COURNOT, A. A.
, Principes de la théorie des richesses , Paris, Hachette, 1863, pp.iv+528, 8vo.

 クールノー『富の原理の理論』。1863年刊初版。
 著者略歴: Antoine Augustin Couront(1801-77)。スイスと国境を接するフランシュ=コンテ地域圏のオート=ソーヌ県グレーの生まれ。古くからの農民の家系。グレー・コレージュ(中学校とすべきか)を1816年に卒業後、法律事務所で4年間勤務する。ラプラスの著作に啓発され、数学を学ぶためブザンソンのコレージュを経て、1821年パリの高等師範学校に入学。翌年同校が閉鎖された(注1)ため、友人のディレクレ(後、数論で大を成す数学者)と共にソルボンヌ大学に移る。勉学中の1823年から10年間グーヴァン・サン・シール元帥の秘書兼息子の家庭教師を務める。元帥の戦記の執筆を助ける代わりに、クールノーは余暇とパリ滞在を手に入れた。1828年には、力学と天文学に関する論文で理学博士を取得。
 当代の権威である数学者S・D・ポアソンの引きによって、1834年創設されたリオン大学理学部の解析学と力学の教授に就く。興味深い(小生にとって)のは、就職までの間にクールノーは子ハーシェル『天文学』やラードーナー『力学』の仏訳(1834及び35)を行っていることである。後者は後『鉄道経済』を書いてジェヴォンズに影響を与えたあのラードーナーである。世界は微妙に繋がっているのである。
 教授職にあったのは1年ほどであり、これもポアソンの推薦でグルノーブル・アカデミーの校長に就く。彼には吏才があったようで、その後、視学官、ジジョン・アカデミーの校長等教育行政職を歴任する。その間レジオン・ド・ヌール勲章を受けている(1838)(注2)。1862年には一切の公職を辞し、パリで著作に専念する。フランス学士院入りを目指したとされる。著作に対する正当な評価を得られぬまま、元々視力の弱かったクールノーは晩年には全く失明するのである。

 クールノーの著作範囲は大きく三つに分けられる。第一数学、第二経済学、第三科学哲学・歴史哲学である。いずれのジャンルの著作にも社会への関心は通底しているとされるが、彼の名を歴史に高らしめたものは経済学、わけても『富の理論の数学的原理に関する研究』(1838:以下『研究』と称す)である。経済学については他に、本書『富の理論の原理』(1863:『原理』)及び『経済学説概要』(1877:『概説』)の二著作を残している。
 まず、本書の前提となる主著『研究』の功績を丸山徹氏に従って5つ挙げる。1.需要函数概念を初めて明示的に表現したこと。2.ワルラスの一般均衡体系を予示したこと。3.独占生産者の均衡条件を示したこと。4.寡占市場のクールノー均衡(今日的には、非協力ゲームとされるナッシュ=クールノー均衡解)を求めたこと。5.独占、複占から初めて、企業の数が増えるに従って企業は市場支配力を失い、極限には完全競争に至るクールノーの極限定理の証明。である(丸山徹,2008,p.79)。
 「これを出版した年がリカードゥの死からわずか15年後であり、ミルの『経済学原理』(1848)が現れる10年も前であるとはおよそ信じがたい。」(ブローグ,1989,p.67-68)とされるほど時代から屹立した『研究』であるが、その独創性の故か世には受け入れられなかった。そして、『研究』出版の25年後にその第二版とも称すべき『原理』、さらにその13年後に第三版ともすべき『概説』を上梓している。いずれも、『研究』から数学を除く無駄な努力をなしたとして後世の評価は低い。『研究』とは比べようもない書物とされている。
 それでは、なぜ、クールノーは、これらの本から数学を排除しようとしたのか。晩年盲目となってから、数学を使えなくなったためとする論文も見たことがある。これは、盲目の数学者コルモロゴフなどを見ても眉唾である。一般には、『研究』が世間の注目を引かず、出版物としての失敗したことにその理由を求める。クールノー自身『概説』の序文に書いている。「基礎的な思考かあるいは単にその形式か、どちらに誤りがあったかを、1863年の時点で、知りたいと思った。そのため、1838年の仕事に戻り、必要な箇所を拡張し、とりわけ、これらの主題において、こけ脅しの代数的用具を完全に削除した。こうして、その本は「富の理論の原理」と名付けられた。その(『原理』のこと:記者)序文で述べたように、「元の文章を知らしめるのに25年を要したから、何が起ころうとも、他の方法に助けを求めるつもりはない。再度の試みに失敗するならば、不名誉な著者をも見捨てることのない慰めだけが残るだろう。」」(Corot,1877,p.ii)。
 後述するように、もとより『原理』、『概説』は『研究』よりも広範な問題を扱っている。しかし、共通する領域である「交換価値の理論」においても、後の二著が数学を使用しなかった理由として、中山は上記の理由だけで満足しない。さらに具体的に次の二理由をあげる。第一は数学的方法の不毛性である。よく指摘されるように、クールノーの需要曲線は、ゴッセン・ジェヴォンズの如く効用函数を基礎にして導出されたものではない。ただ価格と需要量をグラフでいえば右下がりの連続的な函数関係として捕らえたのみである(クールノーにおいては、横軸が価格)。観察不可能な理論には、基づかない、事実としての「需要の法則」なのである。逆にいえば、客観的事実に集中し、その需要者を考察外とすることは、理論を正確にはするが著しく一面的にもする。価格論が所得分配論と結びつかず、その適用には限界がある。これが中山の云う不毛性である。第二は、部分均衡理論であることの限界の自覚である。「需要の法則」はマーシャル流の部分均衡を表現したものである。一方、クールノーは、全経済組織の相互依存関係を充分に認識していた。他の商品を切り離した数学的な表現方法では、全体観察が不可能であると自認していた。

