぶり、24歳で故国へ戻り、ユニヴァーシティ・カレッジに復学する。教師にはかの数学者ド・モルガンが引続き在籍していた。ジェヴォンズが復学したのも、彼に就いて再度学びたいとの願望があったからだとされており、なによりも数学を熱心に勉強した。勉学と兄弟を援助するに足る蓄えはあった。1年でBA(学士)を取り、文筆で身を立てる予定であったが、あと2年掛けてMA(修士)を取得する。第三部門(論理学、道徳哲学、経済学他)の最優秀金メダルを授与される。 卒業してからは、『経済学の理論』の骨格を示した「経済学の一般的数学的理論に関する覚書」と計量経済学の魁ともいうべき「周期的景気変動の研究」(共に1862)を発表するも反響はなく、勤め口もなかった。当時、非国教徒に教職を開いた大学は数えるほどで、ジェヴォンズは1863年マンチェスターのオーウェンズ・カレッジのチューターの職を得る。あらゆる学科の落ちこぼれ学生に対する教育補助の仕事である。学生の水準は低く、教育と講義の負担は大きかった。研究にも精励したから健康を害し、後にまで尾を引くことになる。それでも、この時期には運命の女神も少し微笑んでくれるようになったようである。就職直前に出した『金価格の重大な下落とその社会的影響』(1863)は世の経済学者の認知を得て、当代の一流経済学者と目されるようになった。本書『石炭問題』(1865)は狙いどおり世間の評判を呼び、公私の成功をもたらした。67年には、「マンチェスター・ガーデアン」(後にケインズが多くの論説を寄稿する新聞である)の経営者の娘、ハリエット・アン・テイラーと結婚する。 オーウェンズ・カレッジの教授(1866年就任)時代は、論理学が彼の思索と授業時間の多くを占めていた(全著作の半分は論理学関連である)。1876年にはユニヴァーシティ・カレッジの教授に招かれるも、著述に専念するため81年辞職する。この間、主著である限界革命の書『経済学の理論』(1871)を著している。また、晩年の十年間には、経済学や論理学の初歩を解り易く説明する自らの才能を自覚し、多くの入門書・教科書を執筆した。それらは英語圏の世界で、広く長きにわたって使用された。音楽・散歩とともに彼の「生活の必需品」(ケインズ)である水泳の最中に82年46歳で死亡。同じく水泳中溺死した日本の理論経済学者古谷弘の36歳程若くはないが、経済学者としてはまだ一働きも二働きもできた年齢である。もっとも創造性のピークは過ぎており、長生したとしてもなにほどの物も生みだせなかっただろう、とのケインズのような見方もある。 論理学の他に、理論経済学と応用経済学に顕著な仕事をなしたジェヴォンズは、また忘れられた先人の経済学書を博捜、カンテロンを発掘し「経済学文献目録」を作成したことも付け加えておく。 ジェヴォンズがいつ限界効用理論を発見したかは、日付まで明らかになっている。ラ・ノーズは、日記からそれは1860年2月19日のことだと推定している。同年6月の兄ハーバート宛て書簡では「疑いもない真の経済理論を発見したのであり、それは完全で、矛盾のないものである」と述べている。62年9月には満腔の希望を抱いて主著の骨子といえる「経済学の一般的数学的理論に関する覚書」を、気象学の方法を経済現象に応用したとする「周期的景気変動の理論―付・5図表」とともに英国学術協会へ送付した。しかしながら、議論にもならずほとんど無視された、特に前者は朗読されたのみである。63年には『金価格急落の原因とその社会的影響』を自費出版するも、当初は注意も引かず74部が売れたのみである(注1)。ジェヴォンズは63年4月の日記に書く、「大きな労力と多くの金銭を使って、ほとんど誰にも知られない出版を続けることは、全く無益であることがはっきりした。出来る限り何処でも何時でも人に気に入られるようにし、別なやり方で人生をもう一度、初めねばならない。」(Jevons,1886,p.182)。64年2月のハーバート宛て書簡にも、とにかく大衆向けの問題について書くことが必要だと述べている。 18世紀末から始まった石炭埋蔵量枯渇論争は、19世紀中葉には一般に広まっていた。幸い地質学はジェヴォンズの学生時代からの得意科目の一つであったし、豪州での仕事でその実地経験も積んでいた。ジェヴォンズは、この問題を取組んだ。「それゆえ、今度こそは、世間の人たちを傾聴させねばならにと彼は決心していた。人の注意を引きつけるためのあらゆる策略が、経済学を農耕神(サトゥルヌス:黄金時代の意かー記者)から取り戻すために用いられている。」(ケインズ,1980,p.155)。 本書は、主として1964年6,7月に大英博物館図書館で執筆され、クリスマス以前に完成、翌65年4月に出版されるというスピードぶりである。ジェヴォンズはまず、エドワード・ハルの『大ブリテンの炭田』(Coalfield of Great Britain, 1861)が、推計したイギリスの石炭埋蔵量の推定値から出発する。それは4,000フィートの深さまでで、830億トンである。一方、石炭の消費量は炭坑記録庁(the Mining Record Office)の報告により、1854年から1863年までに240万トン増加しているとし、消費の年平均増加量を(誤差を含めて)3.5%と推定する。この増加率を使って来る100年後の石炭消費を予測した。1861年の消費量8,360万トンを起点とし、3.5%で引き伸ばせば、1961年の石炭消費量予測は、26億700万トンであった(ちなみに、現実の1961年の消費量は1億9200万トンであった(注2)。いかに長期予測が困難なことか)。 次に1861年から1970年の間の英国石炭消費量の総計を推定し、総消費量はハルの推定埋蔵量を越えるとする。