 次に、具体的に本書全四編の内容を、編をおって見てゆく。主として中山に従って記述するものである。
 第一編は「富」である。この編が主として『研究』に該当する部分である。まず富の概念を明らかにするために、歴史的に法律学と経済学を比較する。法律学は、経済学よりはるかに古からある。人は富なる抽象的概念を有する以前に(私有)財産なる概念を有すること。および、法律学が個人的利害に関係するのに対し、経済学は個人ではなく全体、総量を問題とするからである。経済学の対象は法律学との関係で確立される。広義の経済学は「統計学」、「貨殖学あるいは富の理論」、および「警察・財政・行政」なる三つの部門から構成される。狭義の経済学はこの中、第二の富の理論である。富の理論は数学的法則の概念を適用できる場合にのみ、科学的理論となりうる。しかしそのためには、社会が自由な生産と流通が行われる産業的・市場的段階に達する必要がある。こうして後、生産は力学と比較可能となるのである。
 次いで生産の意義を問う。生産は蒸気機関になぞらえられる。ただし、機械はその能力の最大化を図るに対し、生産は費用の最少化を図る違いがある。生産面から考えると、価格は賃金・利子・原料費等からなる生産費によって構成されるとされるものの、実際流通する商品の価格は、別に消費側の要素にも影響される。こうして、クールノーは需要の法則に辿り着く。
 需要の法則は、前述のごとく、列挙することも測定することもできない多数の精神的原因を排除した、単なる価格と需要量の関係である。『研究』では、「一般に、商品が安価になるほどそれに対する需要は大いになる。…販売量あるいは需要量は一般に、価格の減少に応じて増加する」(クールノー,1936,p.71)函数関係D = F (p) あるいは幾何学的図形で表現したものである。しかし、数学的方法を使用しない本書では、それは価格と需要の相関を表す「表」の形で示される。といっても、この需要表には具体的な数字が書かれているのではない。第一列が価格、第二列が対応する需要、第三列が第一列と第二列を乗じた価値額、よりなる所与の商品の需要表を考える。そうすれば、第三列における需要額が最大となる第一列の価格が存在するであろう…との抽象的な表で論じているのである(本書、p.103)。数学的に最大収益を求めた『研究』に比すべきもない(注3)。
 第二編が「貨幣」である。交換価値の概念、価値標準及び貨幣の経済的機能を論じることは『研究』の第二章・三章に同じ。ただし、『研究』では、進歩した文明状態における理論の理解には不要として歴史的研究の記載はなかった。本書では、古代の貨幣の歴史とフランスの貨幣発達史の記述に第二編の1/3の分量を割いている。歴史が理論を補うものとして、拡充されているのである。
 第三篇「経済体系」は、所得論である。価格論では当該商品以外の商品価格一定とする部分均衡が仮定されている。しかし、実際はすべての商品価格は相互依存し連動している。そして、これら価格は生産者の所得となる。相互依存の経済体系の中での、所得とその変動が論じられている。価格は需要の法則と生産費で決定するので、価格騰落が何れの原因かによって所得に及ぼす影響も異なる。そして、所得の変動を名目的所得変動と実際所得の変動に区分してみている。本編のその後には、内国市場間の流通、国際貿易、課税、人口、労賃と題されている章が続くが、内容に緊密な関連はないとのことである。この第三編は、『研究』の最後の二章(第11,12章)に該当する部分であると思われる。
 第四編は「経済的楽観論」である。内容は国民性から見た経済政策及び自由貿易・保護貿易論の批評で、中山によると形而上学に類するとの評価であるので略する。