「もし我々の石炭消費が、以後も同率で110年間増え続けるなら、その期間の石炭消費の総量は、1000億トンとなるであろう。…私は、誰もが出すと思える結論を導き出す、我々は長く現在の消費増加率を維持できないであろうと。」(本書、p.214-5)けれども、ジェヴォンズは成長率が維持できない理由として、当時一般に議論された物理的枯渇(現代のローマ・クラブレポートもそうであろう)ではなく、経済的枯渇を問題とする。「消費量が同率で1世紀以上増加するならば、わが炭坑の平均深度は4,000フィートとなり、平均炭価は現在の最優良炭に支払われる最高価格よりずっと高くなるにちがいない。」(本書、p.xvi)からである。 19世紀英国の産業発展と世界経済に対する覇権は、エネルギー源である石炭の優位(価格、品質、炭坑立地、等)にあった。現在の成長率を維持したまま、安価な石炭にエネルギーを頼る限り、炭価は急激に高騰し、半世紀ほどの内に、英国の経済成長と国際競争力が失われると主張した。輸入や代替エネルギーの出現、石炭の経済的使用も、問題を解決しそうにない。「産業の主要動因(agent)の将来的欠乏を救済する合理的な見込はありそうにない。」(本書,p.xiv)イギリスの覇権は長らく維持し得ないとしたのである。 こうしたジェヴォンズの議論は「マルサスの人口成長と石炭の生産に関するリカードの収穫逓減を直接に応用したものであった。」(ピアート,2006,p.13)とされる。石炭の需要面でのマルサス、供給面でのリカードの応用ということであろう。ジェヴォンズの(需要面での)主張を見るに、「今や総ての問題はこれらの見解(マルサス理論:記者)を石炭消費への適用に転じることにある。重大な穀物法の廃止は、我々を穀物から石炭へと導いた。いずれにせよ、石炭がこの国の重大な産品であるというエポックを画したのである」(本書、p.150)。マルサス理論の穀物を、ジェヴォンズは石炭で置きかえたのである。もちろん、その適用はもう少し複雑で、石炭消費量は人口数と各人の平均使用量との二元の量だとは書かれてはいるが(本書、p.150)、「この時までには読者は、出発点となった、慎重に限定された自明の理とはかけ離れたところに連れ去られて」(ケインズ,1980,p.152)しまっているのである。このあたりも、本書が「多分にハッタリの性格をもつ」(寺尾琢磨)とされる所以であろう。 以上のごとき古典派の論理の使用が、ミルをして下院の演説で、ジェヴォンズのこの書を安んじて賞賛させることになる。ミルの賞賛は、ジェヴォンズが世に出る一つの契機であった。ミルの演説が『タイムズ』に大きく取り上げられ、「石炭パニック」と云われるほど世間の注目を引いた。そして、ジェヴォンズ自身も本書の第二版(1866)序文で、ミルの演説への謝辞を述べている。しかし、ジェヴォンズは新しい経済原理を発見し、古典派には批判的ではなかったか。それは書簡にも書かれているし、特に過去の経済学説に触れた『経済学の理論』第二版(1879)序文の最後に明確に書かれている。幸いに邦訳があるので引いておく。「究極において真の経済学体系が樹立された暁には、かの有能であるが、思想の間違った男デヴィッド・リカードが経済学の車両を誤った軌道に外したことが判明するであろう。しかもこの軌道は、等しく有能であるが、思想の間違った彼の賛美者ジョン・スチュアート・ミルが右の車両を混乱に向かってさらに推し進めて行ったところのものである。」(ジェヴォンズ,1981,p.xliv)と。M.ホワイトによると、ジェヴォンズはより独創的な著作を発表するために、世間の認知を得る基礎として、彼が拒否し後に明確に非難することになる分析方法を進んで使用したことになる(ピアート,2006,p.30)。 ジェヴォンズが世俗的な成功を得たもう一つの契機に、時の財務大臣グラッドストーンの知遇を得たことがあろう。財務大臣の国会演説の中でもこの書が言及され、著者との面談も実現した。それは国債削減政策を主張するグラッドストーンにとって、本書の示した救済策がお気に召したからであろう。自由主義原理に反しない石炭枯渇に対する救済策としてジェヴォンズが打ち出したのは、国債の削減であった。それは論理的なものではなく、提案するに勇気を要したものであった(第二版からは「第17章 税と国債について」が設けられている)。もっとも繁栄を謳歌している現在にこそ新たな責務を自覚し、「我々の現在の安価な石炭の浪費的使用に対して子孫に償ができるような唯一の提案は、いくらか大胆さが要求されるものである。私がいうのは、国債の削減あるいは完済のことである。…債務の削減に向けての毎年の歳出は、国家の生産資本を付加し、現在の急速すぎる成長を少しでも抑制し、国家の将来の困難を軽減する,との3つの目的に役立つ」(本書,p.339)。国債削減とその目的との関係について、理論的な説明はなされていないが、ここでも、著者の議論は、ミルが『経済学原理』で展開した国債論に則っているという(上宮,2001,p.201)。 オーエンズ・カレッジの教授就任を助け、彼の名を知らしめ経済学者としての地位を確立した本書は、ジェヴォンズが経済成長を扱った唯一の書でもある。 米国の古書店からの購入。John Crerar library(シカゴ大学)のex-library本で、蔵書票と除籍印がある。見返しの裏側に“From the Author”の記入あり(その下に被献呈者名の記入があったようだが、削り取られている如くである)。私蔵のジェヴォンズの書簡の文字と比べてみたが、”the”の筆跡はよく似ているように思われる。 (注1)詳しくは、1962年6月にも景気変動に関する『二つの図表』を自費出版している。(参考文献)
(H22.12.19記) |