 やはり、クールノーは本書でも好評を得ることができなかった。『概説』序文の先に引用した箇所の少し後ろでこう書いている「私の不運を見て欲しい。私の関することではないが、少し時間が経ってみると、私は1838年の訴訟に勝ったとしても 1863年の訴訟には負けたのである。数式を用いた我が著作を顧みんとした人があったにしても、散文体の著作は(云うのも憚るが)書店に好評を得られなかった。「経済学雑誌(1864年8月号)」は、「リカードに留まり」、過去25年間に亘る経済学の領域で俊英のなした発見を考慮していないと私を非難した。こうして、フランス経済学界で公式に誰にも引用されなかった哀れな著者は、充分に他人を引用しなかったと非難を受けた。」(Cournot,1877,iii)
 しかしながら、この文でも窺えるように、『概説』を書くころまでには、幸いにして,刊行時は注目を引くことがなかった『研究』は顧みられ、ワルラスやジェヴォンズの評価を得るようになった。40年になんなんとする日時は要したが、著者生存中にその功績は認められたのである。なお、『概説』については、『原理』同様に数学を用いていないが、前著から多くの枝葉を切り捨てた簡潔で優れた新版と著者自ら評している。

 米国の古書店からの購入。この本もシカゴ大学図書館のex-libraryである。本の背に"Rare Book Room "のラベルあり。このサイトに上げた本で同図書館の廃棄本が多くあるのに気付いたが、ここは払下げ本が多いのであろうか、それも、比較的貴重な本が混じった。今回、本書『原理』を取り上げたのは、もちろん『研究』の「代替品」としてである。『研究』は、100万円以上の価格が付いており、とても手が出ません。

(注1) ムーア、中山では廃校と書かれている。同校はフランス革命の混乱で1795年廃校され、ナポレオンによって再開されたことは明らかであるが、1822年の廃校についてはよく確認できなかったため、ここでは閉鎖としておく。
(注2) クールノーの写真(肖像画)として普通掲載されているものには、胸に勲章が見える。この勲章であろうか。もっとも、1838年は「シュヴァリエ」等級勲章で、1845年には「オフィシエ」等級を受賞しているようであるからどちらかの受賞記念のものか。
(注3) 本書序文には、「幾何学モデルの表示は用いないが、幾何学の精神である正確性を保持して、出来る限り明解かつ簡潔であるように努力した。」(本書、iv)とある。中山によると、本書において限界の思想である孤立的研究法を、数学を使わず用いたのが「植民地の仮説」の方法である(中山、p.313)。
 
(参考文献)
  1. クールーノ 中山伊知郎訳 『富の理論の数学的原理に関する研究』 岩波文庫 1936年
  2. 中山伊知郎 『数理経済学研究』 日本評論社、1937年(引用は、『中山伊知郎全集 第二集 数理経済学研究 T』 講談社、1973年 で示した)
  3. 根岸隆 『経済学の理論と発展』 ミネルヴァ書房、2008年
  4. マーク・ブローグ 中矢俊博訳 『ケインズ以前の100第経済学者』 同文館、1989年
  5. 丸山徹 『ワルラスの肖像』 勁草書房、2008年
  6. ヘンリ・エル・ムーア 山田雄三訳 「アントアヌ・オギュスタン・クールノーの人物」
    (クールーノ 中山伊知郎訳 『富の理論の数学的原理に関する研究』 同文館 1927年所収)
  7. Cournot, A Revue sommaire des doctrines economiques, Paris: hachette, 1877
  8. Shubik, Martin “Cournot, Antoine Augustin (1801-1877)” in The New Palgrave Dictionary of Economics, Macmillan, 1998




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(H23.3.16記)



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